屋上から見上げた夜空はどこか哲学的だった。

syatyo

屋上から見上げた夜空はどこか哲学的だった。

 私は屋上に続く扉の前で陰鬱な気配に満たされた空気を一息に吸い込む。直前まで肺を満たしていた涼気は陰りを帯びた湿気に入れ替わり、それに伴って私自身の心も暗い感情に支配されていく。


「今日で終わり」


 覚悟を決めるために一言呟いて、ドアノブに手をかける。


 一ヶ月前のことだった。両親の慢性的な不仲と将来が見定まらない不安感が募って、不意に死にたいと思ったのは。それから暗闇の奥深くまで到達するのにそう時間はかからなかった。死を願う自分を認識する度に嫌悪感に苛まれ、そんな負の感情を拭うためにわざと明るく振舞って、本心を隠し続ける自分を殺したくなって、死にたくなって——気づけば、最初の希死念慮から数日で、抜け出すことのできない負の螺旋に巻き込まれていた。


 それから自殺しようと決意するに至った今日まで一ヶ月弱もかかったのは、恐らく小さな期待があったからだ。小さい頃に眺めていた仲のいい両親に戻るのではないかという、希望というには頼りないごく僅かな期待が。


 しかし、私の心の支えになっていた期待が幻想に変わったのはたった二日前のことだった。ついにと言うべきか、やっとと言うべきか、両親は離婚を決意した。もちろん私はそのことに驚くことはなかった——だが、もう一つの事実が私の不安定な心を大きく揺らがせた。


 私は母の方についていくと決めていた。両親の喧嘩は私からしてみれば、全て父の自己中心的な考えが原因だと思っているから。しかし、私の行方は決まっていた——父だった。


「でも、もう関係ないから……」


 誰に向けたわけでもない言葉を——あるいは自分自身に向けた言葉を扉の前に置き去りにして、私は錆びついた扉を押し開ける。ギギギと古めかしい音が私の鼓膜を震わせる。いつもなら耳障りだと感じるだろうその音でさえ、今の私には心地よいとすら感じた。


 緩慢と開く扉の隙間から、夏の陽光が差し込んできた。暗く淀んだ雰囲気が明るさを帯びていく。対流のない世界に清涼な空気が流れ込んでくる。爽やかで、だけれど暑苦しい夏の風が私を取り囲む。


 不意に死んでいいものなのかと、疑問に思う。即座に私は答える。それ以外に道はないと。光の射す方へ、夏の匂いがする方へ進む以外に道はないのだ、と。


 私は最早躊躇うことすらなく、屋上に足を踏み入れた。外に出れば夏の清々しさを全身に感じ、死への恐怖の気配はどこにもなかった。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめて、屋上の淵に向かって歩いていく。遠くで連なる山々が私を見つめている気がした——いや、見守られている気がして、足を宙に投げ出そうとして、


「何をしているんだ?」


 突如背後から聞こえた低い男の声に、私は虚をつかれて肩を震わせる。もしかすると教員の誰かに見つかったのではないかと思ったのだ。私は声の主を確認するために首だけで振り返る——屋上の隅っこで、ピクニックシートに寝転がる男がいた。


「何もしてないですよ」


「ふむ、それならおかしいな。ここは生徒は立ち入り禁止のはずだ。何も用がなければここに来られるはずがないが?」


「…………」


 私はその問いに答えることができなかった。ここにたどり着くまでの手段はとても道理的とは言えなかったからだ。昼休みになるや否や、天文学部に所属していることをいいことに荷物を忘れたなどと偽って屋上の鍵を手に入れたのだから。


 しかし、彼の問いはそっくりそのまま彼自身にも当てはまるものだった。


「あなただってここで何をしてるんですか? 用がなかったらここには来られないはずなのに」


「……君は俗に言う皮肉屋というやつか」


「残念ですが、性格はひねくれていても皮肉屋ではありませんよ。……ただ自暴自棄になって、悪態をつきたいだけです」


 私はそれだけ言って振り返り、再び屋上のへりに向かう。ふと見下ろした校庭では週末に控えた大会に向けて野球部が昼練をしていて、やけに活き活きとしているように見えた。


 それからしばらくの間、私は男に背を向ける形で体育座りをして野球部の練習を眺めていた。自殺などという非現実的な出来事で彼らの練習を中断させたくはなかったからだ。そもそも、死ぬ瞬間を誰かに見られたくはない。ただひっそりと死を迎えて、私がこの世界からいなくなった後に私の死体を見つけてくれればいい——だから、背後で今も私を見つめているだろう男がいなくなるまでは飛び降りることはできなかった。


「…………」


 視線は感じる。それなのに声をかけてくることはない。私にはそれが不気味に思えて、何より不愉快だった。自殺を目的に屋上に足を運んだ私も大概ではあるが、彼はどうしてわざわざピクニックシートまで敷いて——それも基本的に立ち入り禁止のはずの屋上でくつろいでいるのか。皆目見当もつかない。


 そうやって男に対する注意を深めていた私は、昼休みの終わりを告げるチャイムに現実へと引き戻された。授業が始まれば野球部も男もいなくなる。ついに終わりを迎える時が来たのだ。


 野球部が汗をぬぐいながら、校舎の中へ戻っていく。背後で男の足音が遠のいていく、扉の閉まる音が聞こえる。小さい頃に嗅いだ懐かしい夏の匂いがどこからか漂ってくる——不意に私の肩を大きな手が叩いた。


「きゃっ!」


「……そこまで驚かれるとは意外だな。ただ肩を叩いただけなんだが」


 咄嗟に自分の身体を抱いて飛び退いた私の目の前に、屋上を立ち去ったはずの男が悠然として立っていた。


「さっき教室に戻ったはずじゃ……」


「足音と扉の開ける音を聞いてそう判断したなら、僕の計画通りだな。でも、悪くは思わないでほしい。君に近づくのを悟られれば、逃げられると思ったんだ——例えば、この世界ではないどこかに」


「…………」


 図星だった。仮に男が近づいてきたとわかったならば、その前に飛び降りていたに違いない。たとえ誰かに見られようとも、今日の自殺を阻止されるわけにはいかないからだ。もちろん、自殺を企てていることを悟られてはいけない。


 しかし、口を噤むことは男にとって肯定以外の何物でもなかった。


「死人に口無しとは言うが、君にはまだ気が早い——と、先ほどの皮肉に対しての意趣返しを終えたところで僕の目的は達成されたわけだが、一つ提案がある」


「……何ですか。もし変なことを言ったら、私は口を無くしますよ」


「ふむ、ならば提案だ」


 男は笑顔でそう言って、私にじりじりと詰め寄ってくる。優に百八十センチはあるだろう身長の男の笑顔——それも不敵な笑みというやつは死を前にした私でさえ怖かった。だが、続く彼の言葉が私の恐怖の一切を取り払った。


「お見合いをしようじゃないか。あそこで」


「へ?」


 困惑する私を無視して、男はついさっきまで寝転がっていたピクニックシートを指差す。そこは屋上のへりからは遠く離れたいわゆる安全地帯であり、私の人生における危険地帯だった。


「まさか告白のつもりですか? 残念ですけど、あそこじゃあ吊り橋効果も期待できませんよ?」


「まさか。死を決意している君に告白などする由もない。ただ、お互いの名前を、お互いの誕生日を、お互いの好きなものを、お互いの性格を——そして、お互いの悩みを言い合いたいだけだ」


 男は何か問題でもあるのかという風に片眉を吊り上げる。死への道には大男、生への道には私のプライド。それぞれの障害があまりに大きくて、どうやら私には選ぶ余地などないのだと悟った。


「どうせ最後の『悩み』っていうのが目的なんでしょう? 残念ですけど、今の私に『悩み』なんてないですよ」


「それなら僕の悩みを聞いてもらうだけだ。君の言う『悩み』というやつに比べればちっぽけだろうがね」


 嫌味っぽく言い放った男はまるで執事のように私の前に跪き、ピクニックシートの方をすらっとした手で示した。その仕草に細やかな苛立ちを感じながら、私は彼の指示に従う。今更誰かに引き止められたくらいで引き下がるほど、私の決意は生半可なものではない。彼の気が済んだ後、本来の目的を遂行すればいいのだ。


「さて、それではお見合いを始めようか」


 男にエスコートされて、私はピクニックシートの上に正座する。彼も私の正面で正座して、それこそ本当のお見合いのような雰囲気すら感じられた——屋上のピクニックシートが舞台でなければ、だが。


「それでは——僕の名前は会津あいづあきら、誕生日は十月十日、好きなものはあんこの入ったもの全て、性格は人からは理屈っぽいと言われることが多いな。君は?」


「……横澤よこざわ夏恋かれんです。誕生日は十月二十四日、好きなものは強いて言うならココア、ですかね……。性格は先ほど言われた通りです」


 お互いに自己紹介を終え、男——会津さんは満足そうに笑みを浮かべる。この行為に何の意味があるかは計りかねるが、この先に彼の本意があることだけはわかった。


「では本題に入ろうか。君に悩みはないらしいから僕の悩みを聞いてもらう、ということだったな。僕の悩みというのは議論をする相手がいないということだ」


「議論、ですか?」


 私は会津さんの言葉を反芻する。果たして議論をする相手がいないとはどういうことなのだろうか。


「つまり、だ。僕は哲学に関して誰かと議論を深めたいのだが、生憎その相手がいないというわけだ。そこで君にその相手を頼みたい。どうだろうか?」


 会津さんは正座を崩して胡座をかきながら、私に同意を求めるように視線を送ってくる。いや、その双眸に込められた力強さでは同意というよりは強要の方が正しい。しかし、強要などという教養のないことをされるまでもなく、私の返答は既に決まっていた。


「それが終われば帰ってくれますか?」


 交換条件の提示。それが私の秘策であり、進路も退路も失った私の最終手段であった。哲学の議論が終われば、それに伴って私の人生も終わり。私が最後に交わす会話としてはあまりに高尚なものだ。だが、これで私の思惑通り——のはずだったのだが。


「……君の哲学に対する考え方が今、ひしひしと伝わったよ。約束しよう、哲学の議論が終われば僕は教室へ帰ろう」


 会津さんの口角が一瞬だけつり上がったように見えたのが気のせいなのか現実なのかわからないまま、彼は大きく息を吸った。そして——。


「——古代ギリシアにおいて、哲学の発端となった人物は『タレス』だとされている。人間を『政治的動物』だと評価した、かの有名な『アリストテレス』に言わせれば、タレスは自然の原理を神ではなく自然自体に求めたために、タレスから『ソクラテス』まで続く学者を『自然学者』と呼んだ。そしてソクラテス以降、僕たち現代人がよく触れることになる『哲学』が発展し始めたんだ」


 会津さんはここまでを一息につらつらと述べた。そして私が問いを挟む間も無く、次の言葉を紡いでいく。


「さて、ここで僕が今日話したいのはいわゆる『生と死』についてだ。今まで産まれ死んできた哲学者の考えを話せば、一生かかっても足りない。だから今日はソクラテスの生と死——とりわけ、彼の『人生』に対する考え方について君に教えよう」


「あの!」


 衰えぬ勢いのまま話を続けようとする会津さんを、私は精一杯に声を張り上げて制止する。私が勉強している社会科目は地理であって、倫理ではない。もちろん哲学についての知識など存在せず、辛うじてソクラテスという人物の名前は聞いたことがある程度だ。


 そんな私とでは議論どころか会話すら成立するはずもなく、私は今まで出てきた未知の単語を整理して会話を成り立たせるために、記憶に唯一残ったソクラテスのことを聞くことにした。


「話を切って申し訳ないんですけど、ソクラテスって誰ですか? 哲学のことなんて何も知らないので、一から話してもらえれば議論っていうのも深まると思うんですけど……」


「あぁ、僕も少し熱が入りすぎたな。久しぶりの哲学議論で君には到底わからないだろうことまで話してしまった。もう少し君のレベルまで落として話すことにしよう」


 まるで哲学について知らない私を馬鹿にするような言い方に、妙に苛立ちが募る。そんなことはこの期に及んで意味はないとわかっているのに、目の前の哲学大好き人間に対して、無性に腹が立った。


 そもそも哲学などという小難しく理屈っぽいもの——正確には小難しく理屈っぽいイメージのものを万人が知っていると思っている人間の方が馬鹿なのだ。


 私はそんな怒りにも似た感情に任せて、会津さんを罵ろうと口を開く。


「あのですね。哲学に頭でも侵されてるんですか? 私みたいな一般人に哲学なんてものがわかるわけ——」


「君のような一般人だからこそ、僕のような一般人だからこそ、哲学について理解を深めるべきなんだよ。哲学とは小難しく理屈っぽいものではなく、ただただ純粋に『人間を考える』ものだということについてね」


 まるでその言葉を待っていたと言わんばかりに、会津さんは私に人差し指を突きつけてきた。


「——ソクラテスはこう言った。『人はただ生きるのではなく、良く生きることが大切なのだ』と。つまり、ただ漠然と生きるのではなく、これこそが良い人生だと自信を持って言えるような人生を如何なる場合にも貫くことが大切だと、彼は言ったんだ。その言葉の通り、ソクラテスは有力者たちに疎まれ処刑の危機に瀕した時にも、自らが助かる道を投げ捨ててまで、己の信念を貫き処刑されたのだ」


「良く生きる……」


「そうだ。さらにソクラテスはこうも言っている。『自らの信念を貫き、そのために死を選ぶことすらあり得る人生の中に、真実の人生が見える』とな。どうやら彼に言わせれば、真実の人生とは己の信念を貫いた先にあるらしい。——さぁ、君はどう思う?」


「…………」


 何も言えなかった。何かを言えるはずがなかった。私は良く生きることには遠く及ばず、それどころか漠然と生きることすら放棄しようしていたのだから。


 考えたこともなかった価値観に触れて、私の心は大きく揺さぶられる。人生とはただそこにあるもので、むしろそこにあるとさえ認識していなかったものだった。人生というものに何か意味を持たせようだとか、人生を良く送ろうだとか——まして人生を信念を持って終えようなど、そんなことは思考の外だった。


「——さて。僕はもう帰ることにしよう。久しぶりに誰かと哲学について話せてよかった」


「え……? いや、一方的に話されただけですし、それに、私まだ答えを出せてない……」


「僕が君に伝えたかったことはもう伝えた。この後どうするかは君が決めたらいい。もし、まだ死んでしまいたいと思うなら、僕は止めやしない。ただ、少しでも『人生』について何か思うことがあったのなら、夜の八時にここに来るといい。僕の口利きでここまで誰かに止められることはないはずだ。それでは」


「ちょっと!」


 一方的に話を切り上げて、会津さんは屋上の扉の向こう側へ消えて行った。人の自殺を引き止めるだけ引き止めて、自分の用が済んだら後は好きにしろなど、あまりに自分勝手すぎるのではないか。


「…………」


 まるで夢でも見ていたような感覚に襲われて、私は息を潜める。授業が始まった校地内は静かなもので、この世から私以外の全員が消えてしまったのではないかと思えるほどだった。


 静寂の世界で、ふと自分の目的を思い出す。一度は阻害されたが、もう障害物はない。妙に軽い足取りでピクニックシートを離れ、私は屋上の淵に立つ。眼下にはもう誰の姿もなくて、背後に私の自殺を邪魔する男はいなくて。


「あの人の言ってたことなんて、全部詭弁だから」


 私は彼との記憶を全て振り払って、身体を前傾させる。このまま重力に従って地面に叩きつけられれば煩わしいことなど何もないはずで——胸に残ったしこりがどうにも気になって、私はその場に尻餅をついた。


 詭弁であると切り捨てたはずの言葉が、いつまでも私の心中を駆け巡っていた。『人はただ生きるのではなく、良く生きることが大切なのだ』。『自らの信念を貫き、そのために死を選ぶことすらあり得る人生の中に、真実の人生が見える』。こんな価値観は大昔の知らない人のもので、私には全く関係のないものだ。それなのに、どうして。


 結局ソクラテスだとかいう人の言葉の意味も、どうして気になってしまうのかもわからないまま、ただただ呆然と、雲一つない青空を見上げていた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 会津さんと別れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。死を迎えようと思っていた私に自殺以降の予定が立っているはずもなく、屋上で暇を持て余していた——と言うには、あまりに時間が経ち過ぎていた。


 私を包む世界は既に夕暮れ時を過ぎていて、私の自殺を見守ってくれていた山々の姿は曖昧に霞んでいた。夏の薄暮——午後八時くらいだろうか。つまり、会津さんとの待ち合わせの時間だった。


「何を期待してるんだか……」


 私は自分の行動の理由がわからないことを——認められないことを嘆いて、空を見上げる。遠くで橙と濃藍が朧げに混ざり合い、半分だけ欠けた月が私を見下ろしていた。


「昔は好きだったんだけどなぁ……星も月も」


 両親の仲が悪くなり始めた頃から増えた独り言を夕暮れ空に放って、ぼんやりと浮かぶ星座を指でなぞる。八月の南西の空、コの字の星座——天秤座だ。


 天秤座にまつわるギリシャ神話は小さい頃から一度も忘れたことがない。あの天秤は女神のアストレアが持っているもので、死者の魂が善と悪のどちらに傾いているのかを量り、悪に傾いた魂は冥界に送るのだという。


「…………」


 ふと、私の魂の行く先が気になった。産まれてから今まで、善いことも悪いこともしてきた記憶はない。けれど、死の方法が自ら命を絶つことだったなら、それは悪で——むしろ、天秤にすら乗せてもらえないかもしれない。それは嫌だと、漠然に思う。


「まさか、君は星が好きなのか」


「ひゃあ!」


 不意に耳元で囁かれた低い声に、私は思わず悲鳴を上げた。


「何をそこまで驚いている。約束の時間だろう?」


「……だからと言って、こんな近くで話しかける必要ないじゃないですか」


「確かに。今回は必要があったわけではない。ただ君を驚かせたかっただけだ」


「……逃げるかもしれなかったのに?」


 私は驚かされた仕返しにと、屋上の向こう側を視線で示す。人間のみの力ではとても太刀打ちできない重力がもたらす結果。それは会津さんが食い止めようとしたもので——、


「君は僕を待っていた。そういうことだろう?」


 私たちにとって、既に気にかける必要のないものだった。


「さて、そんなことはどうでもいいとして、僕の質問に答えてくれてもいいだろう? 君は星が好きなのか?」


 会津さんは私の隣に窮屈そうにして座って、空を見上げた。彼の視線の先にはおそらく、私が想いを馳せていた天秤座があるのだろう。


「……まさか見てたんですか?」


「何の話かわからないが、君がロマンチックに夜空を指でなぞっていたことを言っているなら、じっくりと眺めさせてもらったよ」


「…………」


 頬が紅潮しているのが嫌でもわかった。見られたことでさえ恥ずかしいのだから、私の表情が見られていないことを願うばかりだ。横目で会津さんの様子を伺うと、どうやら星に集中しているようだった。


「星じゃないです。小さい頃から星座にまつわる話が好きなんですよ。あの天秤はアストレアのものだとか、あの蠍はオリオンを殺した蠍だとか。そういうのを考えてる時だけは母と父の険悪な空気を感じなくてよかったんです」


「聞くべきではないことを聞いたみたいだ」


「いいんですよ、別に——でも、謝る気持ちがあるなら、少し星座の話をしてもいいですか? ちょっと哲学に関わりがあるかもしれないですし」


「ふむ、聞こう」


 会津さんが哲学という言葉に惹かれたのか、それとも単に星座に興味があったのかわからないまま、私は口を開いた。


「あの天秤って、ギリシャ神話だと死者の魂の善悪を量るものらしいんです。それで、この天秤の持ち主のアストレアっていう女神は悪に傾いた死者の魂を冥界に送ってたんです。大昔は皆が神々を敬って平和に暮らしていたので、アストレアの仕事は少なかったんですけど、いわゆるパンドラの箱が開けられてから、世界中で争いが起こっちゃったんです。戦争だとか、物の奪い合いだとか」


 話しながら会津さんに視線を送る。彼の意識は夜空に向いたままだった。


「そんなことがあって他の神々は天上に帰っちゃったんですけど、アストレアだけは地上に残って、善行を進めて悪を改めるように人々を説得したらしいんです——それで思ったんですよ。なんだか、会津さんが言ってたソクラテスって人に似てませんか?」


「……似ているな、皮肉にも」


 会津さんはニヤリと笑って、視線を星座から外す。そして一瞬前まで星座を映していた瞳が私の方を向いた。


「ソクラテスは異なる信仰をもってして若者を堕落させたという大義名分の下に処刑されたんだ。その大義名分が権力者に造られたものだとしても、最期を決めた神々という存在が彼に似ているというんだから皮肉と言う他ない」


「案外、哲学って神とかそういうのと関係あるのかもしれませんね」


「案外どころか、まさしくその通りなんだよ。これはあくまで僕の考えだが、神も哲学も関わりたい者だけが関わればいいものなんだ。必ずしも人生に必須ではない。僕が哲学に関係を持ち、君がギリシャ神話に関係を持ち、それぞれがそれぞれの人生を生きている。極端に言えば、ソクラテスの言葉を自らの人生に取り入れなくてもいいわけだ。あくまで大昔の他人の言葉なんだからな」


 意地の悪い笑みを浮かべて、会津さんは哲学を侮辱するような言葉を放った。今までの哲学に傾倒していた男とは思えない言葉だった。


「哲学が好きなんじゃないんですか?」


「僕は哲学が好きなわけではない。ただ、哲学を通して自らの学を深める——名前を付けるなら、『てつ』学が好きなんだよ」


「……よく恥ずかしげもなくそんなこと言えますね」


「君の夜空を眺めるロマンチックな姿には叶うまいよ」


「…………」


 これ以上墓穴を掘るわけにもいかず、今回に関しては敗北を認めることにした。会津さんの視線から逃げるように天に目を向ければ、光の気配は何処かへ消えてしまっていて、夜が世界を支配していた。


 もう八時はとっくに過ぎている。


「——ところで、用は何ですか? 死ぬのを諦めてまで待ったんですから、よっぽどのことがあるんですよね?」


 私はそもそもの目的を思い出して、会津さんに詰め寄る。今生きているのも、夜空をロマンチックに眺めていたのも、全ては彼の約束のせいだ。だが、私は言葉に反して、大した答えは期待していなかった。どうせ何だかんだではぐらかされるか、それともまた訳の分からない哲学の話を聞かされるかのどちらかだ。


 しかし、会津さんの返答は私の予想していないものだった。


「特に用事はない。この約束に理由をつけるとしたら、君を引き止めるため、だろうね」


 意味がわからなかった。用事がないことに対して、ではない。嘘までついて私の自殺を引き止めた会津さんの真意に対して、だ。


「何のために?」


「言っただろう。君を引き止めるために——」


「違います。何のために私を引き止めたんですか? ただ目に留まったから、じゃないですよね?」


 私はいつにも増して強い口調で、会津さんを問い詰める。今この瞬間まで彼の全ての行動の根拠だった、本当に哲学が好きでたまたま見かけた私と議論がしたかったから私を呼び止めたという仮定が、音を立てて崩れていった。


 そもそも哲学が好きなわけではなくて、私と議論をしたかったわけでもない——なら、どうして?


「…………」


 会津さんは答えない。


「どうしてですか?」


 もう一度問う。


「…………」


 それでも、会津さんは口を噤んだままだった。


「まさかこのまま私を襲うわけじゃ——」


「似ていたんだ」


 会津さんはまるで独り言のようにぽつりと呟いた。


「君と似ていただけさ」


 私はその言葉の真意を確かめたくて、会津さんに視線を向ける。彼の双眸は濃藍に染まる夜空を見つめていた。


「……会津さんも自殺しようとしてたってことですか?」


「それもそうだが——僕がそうなってしまうきっかけとなった人に君が似ていたんだ」


 会津さんは闇に隠れた山々を指差した。


「あの山から見る夜空は絶景だった。彼女は星がすごい好きでね。あの星は何光年先にあるだとか、何座の一部だとかをいつも教えてくれたんだ。だが、当の僕は星というものに興味がなくて適当に聞き流していたのを今でも忘れない。今思えば聞いておけばよかったと思うがね」


 私は口を挟むことができないまま、会津さんの話に全神経を集中させる。どこか哀しみを帯びた彼の声を聞き逃さないために。


「今日と同じような日だった。ちょうど月が半分欠けていた。いつもと同じようにあの山で星を見ていた——彼女は僕の目の前で崖から飛び降りた」


 会津さんはそこまで話して立ち上がり、それからしばらく沈黙が流れた。彼の視線は闇の中に潜む山々に向けられていて、私はふと怖くなった。もし私を件の彼女に重ね合わせていて、自殺を引き止めたことに満足したのなら、彼はこのままどこか違う世界に逃げてしまうのではないかと思ったから。


 それだけは嫌だと、訳もなく思った。


「まさか、どこか違う世界に行くわけじゃないですよね?」


 私は会津さんの肩に手を置いて、いつかと同じような言葉を口にする。


「……どうしてそう思う?」


「何かやり遂げたような顔をしてたからですよ。ちなみに言っておきますけど、会津さんがいなくなったら、私自殺しますからね」


 何を言っているのだと、自責の念が込み上げる。しかし、私の宣言はただの脅迫ではなかった。もし会津さんがいなくなれば、私の自殺を止める人はもういない。私が生きる理由はもうない。


「それは僕も死ねないな——と思うが、逆に聞こう。君はどうして僕の自殺を引き止める? ただ目に留まったからではないだろう?」


 それは意趣返しと言うべきだったのかもしれない。私が会津さんに質問した内容をそっくりそのまま返されたから。しかし、それは私にとって絶好のチャンスと言うべきものだった。


「そうですね」


 私は短く前置きしてから、大きく息を吐いて次の言葉に備える。


「——好きになったから、ですかね」


 不思議と声は震えていなかった。


「これまた突飛な発言だな。お見合いをした仲とは言え、恋心などが生まれるようなものではなかったはずだが?」


「それは……吊り橋効果ですよ、吊り橋効果」


 強引に理由をつけて、会津さんを——というよりは自分自身を納得させる。


 この感情が恋なのかどうかはわからない。ただいなくなってほしくないと思うだけで、死んでほしくないと思うだけで——近くにいてほしいと思うだけ。それでも名を付けなければいけないのなら、『こい』心とでも名付けておけばいいのだろう。


「とりあえずここで言っておきますけど、好きだと分かったら、積極的なので。とりあえず向こうで星座鑑賞でもしましょうよ」


 私は強引に会津さんの手を引っ張って、ピクニックシートの元へ連れて行く。私の後ろをついてくる会津さんに抵抗の力はなくて、自殺を思い留まってくれたのだと、胸を撫で下ろす。


「……本当に似ているよ。君と彼女は」


「あと、名前を呼んでもらうまで、手は離しませんから」


 そう脅迫して、私と会津さんはピクニックシートの上で寝転がる。視界いっぱいに広がる夜空には幾千もの星が散りばめられていて、とても綺麗だとしか言葉が出てこなかった。


「あまりの変わりように驚かされるな。つい九時間前までは僕たちは他人だったんだ。どうしてそこまで態度を変えられるのか理解できな……」


「だから言ったじゃないですか、吊り橋効果だって。それに私はただ生きるのをやめたんです。会津さんのために生きていくという信念を持って、良く生きることに決めたんですよ」


「……ソクラテスもそんな言い訳に使われるとは思っていなかっただろうな」


 やりとりを終えて、一際強い風が吹く。山々の方からやってきた少し気の早い夏の終わりを感じさせる冷たい風に、季節が変わり始めたのだと実感する。


「——夏恋くん、天秤座はどこにあるんだ?」


 名前を呼ばれたことにあえて気づかないふりをして、私は夜空の星々を眺める。


「天秤座はあのアンタレスっていう明るい星のすぐ近くにあって——」


 左手に温もりを感じながら、私は天秤座の説明を始める。今まで何回も空想したギリシャ神話で私の大好きな星座。だけれど、会津さんと一緒に見る星たちはどこか違って見えて——屋上から見上げた夜空はどこか哲学的だった。

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