一章 雨白島 8話
目を開けた先にあったのは深い森林で、少し先に見えるウッドハウスは蔦に覆われてなお立派だとわかる。周囲はとても人が住む空間とは思えないのに、そこだけが人が住めるほど安全だとわかった。美奈が呆気にとられていると久遠は少し先を歩き手招きをする。
「こちらへ。足元が不安定なので気をつけてください」
久遠の誘導に従い美奈は歩を進める。万一に躓いたり転んだ時には受け止めてくれるつもりのようで、久遠は美奈を気にかけながら前を歩く。
「なんか、街とは全然違う雰囲気……」
美奈がボソリと呟いた言葉は久遠の耳にも届いたようで、一拍おいて話し始める。
「元々雨白島は、先住民が暮らす人口の少ない島だったんです。森が広がっていて動物を狩り、農耕も盛んな島でした。その分ここみたいな深い森もあり、猛獣もいたそうです。本土から島が発見されて以来、島外からの物資を受け取るようになりました。その結果三つの港を開き交流がより盛んになり、近隣の大陸との連絡が非常にいいことから商人の島として発展しました。今の町の形になったのはその頃です」
「へえ……! 久遠さんは物知りですね!」
美奈が手放しに褒めると久遠は少し複雑そうに視線を逸らした。
「まあ、昔教えてくれた人がいたので。……町が発展し始めると食料として動物を狩ることが減り、動物に関しては畑を荒らすなどの被害が目立つようになりました。一部の先住民は島の南側に移住して元来の生活を守り、町に暮らすものたちは猛獣や動物が簡単に入ってこないよう、建物と調和させながら壁を築きました。建物や壁の裏側に森があることすら思わせない町の造りにはそういう理由があるんです」
美奈は久遠に感心の視線を向ける。久遠は気づいているのかいないのか、その視線に答えることはしなかった。
「人が住むには厳しい森でも、師匠の魔獣たちには住み心地がよかったりするんです」
「……魔獣?」
「……さて、着きましたよ」
一章 雨白島 8話
久遠の声に美奈が顔を上げると遠くに見えていたウッドハウスが目の前にあった。ドアの前へ迷いなく進んだ久遠がドアノブに手をかけると、一度止まって深呼吸をする。その様子を美奈が不思議そうに見ていると、意を決した久遠がドアノブをひねった。
ゆっくりとドアが開かれると家の中が見えてくる。机の上に無造作に置かれた本や鈍色に光る灯台。凝った作りの器は灰皿だろう、中には吸殻が山になっている。壁側を見るとずらりと並んだ本棚に多くの古い本が詰められ、たまに空いている場所には珍しい魔具が並べられていた。一番上の棚や天井には見たことのないお面や人形が飾られており、不思議なような少し不気味なような、しかし物が多い割には散らかっている印象は受けない部屋だった。
部屋の中に入ると気になったのは、非常に煙たいのだ。不快な臭いはしないのだが、部屋全体を覆う程に煙が充満している。不思議に思いながら美奈が久遠を見ると、なぜか久遠は諦めた表情をしていた。美奈がとりあえず声をかけようと「あの……」と声にしたところで前方から何かが勢いよく向かってきた。
「きゃっ」
驚いて後ろに倒れた美奈は向かってきたものを認識して言葉を失った。前に立っていた久遠に太く長いコブラが巻きついていた。背に美しい鱗を持つコブラは魔道士である美奈も本で見たことがあり知っていた。見かけたら絶対に近づいてはならないと言われる一級危険品種、ニジウロココブラである。捕らえた獲物から魔力を吸い付くし、その肉体まで丸のみしてしまう。そして獲物から多くの魔力を得るほど鱗は美しく輝き成長すると言われる。発見されているものの多くは大きくても2メートル程度の大きさだが、目の前のコブラはゆうに3メートルを超えている。
美奈は震える足を叱咤して立ち上がると鞄から篠笛を取り出した。何度か深呼吸をして震える息を正す。
「く、久遠さんを離してください。攻撃、しますよ……」
美奈の言葉にもコブラはピクリとも動かない。それどころか久遠への締めつけはより強くなっていく。久遠からも詰めた息が漏れていた。美奈は一度歯を食いしばると篠笛を構える。大きく息を吸って吹こうとすると目の前を蝶が舞った。
「……っ、何が……」
驚いて吹きそびれた美奈の耳に拍手の音が届いた。驚いて音のする方に視線をやると、奥の椅子に男が一人座っていた。部屋に充満している煙のせいで顔はよく見えない。
「いやー果敢なお嬢さんだ。獰猛な魔獣を前に戦う意志を見せるとは、うちの弟子より見込みがあるなぁ」
男はゆっくりと立ち上がると歩み寄ってくる。美奈が再度構えると煙が少し晴れ、男の顔が見えた。少しカールのかかった栗色の髪に白い肌、青みのある灰色の目、やや皺がありながらも整った顔立ちはそれらとうまく調和しており、茶をベースとしたスーツはダラりと着崩されているがだらしないとは感じさせず、言い知れぬ色気を感じさせる。年齢は40前後といった風貌だった。男は腰を折って美奈に視線を合わせるとにこりと微笑んで見せた。
「どうもはじめまして、お嬢さん。久遠の師匠、ミカルという。迎えが遅れて不安な思いをさせたね」
「え、えっと……?」
美奈は目の前の出来事についていけず、しかし久遠のことが気がかりで目が泳いでしまう。ミカルと名乗った男はその様子に気づくと指をパチンと鳴らした。するとコブラは少し締めつけを緩め、久遠はゲホゲホッと咳き込んだ。
「どうだ、反省したか?」
「っ……だ、れがっ」
「このお嬢さんもお前を心配してることだし、反省してくれんことにゃ話が進まんのだがなぁ」
ミカルが「うーむ」と悩ましく呻くとコブラはまたゆっくりと締め始める。久遠からまた苦しむ声が漏れ出すと美奈は慌ててミカルにしがみついた。
「あの! そのコブラ、話が通じるなら久遠さんを離してあげてください! 久遠さん、何も悪いことしてないですから!」
美奈の必死の訴えにミカルは目を丸くすると少し考えた素振りを見せた。そして「ふむ」というともう一度指を鳴らす。するとコブラは久遠から離れミカルの体になだらかに巻き付いた。コブラから解放された久遠は地面に座り込むと激しく咳き込んだ。それを見た美奈は久遠に駆け寄り背中を撫でる。
「大丈夫ですか、怪我とかしてませんか?」
美奈の問い掛けに久遠は咳き込みながらも手を挙げて大丈夫という意思を伝え、ようやく呼吸が落ち着くと深い呼吸をしながらもミカルを睨みつけた。ミカルは薄く笑いながら久遠を見下ろしている。
「何時間待ったと思ってる?」
「……十二時五十七分にここを出たから、五時間と五十二分」
「相変わらず細かいな、六時間だ馬鹿弟子。日がすっかりくれてるじゃねぇか」
「見つけるのに時間がかかったのは認めますけど、揉め事に巻き込まれてた話は聞いてくれていいんじゃないですか」
久遠が屈する様子なく言い返すと、コブラはまたも巻き付こうと構えてみせた。それを見た美奈は駆け出して久遠の前へ出る。ピタリと動きを止めたコブラを見て、美奈は深呼吸をして口を開いた。
「彼女……は、迷子になって、危なかった私、を、助けてくれたん、です……。いじめるなら、私が、相手になります」
震えながらも構える美奈にコブラは攻撃する様子はない。しばらく様子を見ていたミカルは久遠と美奈を何度か見比べ久遠に対して鼻で笑って見せた。パチンと指を鳴らす。するとコブラはすぐさま身を引き、またミカルに巻きついた。そこがコブラの定位置のようで、安心した様に長い舌をちゅるちゅると動かしている。美奈は変わらず警戒を示したが、それを気にかけることなくミカルは美奈の前に膝をついた。
「いやはや、不安にさせるばかりか怖い思いまでさせてしまうとは、紳士として失格だね。」
「……えっと」
「ん? ああ、大丈夫こいつはもう手出ししないよ。そろそろ話を進めないとね」
ミカルはそう言うと部屋の右奥にある扉に向かい、ゆっくり開ける。そして恭しい仕草で美奈を招いて見せた。
「奥へどうぞ。すぐに茶を入れよう。久遠、待っててやるから着替えてこい」
ミカルの言葉に久遠はコクリと頷くとゆっくり立ち上がる。部屋の左奥にある扉へ向かう。美奈が「あの……」と声をかけると久遠は振り返り、引きつったような笑みを浮かべた。
「庇ってもらってありがとうございます。おかげで今日は早く解放されました」
「え……あれ、よくある事なんですか?」
美奈の質問ににこりとだけ笑うと久遠は部屋の奥に消えていった。美奈は混乱しつつもミカルに従い右奥の扉をくぐる。
部屋を移ると雰囲気が一変した。入った部屋は客間のようでウッド調の温かみのある家具で統一されている。中央にある大きなテーブルには花も飾られており、三人分のテーブルセットが並んでいた。
「どうぞ、好きなところにかけなさい。すぐに戻るよ」
そう言ってミカルは隣接されていたキッチンへと入っていった。その時美奈は気づいたのだが、先程までミカルに巻き付きていたコブラが消えているのだ。まさか久遠の所へ行ったのでは……と、心配する美奈を余所に奥からはコポコポと湯を沸かす音が聞こえてくる。手持ち無沙汰な上、久遠が心配な美奈は椅子に座ることも出来ず立ち尽くしていた。間もなくして戻ったミカルが美奈を見て、その目に浮かんだ心配の色に気づくと困ったように笑う。
「これはこれは、休むどころかまた不安にさせてしまったようだね」
「……えっと」
「大丈夫だよ、そろそろ来るだろうから」
ミカルがそう言って手にもっていたティーポットをテーブルに置くと同時に先程入ってきた扉が開いて久遠が入ってきた。生成りの長袖シャツに白いロングスカートのようなシルエットのガウチョパンツ、黒いストールを肩から巻いている。手には黒い手袋も付けており、昼に背負っていたリュックも手に持っていた。久遠の姿をみて詰めていた息を吐いた美奈はようやく安心したようで、手前の椅子にかけた久遠の隣に座った。その様子をみてミカルはもう一度キッチンに入り、フードカバーをかけた大きなプレートを運んできた。プレートをテーブルの中央に置くと慣れた手つきで紅茶をいれる。三人分用意してそれぞれの前に並べるとプレートにかけていたフードカバーをはずす。プレートには菜食豊かなケーキやクッキー、サンドイッチやフルーツが並べられており、美奈は思わず「わ……」と声を漏らした。その反応に満足したのかミカルは朗らかに笑うと自分も椅子に腰掛けた。
「長く待たせて済まないね。ようやく一息ついてもらえそうで良かった」
ミカルはテーブルの下から灯台を取り出すとテーブルの上へ置き、立てられている蝋燭にマッチで火を付けた。マッチに残った日を消すと燃え殻はテーブルの下に消えた。美奈は不思議に思ってクロスを少し持ち上げて覗いて見たが、テーブルの下には燃え殻が落ちているということもなかった。
「改めて、ミカル・オーベリソンだ。君の所属していたギルドの団長とはちょっとした知り合いでね。まあ詳しい話はリラックスしたあとにでも、ね」
ミカルの言葉に美奈は頷くも、まだ僅かに警戒を溶けずにいた。その原因を察したミカルはもう一度笑ってみせる。
「さっきのコブラならもうこの家にはいないから心配しなくていい。……まあ、久遠が余計な事を言わなければ、だけどな」
自分に向いたミカルの視線に久遠は視線を交えると、すぐにティーカップに移した。そして注がれた紅茶を一口飲むと僅かに眉をひそめてカップを置いた。
「……お気になさらず。今は何も言いませんから」
そう言ってのけた久遠の表情に先程の曇りはもうなかった。
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