der Tod
春風
死神
またあいつがやってきた。深い闇を携えて。
いき詰まると奴は必ず現れる。
何度追い返しても、何度突き放しても。
「言っておくが」
闇を纏うあいつが低い声で言った。
「私はおまえに追い返された憶えも、突き放された憶えもない。おまえが私を見ないようにしているだけさ」
奴は感情の無い顔で、ふふふと嗤った。悪意のない闇が、じわりと広がる。
「私はいつもおまえの傍にいるぞ。天井の隅や電車の影、階段の一段下やフェンスの隙間。おまえの行くところには、どこへだって行くさ」
「うわ、ストーカーじゃん。気持ち悪…」
「……」
おれが茶化してみても、奴はそれには応えない。沈黙が、闇が、静かに広がっていく。
「空元気で茶化しても無駄だ。私は知っているぞ」
あいつが氷の息で嗤う。
視界が黒く染まり始める。自分の手も足も見えなくなる。ひやりとした冷気が、そろそろと肌を撫でた。そして心にも、闇色が染みてくる。
「終わりにしたいのだろう? 簡単だ」
低く、静かな声。淡々としたその声は、どこか優しく響くのだ。
「私の手を取ればいい」
彼が手を差し出す。真っ白い手だった。闇の中で、白が際立つ。自然とその手を目が追った。
こいつは、周囲を闇で塗りたくって、肘から先にだけ光を残しておく。だからそこだけ白が映える。
暗闇に浮かぶ、白。
吸い寄せられるように、目が離せなくなる。
闇の中の、唯一の光。
勿論、違う。しかし、暗く冷たい闇の中で、するりとその手を出されると、どうしようもなく引き込まれる。思わず縋りつきたく……。
「……っ、ならない!」
はっとして後ずさる。いつの間にか延ばしていた手を、慌てて引っ込めた。
心臓の音が煩く鳴る。冷たい汗が流れて足がガクガク震えた。両手はかじかみ、感覚がない。
「もう少し、だったな」
奴は口を歪めてにやにや嗤った。それなのに硝子玉の目には感情がない。恐ろしかった。
「やめろ……、やめてくれ」
出した声が情けなく震えている。寒い。
「私じゃない。おまえが自分でこちらに来たんだ」
「嘘だ……」
「嘘じゃない」
「……」
分かっていた。心のどこかで本当は。
「辛いだろう。楽になりたいだろう。なら、私の手を取れ」
分かっていた。こいつを呼び出してしまうのはおれ自身。
でも……。
おれは必死に首を振った。あいつが怪訝そうに言った。
「いずれ、おまえは私の手を取ることになる。遅いか早いかの違いさ。ならば、いいじゃないか、今すぐでも」
天井の隅や電車の影、階段の一段下やフェンスの隙間。
そう、こいつはいつだって色々な場所から手を伸ばして、引き込む時を狙っている。
こいつが迎えに来る度に、闘わなければならないのだ。凍えるような闇と、縋りたくなるような白と。
「……いつかあんたの手を取るなら、今すぐでなくてもいいだろ。わざわざ迎えに来なくたって…!」
精一杯の抵抗に、彼は淡々と言った。
「完全歩合制なんだ。迎えの方が断然早い。私だってハワイ旅行に行きたいのさ」
「はあ?」
突然の発言に、素っ頓狂な声が出た。何を言っているんだ? ハワイ旅行?
青い海に青い空、燦々と降り注ぐ太陽。そこに立つ真っ黒なこいつ……。
みるみる浮かんでくる想像が、あまりにも似合わなくて、ちょっと笑ってしまった。それから、ふと思い当たって尋ねる。
「おれがあんた手を掴んだら、あんたに給料が入る仕組み?」
「そうだ」
彼は悪びれる様子もなく答える。殴りたい。無理だけど。
「これは、おまえにも良い話だろう。怒りも悲しみも苦しみも、痛みさえも感じなくなる。暑さ寒さで苦しむこともない。私の手を取れば楽になる」
彼は先程と変わらず、低く静かに話し始める。
しかし。
何故だろう、彼の言葉に引き込まれない。
「それは何も感じなくなるということだろ? 嬉しいことや楽しいことさえも」
言い返す声が震えない。
彼は言った。
「確かに、喜びや幸せも感じなくなるが、それは今も同じだろう」
確かにそうかもしれない。
そうでなければ、彼がこんな風に迎えに来ることはないのだから。
嬉しいこと、楽しいことなんてちっともなくて、苦しいこと、辛いことばっかりだ。
あぁ、それでも。
「それでも、さっきのあんたのハワイ旅行発言は、ちょっと面白かったよ」
笑って見せた。
闇がほどけるのがわかる。大丈夫だ。行ける。
「行くのか」
彼が言った。
「良いのか」
振り返って見た彼は、相変わらずの無表情で、何を考えているのかわからない。
「良いんだ」
力を込めて返事をした。
「良いんだ。あんたの手を取るのは楽かもしれないけど、だって、それは、いつだってできるだろ?」
おれから手を延ばさなくても、少しでも気を抜けば、あっという間に手を取られてしまう。
それならば、自分から掴みに行かなくったっていい。
今は苦しいことしかなくても。
つらいことばかりかもしれないけど。
きっとさっきみたいに、思いがけず笑ってしまうようなことが起こるかもしれないから。
そうしたら少しだけ前を向けるから。
「おれ、もう少し生きてみるよ」
急激に、視界が鮮明になる。
大きな機械音を立てながら、電車がホームに滑り込んでくる。
駅のアナウンス、人々の話し声、鳴き喚くセミ、まとわりつくような熱風。
あいつは、もういなかった。
おれはふーっと長く息をついてから、
何事もなかったように電車に乗り込んだ。
ホームの、黄色い線のその向こう。今日も、白い手が呼んでいる。
der Tod 春風 @s0v0p
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