第4話 ウルビの出来事 2
レフが下りてきたとボーイに告げられて、アニエスは休憩用スペースを出た。予想通り一刻ほど経っていた。レフの両脇に立ってしなだれかかっているアイディーンとロリーナの顔が上気してうっすらと赤かった。両方からレフの腕をとって、自分の胸に押しつけている。女達のうっとりした様子に気づかないふりで、
「もっと何か召し上がりますか?」
というアニエスの問いに、レフが首を振って答えた。
「いいや、上でも食べたしもう十分だ」
「仔鹿」を出たのはもう真夜中に近い時間だった。道をよく知っているアニエスが先にたった。そんな時間でも一晩中たかれるかがり火に照らされてたくさんの人が歩いていた。酔っ払いが大声で何かわめいていたり、肩を組みながらふらふらと歩いている集団が居たり、暖かい時期で凍死の心配がないため道の端で寝ている男達も少なくなかった。
「手を繋いでください」
アニエスがレフを振り返って言った。
「はぐれると面倒ですから」
確かに一旦はぐれると見つけるのが難しいほどの人が歩いていた。灯りも頼りないから人相を確かめるのも難しい。レフにとっては無用の心配だったが、そんなことをわざわざ口に出すこともなくレフが差し出されたアニエスの手を取った。レフとアニエスの体がこれまでにないほど近づいた。
「いいのか?」
ささやきに近い小さな声でも十分に聞こえた。
「えっ?」
「さっきはまるで汚物を見るような目で俺を見ていただろう」
確かに女の扱いに慣れた育ちの良さそうな若い男というのは、アニエスの好きなタイプではなかった。アニエスの目からはレフは、食事の作法や日頃の立ち居振る舞いなど妙に行儀よく見えた。その行儀が決して付け焼き刃ではなくきちんと身につけた作法であるようにも見えた。
しかし、このレフの言葉はとりあえずは否定しなければならない。
「いえ、そんなことは……。むしろ安心したんです。」
「なに?」
「シエンヌ様に手を出していらっしゃらないでしょう」
レフは言葉に詰まった。
「……シエンヌが話したのか?」
「いいえ、でも何となく分かるんです。レフ様とシエンヌ様の間には体の関係がないというのは。」
レフとシエンヌの間には体を交えた男女の間によく見られる、互いに寄りかかるような、少し馴れ合ったような雰囲気がない。
シエンヌは相変わらずレフを真正面から見ようとしていない、とアニエスの目には映っていた。隷属紋を刻まれて反抗する気はないが、心からレフに従う気もないと感じられた。レフもそんなシエンヌの心の動きに気づきながら強いて何かをする気もないようだ、とアニエスは見ていた。アニエスが普段接する男達とは女に対する態度が違う。
「ですから、私、レフ様は女に興味がないのかと、あるいはひょっとしたら男の方がお好きなのかと疑っていたんです。シエンヌ様はあんなにお綺麗なのにお抱きにならないから」
アニエスの言葉にレフは肩をすくめた。そのとき横から声がかかった。
「けっ、頼んなさそうなおぼっちゃまが女をお持ち帰りしてるぜ」
「どうせ親の金だろうけど、いいご身分だぜ」
「ずいぶんと上玉じゃねえか。是非こちとらにもお裾分けを願いたいものだぜ」
顔を向けると、3人の体格のいい男達だった。腰に長剣を吊り、鎧こそ脱いでいたが、服の下に鎖かたびらを着込んでいるのが分かった。傭兵の看板を掲げているような男達だった。酒を飲む場所でさえ、武装を解くことはない種類の男達だった。酒臭い息を吐きながら目は冷酷な光を帯びていた。
レフの顔から表情が消えた。細められた目で3人の男達を見ている。すでに3人を妥協することができない敵と認識していた。そんなレフの変化に気づかず、
「どうした?返事も出来ねえのか。俺たちにもお裾分けを、と言ってるんだぜ」
「その女でなきゃ別のでもかまわねえ、そのぶんの金をくれりゃーな」
3人はあくまでレフに絡むのを止めなかった。
トラブルの気配に周りを歩いていた酔っぱらい達が距離を取り始めていた。その場から居なくなるわけではなく、周囲を取り巻いて興味深そうに成り行きを見ていた。腰を下ろしてじっくりと成り行きを確かめるつもりの者もいた。けんか沙汰などウルビでは珍しくもなかった。たまたま通りがかった酔っ払い達にとってはいい
アニエスはそっとレフから遠ざかった。男達の1人がつかつかと近寄ってきた。
「てめえ、なに黙ってんだ。話しかけられたら返事くらいしやがれ」
レフの肩をつかもうと手を出した。男の手を避けるようにレフの体が沈みこんだ。次の瞬間男が吹っ飛んで、1ファルも離れた地面に叩きつけられた。受け身もとれずに左手が体と地面の間に挟まれて、ボキッと嫌な音がした。ざわっと見物人達が声を上げ、さらに少し距離をとった。
「「野郎!」」
思いも掛けない反撃に残りの2人が剣を抜いた。遠巻きにしていた見物人達から声が上がった。
「やっちまえ」
酔っぱらい達にとってはどっちが勝っても関係なかった。見ているものが面白ければそれでいい。それで誰かが傷つこうが死のうが関係なかった。声援は、両方とも頑張ってせいぜい楽しませてくれ、と言う見物人達の期待だった。
レフは冷たい目で2人を見ていた。
「くたばりやがれ!」
レフに近い方にいた男が剣を振りかぶった。その瞬間レフが男の懐に飛び込んだ。
「ギャーッ」
悲鳴とともに剣が落ち、男が右肩を押さえてうずくまった。うずくまった男の顎をレフが蹴り飛ばした。蹴られて長々と伸びた男はピクリとも動かなくなった。
レフの右手にナイフが握られていた。刃に付いた血を一振りして落とした。油断なく残った1人を見つめている。長剣を構えた男の額に汗が浮いた。男の目には、だらりと下げたレフの右手に握られたナイフの刃が、かがり火の明かりを反射して赤く光っている
“攻撃のための大きな予備動作はつけ込まれる”
3人の中で一番腕が立つのがこの男だった。わずかに剣を引いて、いきなり足を踏み出して剣を突き出した。キンという音とともに男の長剣がはじき飛ばされ、レフのナイフの柄があっけにとられている男のみぞおちをえぐった。舌を突き出した男の体がくずおれた。倒れた男の右手を踏んで、掌をナイフで地面に縫い付けた。また悲鳴が上がった。
薄暗いかがり火の明かりでは周囲にいた人間には何か起こったか正確には分からなかった。分かったのはほんの短時間の間に3人の男達が戦闘不能になったことだった。レフの鮮やかな身のこなしに賛嘆のどよめきが上がった。
レフは男の掌を地面に縫い付けたナイフを抜いて、泡を吹いて気を失っている男の服で血をぬぐうとナイフを鞘に収めながら立ち上がった。
周りで見物している人々に視線を奔らせてから、呆然としているアニエスに近づいた。
「帰ろう」
レフに声を掛けられてアニエスは我に返った。暗殺の腕はともかく、真っ向からの闘いにこれほど強いとは思ってなかった。体が細かく震えていた。抑えようとして抑えきれなかった。
「は、はい」
「こっちでいいんだよな?」
「は、はい」
今度は手を繋ごうとはアニエスは言わなかった。レフとアニエスが近づくと周りを囲んでいた見物人達が割れた。その間を通って、2人はウルビを出た。帰り道、青い顔をしたアニエスは一言もしゃべらなかった。
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