第2話


「……え?」


 そう口にしたつもりだった。


 だが実際の私は石のようにぴたりと固まり、動揺に見開いた目を、ぎょろりの右手のベランダに向ける。そちらから声がしたのだ。


 秋の匂いがする、少し曇った日曜日の昼下がり。遠くの山からはまだ蝉の声が聞こえる空から、ベランダの床へとそっと視線を下げる。カーテンの隙間から見えたのは……。ウグイス色をした、雀ぐらいの大きさの鳥。うぐいすではない。こちらを向いて、時折左右に頭を振っている。つぶらな黒い目が可愛らしい。


 ……鳥がいるのは間違い無い。でも同じ方向から、おっさんの声がしたのは理解出来ない。


 まさか変質者? このカーテンの向こうにはもしや、壁をよじ登って来た覗き魔だとか露出狂が……。


 ひやっと、体温が下がる。


 逃げよう。そう椅子から、腰を上げた時だった。ウグイス色と雅な感じは表したが、実は生まれ持った感性のままに述べると「小汚い色をしている……」と感じていた鳥が、小さな黒いくちばしを開いたのは。


「よお姉ちゃん。あんたやあんた。何や暗い顔して、どないしたん――」

「ゔあァアっ!?」


 私は反射的にベランダから離れるように、身を引きながら椅子から立ち上がった。


 小汚い鳥が喋った!


「どっ……なん――えぇ!?」


 驚きの余り言葉が出ない私に、翼を広げた小汚い鳥は、右翼でぺしぺしとベランダのガラス戸を叩きながら続ける。


「あーええてそういうん。それよりここ開けてーな。飛ぶん疲れてん」


 鳥が飛ぶのに疲れたって、何て夢の無い言葉だろう。


 というかこんなUMA、言葉が通じたって入れようなんて思わないのが人間だと思う。


 小汚いUMAは、鳥類独特の表情が無い顔を、ぺたりとガラスにくっつけて続けた。


「なあ開けてーな。ええんか? おっきい声出すで? 近所の人に、昼間から若い娘さんが、変なおっさん部屋に連れ込んでると思われてもええんか?」


 カチリと、自分の中でスイッチが入った音がした。


 黙ってベランダに一歩近付くと、からりとベランダの戸を開ける。


 幅は、この小汚いUMAが余裕で入って来られる程度であり、丁度私の膝から下がすっぽりと、ベランダの外に出せる程。


「へっへ……。何や分かっとるやないか……」


 私はベランダを開けると同時に持ち上げていた左足を、入って来ようとした小汚いUMAへ叩き落とした。


「うぐぇええええええええええ!?」


 踏み付けられた小汚いUMAの、濁った悲鳴が外に響く。


 私はぐりぐりと踏み締める事もせず、ぐっと左膝を曲げて、足へゆっくりと体重をかけ始めた。


 鳥なんて子供の頃、うっかり高所から落として半殺しにしてしまった亀と比べれば、脆いなんてものじゃない。ましてこんな矮小わいしょうなサイズその気になれば、部屋にある広辞苑を落としても殺せそうだ。ムカデで試した事はあるので、高さを付けて回数を重ねれば、不可能では無いと思う。初撃で足か、頭に当てれば勝ちだ。


「潰れるゥ! お前ぇえ、何すんねん!」

「…………」

「わっ、分かった! 分かったて! おっちゃんが悪かったわ! この通りや!」

「…………」

「あのすみませんでしたほんまに潰れるんでやめて貰えます!!?」


 ぱっと、小汚いUMAから足を退ける。


 うつ伏せにベランダの床へ踏み付けられていた小汚いUMAは、窒息から脱したように深く息を吸うと、ころんと仰向けになり、翼を広げて転がった。ぜーひーと、荒い呼吸を始める。


 腹を見せるなど最大のチャンスであるとも同時に思うが、反省したようなのでやめておく。別に、生き物を殺す趣味は無いし。


「礼儀のなってない人、ほんまに嫌いなんですね。親の顔が見たなる言いますか、自分の行いが家の恥になるて、全く気い付いてへん人」


 私は苛立ちを収めながらうなじを掻くと、見下ろした小汚いUMAに吐き捨てた。


「――そら喋らはるんでびっくりしましたけれど、それでも頼み方っちゅうもんがあるんちゃいます? 何なんですか脅すような事うて。おっちゃんてうてはるっちゅう事は、うちより倍は年上の方て事でしょう? そんだけ歳重ねといてそないな物言いしか出来でけへんて、ほんま、両手両足で数えても足りんぐらい、周りに迷惑かけて生きて来たんでしょうね。そないな所で寝とらんと今から菓子折りうて、謝りに回ったらどないで?」


 小汚いUMAは起き上がりながら、憎々しげに呟く。


「くっ……! こないな仕打ちする小娘にうたんは初めてや……!」

「ああそうですか」

「喋るカワイイ鳥やで!? ここは『わーっ』って感じのファンタジー的な展開やろ何でいきなりバイオレンスシーンやねん!」

「態度悪いからでしょ」

「肝据わっとるやんけ……」

「用無いんやったら早よ帰って貰えます?」

「あるわ! めっちゃあるわ! おっちゃんはなあ、わざわざ姉ちゃんを助けに来てあげたんやで!」


 小汚いUMAは羽をばたつかせて怒ったと思ったら、そのまま飛んで部屋に入って来た。


「あっ」


 小汚いUMAは私の頭上を越えると、ベランダのカーテンレールへと着地する。そのまま羽を畳むと思いきや、矢張り人間の腕のように広げると、右翼を腰に当て、左翼で胸をぽんと叩いた。


「おっちゃんは人呼んで、『さいわいなことり』! ツイてへん人々にハッピーを贈る、ありがたーい存在なんやで!」

「…………」


 どうやら、夢ではないらしい。



 虚ろな目でさいわいなことりとやらを見上げていた私は、今頃になって思う。



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