第3話 アンジエームの街 2
アニエスが通りの北側の塀を指さしながら説明を始めた。
「ベンディッシュの北側は貴族街と、官庁街です。王宮に近いほど身分の高い貴族の屋敷になっています。ですからベンディッシュに面する屋敷に住んでいるのは下級貴族が多いのですが、それでもあの広さです」
街の人口構成として貴族の方が遙かに少ない。かなりの面積を官庁の建物に取られているにしても、貴族街と平民街はアンジエームの街をほぼ半々に分けていた。
アニエスの語調には苦々しいものが混じっていた。アニエスの貴族階級に対する気持ちが露骨に表れていた。
「官庁も税関と海軍本部を除いて、北側にあります」
シエンヌは知っていることだったが、アニエスは王都に来たのは初めてだというレフを基準に説明した。3人はベンディッシュ通りを街の中心に向かって西に進んだ。それにしても道の北側と南側で極端に印象が変わる道だった。子供達が騒ぎながらすれ違ったり追い越したりしていく。それも南側の歩道だけだった。歩道を歩く人も北側は少ない。たまに北側の歩道を歩く人を見かけると、その服装は南側を歩く平民達よりも遙かに華美で上等な物だった。
ベンディッシュとマーフェルトの交差点が街の中心で、近づくに従っていろんな店が増えてきた。シエンヌがキョロキョロと周りを見ている。レフがからかうような口調で、
「何だ、シエンヌはアンジエームの住人だったんじゃないのか?まるでお上りさんだぞ」
シエンヌは顔を真っ赤にして反論した。
「わ、私は候補生になって初めてアンジエームに来たんです。もともとは結構遠いところの貧乏貴族の出身ですし、休みの日も街を歩けるほどの余裕はありませんでした。金銭的にも時間的にも。ですから私用でこんなところを歩くのは初めてです」
アニエスはシエンヌを横目でちらっと見て説明を続けた。
「お店も、どんな物を売っている店でもそうですが、ベンディッシュとマーフェルトが交わるハウタームの交差点の近くは高級店です。宝石や服なんかとんでもない値段が付いています」
王族や高位の貴族御用達の高級店は、服も装身具も全てオーダーメイドだった。材料も最高の物を使う。その品がどれほどの値になるのか気にするような人間が行くところではなかった。
ハウタームの交差点に近づくに従って人通りが増えてきた。車道もひっきりなしに人や荷を乗せた馬車が行き交っている。歩道も結構広かったが注意してないと人とぶつかる恐れがあった。
「この通りを南に行くとウルビです」
アニエスがハウタームの交差点が見え始めた辺りで南に下りている道の奥を差しながら言った。レフが覗いてみたが、まだ陽が高い時間の歓楽街は閑散として、鳥が道に落ちている残飯をつついていた。ウルビに限らないが夜の繁華街の昼の姿は侘しい。日の光の下で夜は隠されているみすぼらしさが露わになっている。
「おいでになるなら案内します。エガリオ様の紹介なら特別にサービスしてくれる店がたくさんありますから。料理でもお酒でも女でも」
レフは肩をすくめた。アニエスの表情を探ってくるような視線が煩わしい。
「そうだな、そのうちに頼もうか」
アニエスがさらに付け加えた。
「はい、特に女はどんな要望にでも応えられるだけのものを揃えています。やんごとなき方面には多様な趣味をお持ちの方が多うございますから」
アニエスはレフが結構良い身分の出身ではないかと見当をつけていた。だからこれはアニエスの嫌みだった。それにエガリオの態度から、しばらくレフ達がエガリオの側にいる可能性が高いことを感じていた。できるだけレフのことを把握しておきたい-そんな思いもあっての言葉だった。レフは一つ頷いて、無表情にウルビに曲がる通りを通り過ぎた。
交差点の近くでは北側にも、貴族の屋敷に混在して店があった。やたらに格式の高そうな料理店や、宝飾店、衣料品店、武器店、菓子店、花屋などが並んでいた。
「北側はもっぱら貴族の御用達です。平民も金を持っていれば追い出されはしませんが居心地はよくありません」
「へえー、アニエスは行ったことがあるような口ぶりだな」
アニエスは口の端をわずかに上げた。
「エガリオ様のお供で高級レストランに行ったことがあります。執事のロットナン様と。相手はお貴族様で、格式が必要とのことで、じっと後ろで立っていただけですが」
アニエスの口調を聞いていれば彼女が貴族に対してどんな感情を持っているかレフにもよく分かった。
マーフェルト通りはベンディッシュ通りよりも広く、片側で馬車が2台並んで走れた。港から貴族街を通って王宮に通じているため、交通量も多く、道の中央は貴族の馬車の専用になっていた。ベンディッシュ通りよりも荷を積んだ馬車の割合が高かった。港に荷揚げされた荷を運ぶ馬車が多かったからだ。
交差点に立つと、街の北側で街の面積の1/5を占める広大な王宮が見えていた。高い城壁の向こうに何層にも塔がそびえ、真ん中の一段と高い塔を囲む建物が内宮だった。町中の道はほぼ碁盤目状だったが、王宮の中はやたら曲がり角が多く、回り道だらけだという。王族だけは特別な道をたどって門から内宮までショートカット出来るが、それ以外の人間は貴族といえど曲がりくねった道をたどらなければならない。城壁の前にはゼス河の水を引いた広い堀があり、街と王宮の間で架かっている橋は正門に通じる1つだけだった。
アニエスはハウタームの交差点を左に曲がって、港の方へ向かった。
「カンティーノ一家の-もうすぐ名前が変わると思いますが-縄張りはベンディッシュの南でマーフェルト通りの東側になります。つまり今まで歩いてきた道の南側です。マーフェルト通りの西側は3つか4つの勢力がしのぎを削っています」
貴族や官吏でも裏社会と接触を持つことはある。そんなときはコネを頼りに接触してくる。接触する相手の縄張りがどこかなど気にしない。だから貴族街、官庁街には裏社会のボスの縄張りというものはなかった。
「西側はエガリオと仲が悪いのか?」
エガリオと呼び捨てにしたため、アニエスは眉をしかめた。
「いえ、必ずしもそういうわけでありませんが……。それぞれの勢力の都合でくっついたり離れたりします。ですからどの勢力も信用できません」
「そうか、裏社会は裏社会でいろいろ角逐があるわけだ。エガリオが東半分を支配下に置いたら、西も飲み込もうとするんじゃないか?」
アニエスはびっくりしたような顔でレフを見た。実際アニエスもそう思っていたからだ。エガリオの手下の中には、妙に西に対して妥協的なカンティーノに批判的な男達もいたし、エガリオ自身も時々欲求不満を表情に表しているのを身近に仕えるアニエスは見ていた。エガリオはとぼけたような表情を手下に見せることが多かったが野心的な男だった。その野心を実現させるため無理をするということは少なかったが、機会を逃すことはなかった。いまの、カンティーノ、バダガスを排除した行動は乾坤一擲の賭けだったが、賭に勝った以上最大限に収穫を試みるだろうとアニエスは思っていた。その収穫の中には当然アンジエームの裏社会の全支配が入ってくるだろう。エガリオの心情をレフに見透かされているようで愉快ではなかった。
「ええ、まあ…、私のような下っ端には分からないことです」
曖昧な返事をするのが精一杯だった。
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