第5話 アニエスの場合 2
もう一度エガリオから呼ばれたのは午後半ばになってからだった。
「レフ様だけで」
シエンヌが付いていこうとするとクロエにそう言われた。
レフが居間に入っていくとエガリオは難しい顔をしてソファから立ち上がった。クロエは部屋に入ってこなかった。ロットナンだけがエガリオの側に控えていた。
エガリオはレフを見ると頷いて、
「あんたの言うとおりだった。ロスタンが仕組んで、アニエスも承知していた」
レフの思っていたとおりだった。あの3人とレフが争った後、ロスタンとアニエスはどういう風に決着を付けるつもりだったのだろう。恐らくは素手である程度レフを痛めつけた後、アニエスが出て行って金を出して終わらせるつもりだったのだろうとレフは思っていた。
「そうか、やっぱり」
エガリオが苦い顔のまま首を振った。
「あんたのことを丁重に扱えといったのをちゃんと聞いてなかったのだな、それで2人の処分だが……」
レフはエガリオを見た。首を振るのをやめて、
「悪いが2人の首は勘弁してほしい。ロスタンはずっと一家のために働いてきた。それを新参のあんたにいたずらを仕掛けただけで殺してしまっては、当然不満を持つ者が出る。一家の中に亀裂が入る恐れがある」
いたずらと言うには少し悪質だった。出来ることなら2人の首をレフに差し出してしまうのが一番簡単なのだ。少なくともエガリオとレフの間には後腐れがない。しかし、いくら今回のクーデターの功労者であっても、一家の中でまだ顔も知られてないレフのためにロスタンを処分しては、当然納得しない者が出る。まだカンティーノ一家がエガリオ一家になったばかりでごたごたするのは好ましくない。元から子飼いである者達を除けば、まだ渋々エガリオに従っているに過ぎない者が多いのだ。その子飼いの間には波風を立てたくない。
「別にかまわない。支配人には店の払いをまけてもらったし、付けてくれた女達も上玉だった。アニエスはアンジエームを案内してくれて、色々便宜も図ってもらったしな。あいつの首なんか見ても嬉しくはない」
エガリオは明らかにほっとしていた。同時に、やはりレフは基本的にはお人好しなのだという認識を新たにした。人を従わせるつもりなら、恐れさせる方がいい。自分を甘やかしてくれる者と恐れている者のどちらかを選ばなければならない、という二者択一を迫られたときには甘い顔を見せた方を裏切ることが多い。尤もそんな裏切りなどレフは気にしてないのかもしれないが。
「そうか、助かる。まあ処分しないというわけにはいかないから、ロスタンは降格してアンジエームから出す。しばらくはどさ回りをさせる。アニエスはあんたにやろう」
「アニエスを呉れる?」
「そうだ」
エガリオがドアのそばに立っているロットナンに合図をした。ロットナンがドアを開けると、アニエスと中年の女が入ってきた。アニエスはうつむいて女の後に従っている。
「アニエス」
エガリオが声を掛けるとアニエスがびくっと顔を上げた。きれいな顔に恐怖が浮いている。
「困ったことをしてくれたな」
「…はい」
またうつむいて、消え入りそうな声で応えた。
「レフが要求すればおまえの首を渡さなければならないところだった」
アニエスが顔を上げて目を見開いた。涙が一筋落ちた。握られた手がぶるぶる震えている。
「レフはそこまでの必要はないと言ってくれた」
アニエスの表情が目に見えて柔らかくなった。
「しかし、なにも処分なしというわけにはいかない。ちゃんと言っておいたにもかかわらず、俺の大事な客分に失礼をしたのだからな」
「……はい」
「おまえをレフに隷属させる」
アニエス唇をかんでうつむいた。肩が小刻みに震えている。しばらくして小さな声で、
「寛大な処分、……ありがとうございます」
「礼ならレフに言うんだな」
アニエスと一緒に入ってきた女に向かって、
「ダナ、アニエスに隷属紋を刻め」
ダナと呼ばれた女は派手な化粧をしていた。しかし体形が崩れ始めていて、化粧ではもうごまかせない年齢になっていた。以前はずいぶん美人だったのだろう、二重あご気味ではあったが、鼻筋が通った小顔だった。
エガリオがレフに女を紹介した。
「レフ、奴隷商のダナだ。一家の奴隷商売を一手にやっている」
ダナと紹介された女はレフに向かってスカートの端を持ち上げ、片足を引いて丁寧にお辞儀をした。貴人に対する辞儀の仕方だった。それが板に付いている。貴族の屋敷に出入りすることも多いのだろう。
「ダナ・フェイウェイと申します。今後ともよしなに」
レフは頷いた。エガリオの一家の奴隷商売を任されているのなら、一家の中でも相当に有力なメンバーであるはずだった。そしてエガリオの勢力が拡大すれば、この女の商売も盛んになってますます力を付けるはずだった。ダナは値踏みするようにレフを見た。
「お名前を頂けますか」
「レフ、レフ・ジン」
「レフ・ジン」
レフの名を繰り返したダナはアニエスに向かって、
「跪きなさい」
言われたとおりに跪いたアニエスの後ろに回って、アニエスのうなじに右手をかざした。掌をアニエスの頸に向けている。
「契約と知識の神、メリモーティアの名において、アニエス・ベーテをレフ・ジンに隷属させる。アニエス・ベーテの生死はレフ・ジンの内にある。アニエス・ベーテ、契約を受け入れるか?」
跪いたままアニエスが答えた。
「はい」
レフの方に顔を向けて、
「レフ・ジン、契約を受け入れるか?」
「ああ、受け入れる」
レフの答えを聞いてダナの手が青く光った。手掌から隷属紋が浮かび、アニエスのうなじに降りていった。隷属紋がアニエスのうなじにつくかつかないかのところで一瞬輝いて、アニエスの上半身が透けて見えた。そして隷属紋はそのままアニエスの体に入っていった。
「うっ」
アニエスの顔が、ゆがんだ。肉体的な苦痛だったのか、精神的な苦痛だったのか、レフには分からなかった。
「さあ、アニエス。これでおまえはレフ・ジン様の奴隷になりました。よくお仕えするのですよ」
アニエスが立ち上がった。レフに向かって頭を下げて、
「心からお仕えいたします」
涙が1、2滴床に落ちた。思いも掛けなかった形で昨日までと違う日々が始まる。軽いいたずらのような気持ちでやったことだったが、その代償は払わなければならなかった。
レフがアニエスを連れて出て行った扉を見つめながらダナが訊いた。
「いいのですか?」
エガリオにはダナの質問の意味が分からなかった。
「なにが?」
「
なんだそんなことかと、エガリオが破顔した。
「分かってる。だが、レフ・ジンというのが真名ではなくても名であることには違いない。契約には支障がないだろう」
「レフの方はそれでも良いのですが…」
ダナが言い淀んだ。何だというようにエガリオがダナを見た。
「アニエスの方もなんだか真名とは違うような」
たくさんの契約を仲介してきたダナのこの方面の勘は鋭いものがあった。エガリオは少し考え込んだ。
「あいつは赤子の時に捨てられたんだ。その前のことは分からない。どんな家の生まれたのか、どんな事情で捨てられたのか。だから真名が他にあるかもしれないが、少なくとも俺もあいつも知らない。だとしたら気にすることじゃないだろう」
エガリオは人材発掘の一手段として孤児院にも手を伸ばしている。優秀な子供がいれば小さい頃から仕付けて部下にする。そんな手段で何人も有能で忠実な手下を手に入れている。アニエスも、すごく飲み込みの早い子供がいるという孤児院の院長からの話で、まだ幼い頃に手元に引き取ったのだ。確かに読み書きも計算も直ぐに覚えて、役に立つことを10歳以下の段階で示した。このまま成長すればやがて一家の中でもかなりの責任を任せられるようになるだろうと期待していた。
しかしもう奴隷としてレフに渡してしまったのだ、今更アニエスの真名がどうかなんて考えて仕方がない。そう結論づけてこの話は終わりだった。
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