『モルスの初恋』読書

 図書館内は非常に静かだ。

 利用者は静かに、各々の時間に耽る。

 俺もまた、書架近くにあるソファーに座り、一冊の本を読んでいる。『モルスの初恋』を、俺は読んでいる。今日は休日。一日を費やすつもりだ。今日こそ、読み終わる。


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 私の想いに返事をすることなくこの世を去ってしまった一人の死者へ、

 三人の少女に想われ、不条理に今も苛まれているだろう一人の生者へ、

 未明の街の一画にて、気が狂うほどの孤独の中に書き上げたこの作品を捧ぐ。

 全き条理を私の好きなあなたが謳歌できるよう願い、

 私を忘れた私の好きなあなたを恨み、呪い、想いつつ。


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 献辞となる。いったい、誰が、誰に向けての? 作者である水代永命は男だ。『モルスの初恋』には著者近影の箇所がない為、インターネットで検索して出てくる画像となるが、画像上にいるのは眼鏡をかけて穏やかそうな表情を浮かべるごく普通の中年男性の姿だった。

 この『あなた』は、恐らくは男だ。献辞の文面から、どことなく女性からの告白文のようにもとれる。一人の死者と、一人の生者、そしてあなた。同一人物、なのか。


「あっれ? クノキくんじゃん。じゃんじゃん? 奇遇ね、キグーキグー」


 顔を上げると、諏訪さんがすぐ近くに立っていた。

 目に映える金の髪を、今日はストレートに流している。


「こんな晴れやかな休日に読書とは、熱心ねえ。感心感心」

「諏訪さんは何か用があるのか」

「うん。アンタに会いに。ここにいるんじゃないかなーって来たらビンゴってところ」


 アンタに会いに、とは中々の殺し文句だ。正直ドキッとした。

 そしてそんな俺の衝撃をちっとも意識していない様子の諏訪さんが、すぐ隣に腰かける。この子はなんというか、常に距離が近い。


「ね、いっしょに読も?」


 思わずどきりとしてしまうような笑みで、彼女は魅力的に言う。なにか香水でも使っているのか、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。


「分からないところとかあったら、先に読み終わった身としてきちんと解説したげるからさー。ネタバレもしたりしないし。いいでしょ? いーでしょー?」

「わ、分かった……」


 そうしてまた、俺は読み始める────前に、


「なあ、この未明の街って何だと思う」

「夜が明ける前の街ってことじゃないかしらね」


 諏訪さんは指折りしつつ、「夜が満ちる前で、夕陽が暮れる前で、朝陽が昇る前の街のこと」と言った。


「最初の最初ってことか」

「そ。最初の最初ってこと」

「最初かぁ……」


 諏訪さんが、まんまるの瞳でじっと見てくる。お目目が大きいのも相まって、彼女にじっと見つめられると圧がすごいように感じ、気圧される。

 

「ねえクノキくん。──未明って、何時から何時までか分かる?」

「何時から……明け方で陽が昇り始める前ぐらいだろ、だから……午前三時とか四時とか、その辺?」

「それも、正しい答えのひとつね」

「ほかにも答えがあるのか」

「午前零時から三時までを未明と呼ぶ場合もあるの」

「へえー……でもそれって深夜だろ」

「そうね、時間帯的には深夜で、真夜中で、夜。でもそれを未明とみなすこともできるのよ」

「へー」

「それじゃあ、読み進めよ? そしてアンタに知っておいてほしいの」


 俺のほうに置いてある『モルスの初恋』に手を伸ばし、諏訪さんはにこりと微笑む。「だな」内心、彼女の距離の近さに落ち着きをなくしつつも、俺は平然を装いそう答えた。


「未明ヶ丘市では、どんなことが起こっていたとみなされたのかをね」


 未明の街、夜明け前の街。最初の最初。

 始まりはきっとそこにあったのだ。


 ────。


「えひひっ」


 ────。


 今起きた。

 今がいつなのかが、すぐには分からなかった。

 なにか図書館で本を見ていた夢、諏訪さんがいた夢、そして今は自室に俺はいる。外は暗い。真っ暗闇だ。だから夜。時計を見る。午前零時四十分。真夜中だ。まだ寝られる。明日は平日? 休日? どっちだろう。分からない。けれども寝る。今は眠い。だから寝る。

 起きたらまた、読まなければいけない。読まなければならない。

 なにをかって? 『モルスの初恋』をだよ。

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