一章 雨白島 4話

 水に濡れた石畳を蹴る音が響く。それと同時に短い間隔の息遣いも聞こえてくる。雨が降っているにも関わらず手に握られている傘が開かれる様子もない。複雑な路地を、先程聞こえた地響きだけを頼りに久遠は走り抜けた。迷いなく進んでいた足は不意に止まり、左右に分岐した道を見渡した。


「この辺りのはずなんだけど、どっちに……」


「いやあああああ!!」


 聞こえてきた悲鳴に、久遠に緊張が走った。そう遠くない場所から聞こえる。久遠は迷いなく地面を蹴り右に曲がる。


「(早く、早く……!)」


 目の前に見えた角をもう1度右に曲がる。少し先の角は左にアタリをつける。走り抜けた瞬間、振り下ろされるナイフが視界に入った。






一章 雨白島 4話






「(なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……)」


 美奈は穴から手を伸ばす。しかし襲ってきたゴロツキは穴の前に立ち塞がり、美奈の手がティーノに届くことはない。穴をもう1度潜ろうにも、右手を穴に差し入れた瞬間にゴロツキの錬金魔法で側面の壁に腕ごと埋められてしまい動くことが出来ない。美奈はただ見ている事しか出来ない状況に追い詰められていた。


「ガキ共が……大人を舐めやがって」


 ゴロツキはナイフを持つ腕をぬらりと上げる。美奈の喉が恐怖でヒュッと鳴った。


「やめて! その子は悪くない!」


 美奈の悲鳴を聞いてゴロツキはうれしそうにニタリと笑う。その顔は美奈の恐怖を煽るには十分すぎた。


「安心しな、このガキは一刺しで殺してやる。その後はお前だ、1番えげつない奴に売ってやるよ」


「おね……ちゃん……、逃げて……」


 力を振り絞って声を出したティーノにゴロツキはナイフを振り下ろす。


「(……なんで、私は、守られてばかりで……、ティーノくん……、いずみ……なんで…………)」


 ナイフがティーノの心臓に刺さる寸前、ナイフがピタリと止まった。


「な、何だ?! 動かせねぇ!」


 ゴロツキがナイフを刺そうと力を込めるもナイフはピクリともしない。どこからかコツ、コツ、と石畳を叩く音が反響して聞こえてきた。ゴロツキの視界に細い腕が入ったかと思うと、ナイフの下からティーノの体が抜き取られ、ゴロツキの首元に傘の石突きが突きつけられる。柄が黒く細く、小間が赤い普通の傘だった。ゴロツキが顔をあげると視界には黒いブーツと赤茶の髪が入る。


「うちの従業員に何してくれてんの。営業妨害なんだけど」


 さらに視線をあげた先にはおおよそ15歳くらいと見て取れる子供、久遠がいた。アーモンド型の大きな目がゴロツキを冷たく見下ろしている。久遠は傘を一度手元に戻し、ゴロツキへの視線をそのままにティーノを抱き上げる。ティーノを美奈の側に連れていくとようやくゴロツキからは視線を外し、美奈の左手をティーノに当てさせた。


「ティーノはまだ生きてるよ。ちょっとアイツを軍に差し出す準備してくるから、それまで見てて。もし使えるなら、治癒魔法で傷口がこれ以上開かないようにしといてもらえるかな」


 美奈はティーノが生きていることを確認すると、朦朧とする意識を叱咤して左手に力を込める。魔法で柔らかく熱を持った手を確認し治癒魔法をティーノの傷口に当てた。美奈は久遠を見上げると震える声で伝える。


「ぜ……たいに、死なせま、せん……!」


 その言葉を聞くと久遠はニッと笑って踵を返す。ナイフはいつの間にか動くようになったらしく、ゴロツキは息を荒らげながら久遠を睨んでいた。


「ただ荷物を盗んだだけならともかく、人を刺してるんだ。情状酌量の余地はないね」


「だからどうした。ガキがどうこう出来ることじゃねぇ。そんなことより自分の命の心配でもしてな。お前ら全員今から死ぬんだからな」


 ゴロツキは血に濡れたナイフを久遠に差し向けるが久遠に動じる様子はない。それどころか呆れたようにため息をついている。


「そんな心配はいらないよ。このあと誰も刺されることはないし、君はちゃんと軍に突き出されるんだ。君には祝福の言葉を送るよ、これで罪を償うための牢獄生活が送れるからね。おめでとう」


 久遠は傘をひらくと両手で柄を持ち雨を弾く。とてもゴロツキと向き合っているとは思えない気品のある佇まいだ。


「何奴も此奴も……これだからガキは嫌いなんだよ。……だが、軍のやつは来ねぇよ。こんな路地に今すぐ呼べるわけがないしな」


「ふーん、まあそれもそうだね」


 ゴロツキの言葉に対して久遠はあまりにも呑気な返答をする。ゴロツキの眉がピクリと動き、眉間と額にシワが増えた。しかし久遠に動じる気配はない。


「……あ、そうそう、この前面白い火薬を魚谷船長が見つけてきてくれたんだよね。花火って言うんだって。使い方は確か、導火線に火をつけて……」


 久遠は背負っていたリュックから紙で幾重にも包まれた玉を取り出すと、小さく見えている導火線に火をつけた。躊躇いも無く空へ投げあげるとひゅー……という音が辺りに響く。そして次の瞬間、


パァーン


 大きな音を立てて火薬の弾ける音が聞こえた。空には赤、青、緑、色とりどりの炎が広がるのが見え、久遠の傘やゴロツキの頭上に残った火の粉が落ちてくる。慌てふためいてじたばたと動くゴロツキに対して久遠は顎に右手を当てて考える素振りをする。久遠の持つ傘は何の変哲もないというのに火の粉が当たっても焼ける気配もない。


「音が大きいし、色付きの炎は綺麗だけど火薬としての殺傷能力は低く、さらに目立つね。火薬として見るには実用性に欠けるかな。……でも」


 久遠はニヤッと笑って見せた。


「こんな所で壁の錬成だけならともかく、あんな派手なものぶっぱなしまでしたら軍も様子を見に来るよね。ほら、無事に軍の人も呼べたよ」


 久遠の表情と言葉にゴロツキは顔を引き攣らせ体を強ばらせた。ゴロツキに余裕が無くなるさまを見て久遠はクスクス笑って見せる。


「さて、これで何も問題ないよ。あとは君を捕まえてチェックメイトだ。少しでもましな待遇がいいなら大人しくしてる方が身のためだね」


 ゴロツキは今にも血管が切れそうなほど額に青筋を浮き立たせ久遠に突っ込んできた。ナイフを差し向けられるも久遠は持っていた傘を体の前にスッと下ろす。ギシャァッという音を立ててナイフが傘の表面を走った。しかし傘には傷一つ付いていない。


「ちっ、また強化魔法か!!」


「うーん……まあそういうことでいいよ」


 久遠は傘を畳むと壁とは反対側に走り抜けた。久遠が逃げた方向にゴロツキは向かっていく。再び久遠にナイフを振り下ろすも今度は久遠は華麗に避ける。それどころか体を滑り込ませ足払いを仕掛けた。あまり強い力はかからなかったがゴロツキを地面にへばりつかせることに成功する。


「一応特注トリモチも持ってきてるからこのまま君を拘束してもいいんだけど、流石に僕も怒ってるんだよね。……立ちなよ、もうちょっと痛い目見てもらわないと腹の虫がおさまらない」


 久遠は目を細めてゴロツキを睨むと足元にあるナイフを蹴って遠くに飛ばし、距離をとる。ゴロツキは立ち上がると服の中を探って新たな獲物を取り出そうとした。が、目的のものが見つからない。


「お探しの品はこれかな?」


 ゴロツキの慌てた様子を見て久遠はスッと手を挙げた。手にはナイフやメリケンサックなどの武器が握られている。


「物騒だけど大した品じゃないね。素材の純度は低いし作りも甘い。君が錬成したのだとしたら、術者の腕もたかが知れてる。せっかく貴重な錬成魔法なのに宝の持ち腐れだよね」


「……黙れ」


 ゴロツキが辺りにある岩や瓦礫を集めるとそれらに手を当てる。それらは形を変えゴロツキの手に絡みついていく。棘や刃の付いた歪なグローブに変形した様子を見て久遠は「うっわ……」と呆れた目を向けた。


「貧弱なガキ風情じゃ、こいつの一撃は耐えられねぇよ」


「うーん、そうだね。生身じゃきついからそれじゃあ」


 久遠は屈むと落ちていたキャスケット帽を拾って被る。ティーノが被っていたものだ。


「これで防ごうかな」


「……ふざけてんのか」


 ゴロツキは久遠に向かって勢いよく突っ込む。久遠は怯むことなくニヤリと笑った。


「ふふ、いたって本気♪」


 ゴロツキは久遠の頭蓋を目掛けてグローブを振り下ろす。まっすぐキャスケット帽に当たったグローブは久遠に傷一つ付けることなく砕け散った。


「なんだと!?」


 ゴロツキが怯んだスキに久遠はもう1度ゴロツキから距離をとる。追いかけるようにゴロツキが久遠に突っ込むと久遠は嬉しそうに笑った。


「待ってたよ」


 久遠は両手で傘を持ち地面と平行になるように合わせる。ゴロツキから逃げることなく待ち、ゴロツキの拳が頭蓋を捉える寸前、右手を傘から離し体を反転させて避ける。久遠の滑らかな動きに被っていたキャスケット帽ははらりと地面に落ちた。大きな動きにも関わらず、傘は微動だにしなかった。


ドゴォッ


 鈍い音が響いた。ゴロツキの腹は久遠の傘にめり込む。両者の力の差は体格を見れば歴然だというのに、久遠が構えていた傘はその巨体を受け止めた瞬間もやはり1ミリも動いていなかった。ゴロツキが白目を剥き胃液を吐き出すほどのダメージを受け、それを確認した久遠は傘を自分の体側に引っ張った。ゴロツキは重力に逆らうことなく地面に伏せる。


 数秒間様子を見て、気絶して動けなくなっている事が確認できたところで久遠はバックを漁った。中から一つ袋を取り出すと少し悩み、中身をゴロツキの額に垂らした。袋の中身は特注トリモチで、ゴロツキの額がしっかり地面と接着したことを確認すると袋の口をしっかり縛ってバックに戻した。ゴロツキの腰にあった袋を漁り硬貨の入った袋を抜き取る。そしてようやく大きく息をつく。


「ティーノの治療費、あと花火とトリモチのお代、確かに頂きました。またの利用は、しなくていいからね」


 ゴロツキには当然聞こえていないのだが、久遠はそう言い切ってゴロツキから離れた。起きたところでトリモチが額と地面を引っつけているので動けるはずはない。万一に魔法を使われる可能性もあったが、まずそこまで頭が回らないだろう事は想像に難しくなかった。

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