一章 雨白島 10話
一章 雨白島 10話
久遠が皿洗いを終えて客間に戻ると、美菜を寝かせてきたミカルが既にパイプを吸っていた。久遠は少し考えてキッチンに入ると赤ワインとワイングラス、つまみにチーズとクラッカー、生ハムをテーブルに並べた。慣れた手つきでコルクを外しグラスにワインを注ぐ。よく熟成された良い香りが部屋全体に漂った。ミカルはグラスを回し香りを嗅ぐと、口に含んだ。
「このワイン、取っておきだったんだろ。開けてよかったのか?」
「人の取っておきのプルティット(紅茶)勝手に開けた人がよく言えますね。心配しなくてもお代は頂きます」
久遠ははっきりと言い切った後、「あんな可愛いスイーツでは、師匠の舌は満足しないでしょう」と付け加えた。ミカルはニヤリと笑って肯定の意を示す。ジャケットのポケットに手を突っ込むと机に金貨が5枚置かれる。久遠はそれを確認するとリュックから紙を取り出した。紅茶・赤ワインなど、先程出したものとその金額を記載しミカルの前に置いた。
「お釣りとってきます」
「いらねぇ。ロゼも開けろ」
久遠はムッとしながらもキッチンからロゼワインのボトルと新しいグラスを持ってきてミカルの前に置く。赤ワインがまだ残っていたのでまだ栓は抜かない。ミカルの前に置いた紙にロゼワインと金額を書き足した。
「キッチンにローストポークがあるから取ってこい」
ミカルに言われた通りキッチンからローストポークを取って戻ると久遠はようやく椅子に座った。ミカルは切り分けられたローストポークにフォークを刺し豪快に口に運ぶ。赤ワインを喉に流し込むと久遠を見据えた。
「それで、お前はまーたぶっ倒れたって? 久しぶりの港は緊張したのか?」
「ええそうです、大変でしたから。というか、宗兄さんから言伝貰ってるでしょう」
「ああ、これな」
ミカルはどこからか白い鳩の形をした折り紙を取り出し久遠の前に出す。
「読んでねぇ」
「読んでください。本当にどうしようもなかったらどうする気なんですか」
「どうしようもない時に宗一郎はこんなもの飛ばさねぇよ」
まっとうな返しに久遠はため息をついた。ワインを楽しむミカルに久遠は「大筋は先の話と同じです」と言い置き、港からミカルの家に着くまでの経緯をゆっくりと話した。ミカルはただ久遠の話を聞きながらたまに相槌をうつ。
「……それでティーダにお金を渡して、ようやくこちらに向かってきたわけです」
「ふーん。それはご苦労。てことは、あの子はお前のこと全くわからないのに着いてきたわけだ。素直はいい事だが、危ういな」
ミカルはそう言うと胸ポケットから葉巻を取り出して先をシガーカッターで切り落とし火をつけた。そして思い出したように葉巻を持つ手を叩いてみせる。
「こいつ、仕入れといてくれ」
「……五日前に渡した二十本は?」
「なかなかに上手くてなぁ。あと五本……いや、今吸ってるから四本か」
ミカルの言葉に久遠は肩を落とし、リュックから手帳を取り出すとメモをして仕舞った。
「しかし、島に来て早々巻き込まれたんでは疲れるわな。まあキュアの力が効いたのなら問題ないだろう」
「さすがは森の癒し屋、セラピーウィーズルですね」
久遠がキュアを褒めると机の下からキュアが飛びついてきた。本日2度目のタックルを食らった久遠は自分の右頬を撫でながら左手でキュアの頭を撫でてやる。そうしながら少し前のことを思い返し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……白い雨が、気になって来たみたいですよ」
「……あ?」
ミカルが久遠を見ると何とも煮え切らないといった表情をしていた。ミカルはそれを見て大きなため息をつき、葉巻をふかして煙を吐いた。
「……お前が慣れもしない相手に素手で触るなんて、珍しいこともあるもんだな」
「あの時はそんなことを考える余力もなかったですし、ここを出る前に人の手袋を酒まみれにしたのは師匠でしょう」
「そうだっけ? 覚えてねぇな」
ミカルから雑に返され久遠はムッとしたが、何を言っても無駄だと思い口を噤んだ。
「まあ、人それぞれ思うことはあるさ。お前の脳みそだけで世界が回ってるわけじゃないからな。人の都合に踏み込み過ぎんな。それぞれで解決するもんだ」
「……わかって、います」
「分かってる返事じゃねぇな」
ミカルは葉巻の火が消えたことを確認すると灰皿の上に置いた。
「詳しい事情はあの子から聞く。お前は知らないふりをしてればいい」
ミカルはボトルに残っていた赤ワインをグラスに全て注ぎ一気に喉に流し込んだ。そうしてロゼワインのコルクをぬく。久遠が机を見ると並んでいた料理は概ね食べ尽くされていたため、片付けを始めることにして立ち上がった。
「ああそういえば、宗一郎の鳩には何も書かれてないぞ」
「……は?」
突然の話題転換と思いもよらなかった言葉に久遠が顔を上げた。
「宗一郎はこの手の文を俺が読まないことをよく知ってるからな。問題がなかった時にだけ白紙の鳩を飛ばすんだ。お前、知らなかったのか」
ミカルは「火急の時は別の手段を使うぞ」と付け足して全ての食器とグラスを流し台に下ろし、残ったロゼワインのボトルを持って最初の部屋へ消えていった。しばらく呆然としていた久遠だったが、大きなため息をついて洗い物を始めた。
自然と目が覚める感覚につられて美奈はベットから起き上がった。遅れて自分が眠っていたことに気づくと焦って周りを見渡した。今いる部屋にはベットの他にソファやテーブルなどが揃ったシンプルな部屋だった。美奈は少し気持ちを落ち着けて考えると、今いる場所がミカルの家の一室であることを理解する。その証拠に、小さな窓の外は深い森で、今は暗く闇に閉ざされている。今何時なのか、どのくらい寝ていたのか検討もつかない。時間を確認しようと腰に下げていた時計を見たが、何故か針が止まっていた。ギルドから見送られた時に団長に貰ったもので新しかったのだが、どこかにぶつけて壊してしまったのだろうか。送ってくれた団長に申し訳ない気持ちになりながら、一先ずベットから立ち上がった。
どうしようか考えていると、ベットの右側にあった扉からパチパチと何かを弾く音が聞こえてきた。美奈が扉を開けてみるとそこは先程話をしていた部屋で、机に向かった久遠がそろばんを弾きながらノートに何かを記入している。そろばんの周りには小さな紙がいくつも並べられており、久遠の左側には同じような紙が何枚か伏せられている。久遠の様子に見入っていると、美奈に気づいた久遠が顔を上げた。
「おはようございます」
「おはようございます。……あの、私、寝てしまってすみません」
「大丈夫ですよ。疲れは取れましたか?」
「はい。なんだか、体がすごく楽になった気がします」
美奈の言葉に久遠はぎこちなかったが笑ってみせた。久遠が気遣ってくれたのだと気づくと美奈は気まずかった空気が和らいだように感じた。久遠は何かを考えているのか視線が左右に動いている。
「あの、今何時ですか?」
美奈の問いに久遠は目を瞬かせる。
「すいません。どこかにぶつけたのか、時計壊れちゃったみたいで、お部屋にも時計が見当たらなかったので」
美奈の言葉に久遠は気まずそうに視線を逸らした。その様子を美奈が不思議そうに見ていると久遠はやっと美奈と視線を合わせる。
「あ、すいません。9時24分ですよ。森はすっかり獣の時間ですから、1人で出ない方がいいですよ」
何も見ずに答えた久遠を美奈はまた不思議そうに見て首をかしげた後、困ったように「うーん」と呻いた。その様子に今度は久遠が首を傾げる。
「どうしました?」
「えっと、今晩の宿を取ってなかったので、今からでも空いてるかなと思って」
久遠はそれを聞いて「ああ」と声をこぼす。
「この家に泊まればいいですよ。師匠もそのつもりみたいですし」
「え、でも、そこまでお世話になる訳には……」
「いいんですよ。こんな時間ですし、今日あなたを巻き込んだのはこちらでしたから。そちらの部屋はお客様用なので、どうぞ使ってください」
久遠は今度は自然に笑うと立ち上がり、広げていたノートや紙を片付けて鞄を背負った。
「元気になったみたいですし、帰りますね」
「え? 久遠さんはここに住んでるんじゃないんですか?」
「ええ、ここは師匠の家ですから。師匠には言っておきますので、すぐ来ますよ。では」
久遠がお辞儀をして踵を返すと、美奈は焦って久遠の腕を掴んだ。久遠が驚いて振り返ると、美奈が焦った顔をしていた。
「……えっと、なにか?」
久遠がおずおずといった様子で聞くと美奈の目が泳いだ。
「あの、久遠さんもいてもらえませんか?」
「……え?」
美奈の言葉に久遠は目を丸くする。美奈は恥ずかしそうに顔を赤くして視線を床に向ける。
「その、私、今日初めてあった男の人の家になんて……泊まれません。えっと、なんて言っていいのか……その……」
二人ともしばらく時間が止まったように動けないでいると、隣の部屋から盛大な笑い声が聞こえてきた。久遠がその声の方へ振り返り吠える。
「ちょっと師匠! 笑わないでください! 笑ってないでこっち来てくださいよ!」
久遠が言い終えるとミカルは腹を抱えて笑いながら部屋に入ってくる。美奈はその様子にきょとんと間の抜けた顔をした。
「あっはははははは! 可愛いお嬢さんに男として見てもらえるのは嬉しいねぇ!」
「あ……いえ、えっと……そういう意味では……! ミカルさん、親切にして頂いたのに失礼なことを言って、ごめんなさい……!」
美奈は焦りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら申し訳なさそうに俯いた。そんな美奈の様子にミカルは気にした様子もなく美奈の頭を撫でる。
「いいんだよ。女の子はそのくらい男を警戒しないとね。それに引き換え、久遠お前……」
「うるさい!」
今度は久遠が顔を赤くしてミカルを睨む。ミカルはやはり気にした様子もなく続けた。
「まあそういう事だ。この家はダメだそうだから、お前の家に泊めてやれ」
「ちょ、この家がダメなら僕の家もダメでしょう! 何考えてるんですか!」
「いやー、時計の件もあるし、泊めてやれよ」
ミカルの言葉に久遠は押し黙る。何か葛藤している様子の久遠にミカルは追い打ちをかけた。
「お前、この前倉庫として借りた家があるだろ。あそこ確か、2階を寝室にしてたよな。一晩過ごすには問題ないだろう」
しばらく逡巡していた久遠だったが、大きなため息をついた。
「……わかりました」
「よし、じゃあ明日の昼、また来いよ」
「……はい」
久遠はミカルに返事をして美奈に向き直る。
「それじゃあ、うちにどうぞ。狭い部屋ですが、使ってください」
「はい、無理なお願いを聞いていただいてありがとうございます」
「いえ……今日のお詫びです」
久遠の言葉に美奈は首をかしげたが、そんな美奈を安心させるようにミカルが肩を叩いた。
「気にしなくていいんだよ。こんな時間まで付き合わせたのはこちらだからね。今日はゆっくりおやすみ」
「は……はい。何から何まで、本当にありがとうございます」
美奈は深くお辞儀をしてカバンを持つと久遠のそばに駆け寄った。ミカルに見送られながら最初に入ったドアの前に2人で立つ。久遠は小さなランプに火を入れた。
「久遠」
「なんでしょう」
ミカルの声に久遠が振り返るとミカルは水煙草を大きく吸って煙を吐き出す。天井へ向かう煙の中からニュルリとベリーチェが現れた。美奈が小さく悲鳴を上げたが久遠は微動だにしない。ベリーチェはゆっくりと二人へ近づいてきた。
「まあ襲われねぇとは思うがこんな時間だ、連れて行け。タヌキの所に着いたら引き返すように言っとくから」
「わかりました」
久遠があまりに平然と話す姿を美奈が不思議そうに見ていると「大丈夫ですよ」と久遠が言った。
「彼女は師匠の指示がなければ噛んだりしませんし、森を抜けるまで守ってくれます。行きましょう」
久遠の言葉に美奈は恐る恐るベリーチェを見るが敵意などは感じられない。美奈は固唾を飲みつつも、ミカルに「お世話になりました、おやすみなさい」と告げて久遠と外へ出た。後ろからベリーチェも着いてくる。外の森は真っ暗で、久遠のランプが足元を照らす。慎重に歩いてみるが足場は平坦では無い為うまく歩けない。
「あの、久遠さん」
「はい、どうかしました?」
振り返った久遠の顔をランプが煌々と照らす。その時見えた姿は、先程ミカルの家で見た時より幾分逞しく見えた。
「足元が見えなくて、うまく歩けないんです。よければ手を繋いでいただけませんか?」
美奈の頼みに久遠は目を見開き、驚きと戸惑いを混ぜたような表情をした後、手を差し出した。
「……どうぞ」
「ありがとうございます!」
美奈は表情を明るくして久遠の手を取ると、先程より歩くペースが上がった。しばらく歩くと、ようやく森に入ってきた場所へ着いた。目的地に着いたことを確認したベリーチェはミカルの家へ戻っていく。美奈はしばらくその様子を見ていたが、やがて久遠に手を引かれて歩き出した。暗闇を抜けて出た場所は入ってきた広場で、後ろには元々入口になるようなものなどなかったように白い壁があった。
その光景が未だに信じ難くて見つめていると、久遠がするりと美奈の手をほどいた。美奈は振り返り久遠を見る。
「もう少しですよ」
久遠はそう告げると町に向かって歩きだし、美奈は慌ててその後を追った。ランプに照らされている久遠の顔は何やら難しそうで、美奈が不思議そうに眺めていると突然、視線が絡んだ。久遠は言いづらそうに口をモゴモゴと動かした後、ようやく声を出す。
「……その、今日あったばかりの人間と、目を合わせたり手を繋いだり……何ともないんですか?」
美奈は言われて初めて今日の行動を思い返し、唸りながら首をかしげた。そして少し戸惑った表情のまま口を開いた。
「えっと、目を合わせるのは割と大丈夫です。お話する時は誰とでも合わせますし。けど、あまり手は繋がないですね。……もしかして久遠さん、嫌でしたか? 嫌な思いをさせていたならごめんなさい」
「確かに、あまり得意ではないですけど……、何でかなって思っただけで」
久遠の答えに美奈はまた首をかしげた。
「確かに、少し変でしたよね。なれない環境とか視界が悪かったりとか、不安になったのも理由だと思うんですけど。多分、久遠さんの手を握っていると安心出来たからだと思います。不思議ですね」
美奈は困ったように、照れたように笑った。それを見た久遠は気が抜けたように息を吐く。
「……そうですか。とにかく、今日は無事で良かったです」
久遠はそう言って足を止めた。美奈もそれに習って足を止める。
「着きましたよ、ここです」
久遠が視線を左へ向ける。美奈もそれを追うと、周囲に比べて随分小さな家があった。
※補足
プルティットはダージリンティーのイメージです。
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