雨が降り出した
「どっち? さーぁ、どっち?」
それはライクか、ラブか。聞こうとして、すぐに止めた。この質問は結局のところ問題に含まれる範囲的な何かをマズい具合に狭めるだけだと判断した。
「ちなみにラブね」
マズい具合に狭められてしまった。
「はんっ。どうせライクとラブを混同させた状態で、陽香の方が付き合い長いから陽香かな、とでも言おうと思ったんでしょ?」
「ぐ……」
「あはっ。図星? 私を舐めないでほしいわね。何年あなたを好きでいると思ってるの、見つめてきたと思ってるのっ。オーリのことに関して私は、誰にも何にも負けるつもりはないの。あなたのご両親にすら、負けたくない。確かにライクで私を選ばれても嬉しいのは確かだけど、だけどっ、私はもっと嬉しい答えが欲しい……!」
この上なく、陽香の双眸は真剣だった。訴えかけるように潤み、俺の目を直視していた。
「俺は……」
陽香と夕陽、両者へ好意的感情は持っている。夕陽に関しては黒い影のことがあり疑念と恐怖が含まれているけれども。陽香については……いいや、それでも……「あ……」ぽつ、と鼻の頭に何かが当たった。水滴だ。ぽつ、ぽつ、と次々と当たり、遂には粒が大きくなって、「え、うそ」本格的に降り出した。
「とりあえずあそこへ行こう」
「ひゃー……いっきなりだったわね。いきなり降り出した……」
「屋根があるところあってよかった……いやほんとに」
「でも、あんまり意味なくない? 風強いし、さっきからずっと湿って冷たい風が当たってるし」
「まあなぁ。弱まったらすぐに帰るか」
「そーね。猛ダッシュしなきゃ」
この小さな建物の可能な限り中心の部分に俺と陽香は寄り添い、突然の雨が弱まるのを待っていた。風が強いのと、俺の身長の半分ほどしかない木の壁では、どんどん体温が奪われていく。雨脚が弱まったタイミングで、もうその後はびしょぬれになる覚悟で帰らなければ風邪を引いてしまう。
「はあ、水を差されちゃったわ。文字どーりに」
「あははっ、うまいな」
ふん、と陽香は不機嫌そうに眉をひそめ、そっと俺の顔を見上げた。
「最後の質問、保留にしましょ。制限時間は無制限とするっ、ということで。また突然のタイミングで尋ねるかもだから、そのとき答えてね──ちゃんと、答えてね」
「……分かった」
「はーあ。聞きたかったんだけどなぁ……アレ?」
「誰か来る」と陽香が指さした。俺もその誰かの姿が見えていた。猛烈な速度で、降りしきる雨の中この四阿を目掛けて走ってくる。
「あの子は……」
屋根の下まで来ると、「ちょっと私も雨宿りすみません」とその人物は俺たちのすぐ近くまで来て、ぜえぜえときつそうに肩を上下させた。つらそうなその横顔には、見憶えがあった。
「サキじゃないの」
「へ……あれ、陽香じゃん。それに久之木も」
近泉咲。陽香と仲良しスポーツ少女。紺のウィンドブレーカーにジャージみたいな紺のズボン。雨に打たれてずぶぬれだった。
「こりゃまたぐーぜん。二人して何してたの? 蜜月?」
からかいが多分に含まれる表情を浮かべ、近泉が言う。蜜月て。おっさんか。いやおっさんでも早々言わないか。
「当たりだわ。さすがはサキ……侮れない……」
「はははっ、久之木は相変わらず好かれてるなぁ。幸せ者め、学校にいる男子のいったい何人に殺意を持たれているんだろうなあお前は」
慣れたものなのか、近泉は陽香の言葉を軽く流し、怖いことを言った。
「さすがに殺意まではいかないだろ」
「どうかな。陽香ってけっこう人気あるし。下駄箱に入ってたことだってあるんだぜ、ラブレター的なものがさ」
「へー」
意外……とまではいかない。容姿の良い彼女なら、想いを寄せる男子もいることだろう。
「アレ? 陽香、久之木には言ってなかったの?」
「ほら、嫉妬に狂っちゃうかもだから」
「そういうヤツかな、久之木は。どっちかってーと淡白男に見えるけどねえ。ああ好きな人できたの? そっか、お幸せにな。みたいな、さ」
「俺、そんなに薄情に見えるのか……」
淡白であるのは、薄々自覚しているが。
「さーね。ま、私から見た印象に過ぎないからさ、気を悪くしたならごめん」
「いんや、サキ。その印象は意外と当たってるわ。確かにオーリは淡白で、ときには辛辣よ。なんかテーカン? みたいなのをしてるときだってあるわ」
淡白。辛辣。諦観。少し己を改めるべきか、と悲しみが湧いた。
「じゃあどうしてそんなに久之木のことを好きになれるんだよ?」
「さあ、分かんない。好きだからじゃないの。好きだから好き。言語化なんてできないわ。私の好きを無理やりに言語化したところで、誰にも理解はできないだろうけど。発狂させるかもだし」
「へーぇ。あ、そういや話戻るけどさ、ラブレターと言えば、久之木も一回貰ったよな? しかも割と最近、五月ぐらいだったっけ?」
「ああ、うん」
確かに数か月前、一度だけ貰ったことがある。思春期なりに舞い上がったことも憶えている。机に入っていたその手紙、誰なのかは全く見当がつかなかった。今もなお、である。
「え、誰。ころす」
「落ち着きなって陽香。結局実らない恋だったんだから」
「……そうだな。手紙に書かれている場所に行ったら、誰もいなかったんだよ。でもイタズラとはちょっと違った。置手紙だけが、あった」
『恥ずかしいので止めます。けど忘れないでください。私がきみを好きなのは事実です』
それだけが書かれていた。
その場面を偶然通りがかった近泉に発見され、彼女との間だけに共有する秘密となった次第である。といっても、近泉の方も頻繁にそれを口にしたりはしない。時折、からかうように言ってくるだけだ。「最初から実らない恋だったんだよ」と、そう。
「恥ずかしがりやさんなのね……まあ、そのおかげで命が助かったみたいだけど」
「ブッソーだな陽香は」
はははっ、と近泉は笑い、「っべっしょい!」豪傑みたいなくしゃみをした。
「あー、さっむい」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないね、こりゃ。走ってたら雨がざあざあ降ってきてさー、サイテーの気分だ。服もびしょびしょだし、あー、これ、この感触、中まで水入ってる。ゼッタイ下着まで濡れてる。サイアク」
悪態を吐きながら髪についた水滴を払い、近泉は着ているウィンドブレーカーのファスナーを下ろし、脱いだ。下には半袖の真っ白なシャツを着用しており、その、なんとも直視しづらい有様となっていた。シャツは白く雨に濡れており、更には水色的なあれをその下に着けているものだから……すぐに俺は顔を逸らした。濡れて張り付いて強調されたしなやかで細い体つきが、頭に残った。
「ほっそいわ。サキ、さすがはバレーボールやってるだけあるわね」
「あんただって私と変わらないぐらいには細いでしょ。その上、胸まで大きいし。まったく羨ましいことこの上ないっての」
「ネコ科のボディだわ。その身体はネコ科のボディだわ。しなやかっ」
「やめろってくすぐったい」
じゃれている陽香と近泉の傍ら、俺は外を見ていた。雨少し弱まってきたなぁ、と思っていた。今ぐらいなら、走って帰れるか。
「はぁ。じゃあちょっと私帰るわ。このくらいの雨ならめちゃくちゃダッシュして帰ればまだ被害は小さそうだから。それで温かなお風呂に浸かる。じゃないと風邪ひきそう」
ウィンドブレーカーを再び着用し、ぐ、と近泉が伸びを始める。「っくしゅ」と今度は先ほどよりも女の子に近づいたくしゃみをした。にしても寒そうである。
「俺の上着でいいなら貸すよ。そんなに濡れてないし、汗とかもかいてなかったから。そのままだと寒いだろ」
「えっ……?」
「生地薄いし、たぶん、そんなに重くないだろうからさ。雨避けぐらいにはなると思う」
「あーいや、悪いよ」
困惑している近泉に、「着ておくべきだわ。雨をしのげるだけでも違うんじゃない」と陽香が背中を押した。「オーリの上着だし、どうせびしょ濡れにしてもいいと思うわ。オーリの上着だし。もしサキが男の着てた上着とかやだーとかだったら代わりに私が着るから」
「じゃ、じゃあ……借りよっかな」
「え、着るんだ……てっきりサキが拒否して私が恩恵に与る流れかと思ってたのに」
「い、いいだろ別に。私だって男が着てたとか汗とかそーいうの気にするタイプじゃないんだよ」
陽香に顔を向けたまま目だけをこちらに、近泉は手をそっと出した。
「ほら」
その手に上着を渡す。近泉は受け取ると、そそくさと着用した。
「ありがと」
そう笑い、近泉は「じゃあまたな」と走り去って行った。速かった。さすがはスポーツ少女。
「優しいのね」
ぽつ、とふと落ちた雨粒のように、陽香の口からそんな言葉が零れた。
「寒そうだったからな」
「そういえば私も今すっごく寒いの。すごくすっごくさむい」
「そっか。大変だな」
「身ぐるみ剥ぐわよ」
「はははっ。陽香に貸せる服がないんだから仕方ないだろ。早く俺たちも帰ろう。風邪を引いてしまう前に」
「……そうね」
雨は弱まりつつある。
俺と陽香は二人、家まで全力で走って帰った。途中、通り魔には出遭わなかった。さすがの殺人犯も、雨の日に出歩くのは嫌なようである。
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