第3話 アンジエームの街 1

 ノックの音でシエンヌが目を覚ましたのは、カーテン越しに差し込む陽がかなり高くなってからだった。シエンヌは横で寝ているレフを見た。軽やかな寝息が途絶えることなく続いており、起きる気配は全くなかった。


“寝顔は、特に明るいところで見るとなんだかひどく幼く見える…”


 また控えめなノックの音がした。シエンヌはベッドから起き出して、手で軽く髪を整え、夜着の前をきちんと合わせてドアの方へ近づいた。ドアのノブに手を掛けて廻した。寝る前にレフが張った結界糸のことは頭に浮かんでこなかった。かちっとノブが回り、結界糸が切れたとたん、シエンヌは背中に異様な気配を感じて息が詰まり、体が固まった。冷たい刃を肌に直接突きつけられたような恐怖だった。おそるおそる振り返ると、レフがベッドの横に立っていて、底光りのするような目でシエンヌを見ていた。手には抜き身の短剣を持っていた。しかしすぐに状況を悟ったようで、視線が和らいで短剣を鞘に戻して枕の下に入れ、ベッドに座りこんだ。


「ふうーっ」


 シエンヌは止めていた息を吐いてレフから向き直り、ドアを開いた。ドアノブを廻す手が震えて動悸が収まらなかった。


 外にはクロエが立っていた。後ろに部下のメイドを控えさせていた。


「おはようございます。シエンヌ様」


 クロエが膝を曲げ、頭を少し下げて挨拶した。


「お起こししてしまいましたか?」

「いや、もう起きようと思っていたところだ」


 クロエの言葉を聞いたレフが代わりに答えた。


「洗面用のお湯と朝食をお持ちしました」


 クロエが合図をすると後ろに控えていた若いメイド達が2人、1人は湯を入れた桶と洗面器、タオルを持って、もう1人は朝食をのせた盆を持って入ってきた。盆の上にはパンとチーズ、あぶった干し肉とサラダをのせた皿が2枚、果物を搾ったジュースが2杯載っていた。


「エガリオ様が」


 “様”付けで呼ばれる男なのだ。そう言えば“通路”でも親分と呼ばれていたな、昨夜からのいきさつを考慮しても結構な大物なのだと、寝てすっきりした頭でレフは思った。


「おそらく10日ほどは手が離せないので、もし退屈なら街の方へでも出かけていただいてかまわないとのことです」


 後はエガリオが属する組織内の話になる。また誰かを暗殺するということでもなければレフの出番はない。索敵、通信ならレフもシエンヌも多少の出番はあるだろうが、エガリオ達だってそのくらいの手段は持っているだろう。索敵にしろ通信にしろ、組織内の情報をレフに漏らすことになる。昨夜ならともかく、これ以降はレフに不用意な対応はしないだろう。信用できると見極めるまでは、渡す情報は最低限にするはずだ。


「街に出かけられるにせよ、ここにおられるにせよ、当面の資金だとのことです」


 クロエが朝食の盆の横に革の袋を置いた。大きな袋ではなかったがレフが持ち上げるとずっしりと重かった。


「そうだな、俺はアンジエームの街のことを知らないから、少し歩いてみて土地勘を得たい」

「そうなさった方がよろしいかと、お出かけになるときにはアニエスをお連れください」


 クロエは盆を持ってきた方のメイドを指した。


「ん?」


 レフの疑問に対して、


「アニエスはアンジエームの生まれでこの街のことは隅々まで知っております。それにエガリオ様の息のかかった店や、便宜を図ってもらえる店のことなどにも詳しい娘です。レフ様のお邪魔にならない程度の腕も持っております。何よりお2人がここにお戻りになったときに、お2人の顔を知らない者がご無礼を働くかもしれません、お連れくだされば何かと便利かと思います」


 建物の中はざわめいていた。自分に向けられたものではなかったのでレフは気にしなかったが、かなり殺気立った雰囲気が階下にあった。そんな中でこの家に閉じこもっているのも気詰まりだった。案内役がいるのならちょうど良い。


「そうだな、頼もうか」


 アニエスと呼ばれたメイドがレフとシエンヌに向かって頭を下げた。きちんとしつけられているのだろう、貴族の館のメイドと言われても遜色ない礼儀だった。シエンヌよりいくらか小柄で、黒い長い髪を二つに分けて三つ編みにしていた。大きな青い目をしていたが、やや浅黒い肌は異国の血が混ざっていることを示唆していた。おそらく二十歳はいってないだろう。


「朝食がお済みになった頃に着替えを持って参ります。お出かけはいつ頃がよろしいでしょうか?」

「服をお替えになった方がよろしいかと、特にシエンヌ様は普通の服の方が街を歩くには目立たないかと」


 クロエが横からそう付け加えた。たしかにシエンヌの服は親衛隊の魔法士の服で、独特なマントを別にしても普通の町娘が着る服ではなかった。シエンヌはそう言われた初めて気づいたように、


「ああ、そうですね。お願いします」

「着替えたらすぐに出かけよう。もう陽もずいぶん高いようだし、この家の雰囲気は息が詰まりそうだ」




「おいでになりたいところにご希望はございますか?」


 2軒ほど離れた家の裏口から出ながらアニエスが訊いた。独立した家屋のように見せかけている3軒の家が中で繋がっていた。それぞれに別々の家族が住んでいるように見せているが、全員がエガリオの部下だった。


“こんないろいろと小細工をしたアジトを持っているのだから、警戒されるのも当たり前だな”


 というのがレフの感想だった。


 レフは白い膝丈の襟なしの上着、足首の見える長さのズボンは紺、同色の幅広の帯に短剣を差していた。長剣や槍を持って町中歩いているのはそれなりの職業の人間-警備隊の隊員、兵士、隊商の護衛を生業としている傭兵達など-だったが、普通の男達や女達も短剣くらいは持ち歩くのが普通だった。アンジエームは治安が比較的いいとはいえ、どこでも安全という訳ではなかった。シエンヌとアニエスは普通の町娘の格好-襟の付いた長めの丈の白のブラウスに膝を隠す長さのスカート-シエンヌは緑、アニエスは赤を基調として細かい模様の縫い取りが着いていた-で、アニエスはブラウスの裾をスカートの中に託し入れていたが、シエンヌは外に出していた。2人ともつばの広い帽子を被っていた。ほっそりした体つきは一見よく似ていたが、シエンヌにはどこか良家の子女を思わせる楚々としたとした印象があり、対照的にアニエスには今にも弾み出しそうな活発な印象があった。2人とも美少女と形容して誰もが納得する容姿をしており、不用意に治安の悪い場所にでも迷い込めば男達のぎらぎらした欲望の対象になることは確かだった。


「まず街のざっとした地理を知りたい、細かいところはそれに足していけばいい」


 アニエスは軽く首をかしげた。


「それならまず東門と西門をつなぐベンディッシュ通りと、港と王宮の間を結んで南北にはしっているマーフェルト通りに沿って歩いてみるのがいいかもしれません。いろんな店も多くありますし、この街の中ならどこへ行くにもこの2つの道を起点にして考えるのが普通ですから」


 出てきた家から北へ向かって300ファルほど歩くと幅広い道路に出た。ベンディッシュ通りだった。高級な馬車が悠々とすれ違えるほどの幅があり、敷石で舗装されていた。両脇の歩道に向かって緩い傾斜が着いており、歩道と車道の間に溝があった。道の北側は高い塀に囲まれた広い屋敷が並んでおり、南側は3階から4階建てのレンガ造りの家がびっしりと並んで建っていた。


















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