髭と会話を交わした
相変わらずのスーツ姿に、ぴんと背筋を伸ばした実に良い姿勢でのんびりと歩いている。
「ヒゲの人だわ」
「髭の人だな」
確か名前は……稲達孤道さんだ。以前、今日のように一人で散歩していた時に会った際に教えてもらった。
「おや? 君たちは」
稲達さんも俺たちに気づいたらしく、「これはまた、奇遇だね」と柔和な笑みを浮かべた。
「二人でデートかな」「はいっ」
陽香が実に嬉しそうに即答した。
「しかし……危険ではないのかね。学校側にも出歩かないように言われているのだろう?」
「へーきですよ。私たち二人、脚には自信がありますから」
ね、と陽香が俺の方を向く。「はい」と頷いた。俺も陽香も、走る速さや持久力は人並み以上はあるだろう。単純な追いかけっこだけなら、問題はない。この前パンをくわえた少女には普通に追いつかれたが、それはまあ……相手が相手だったし。そのために逃げ切れなかったと考えていい。不条理相手だ、追いつかれても仕方がない。
もしその通り魔が不条理に含まれるものなら?
「ほう。それなら大丈夫……なのだろうか。散々、それこそ耳にタコができるほど言われた君たちに、改めて私からも言うのだが、あまり出歩くのは止めた方がいい。後悔先に立たず、ともいう。出遭ってからでは遅いのだよ、なにもかもが、すべからずにね」
真面目な顔で、稲達さんは俺たちに忠告した。彼の言葉はもっともであり、一人の大人として俺たちを気遣ってくれているためのものだ。
「はーい」
「分かりました」
だからここは、素直に聞こう。
「うむ、うむ。それならよろしい。通り魔とは実に不条理な存在だ。出遭ってしまえば、そこに死の可能性が生じてしまう。だというのに、そんな殺人犯との接触は運が絡み、なおかつそのほとんどが唐突──実に、不条理だ。気を付けたまえよ、若人たち」
顎髭を一つさわり、稲達さんは「それにね」とニヤリとした笑みを浮かべた。
「必ずしも、人間の仕業とは限らない」
人間ではない可能性。
「犬とか猫ってことですか」
陽香がそう言うと、稲達さんは静かに首を振った。横に、である。
「ひとつ言えるのは、不条理は人間の定義から外れる、ということだね。人間というのが何であるのか、その定義をどれほど広くとったとしても、そこに不条理が含まれることは決してないのだよ。人間は条理の生き物だ。常識的で、筋道だっていて、認識は常に正常に働く。それに対し、不条理は言葉通りなのだよ。非常識で、筋道が立たず、異常な認識を従える……それが人間であるはずがない。はずがないのだ。ひとつでも狂ってしまえばもう、人間とは呼べない」
深く息を吐くと、稲達さんは俺を見つめた。真っ直ぐな瞳だ。真っ直ぐ……過ぎる。自らが吐く言葉に、意見に、なにひとつとして疑いを持たない、ある種の危険な真っ直ぐさ──のように、見えた。
「現状を説明してくれる誰かがいてくれれば、と思ったことはないかね?」
「はい……?」
「昔々から、異常な目に遭う不幸な少年少女たちの前には、さ、やけに物知りで不幸の原因となっている事象に精通している人間が現われるものだ。そういう人が突然、目の前に出現してくれないものかと考えたことはないかね?」
現状。俺を苛むこの妙な数々を説明してくれる誰か。それはこういうことだ、とか、こういう原因でそうなっているのだ、とか、そう言ってくれる人間。いてくれれば、妙な出来事、異常な事態の姿がはっきりとわかれば、恐怖や混乱も少しは薄らぐのだろう。いてくれれば、の話だが。少なくとも、今の俺にはいない。
稲達さんは俺が答えるよりも早く、言葉をつづけた。
「けれどね、残念ながらそれはフィクションの中の光景で、現実では往々にしてそうはいかない。そして今は現実だ。理解されない異常事態を、当事者が一人で悩むほかなくなる。異常に囲まれ、異常に巻き込まれ、不条理の最中に佇み続けると人間は果たしてどうなる。答えはひとつだ。境目を見失ってしまうのだよ。認識が混同してくる。主観が果たして人間的なものなのか、それとも
ぎゅ、と手を握られる。陽香だ。不安そうな目が、俺の方を向いていた。それを知ってか知らずか、「話が長くなってしまったようだね」と稲達さんは自らの話を打ち切るように手を挙げた。
「全き条理を謳歌したまえ、若人。描写の視線は君を中央に据えていた。つまりは君が主役だということだ。なんのかって? ハハハッ。このおかしな全ての事柄の、さ」
そして、稲達さんは「それでは。気を付けて帰りたまえよ」と俺たちに背中を向け、悠々と去って行った。話したい事を一方的にまくしたて、何処か満足した様子で。
「あー、怖かった」
はあ、と陽香が肩を落とす。
「途中、なんかずっと喋ってたわね、あのヒゲの人。何言ってるのか分かんなかったし、鬼気迫ってる感じでほんと怖かったし。私、いつでも逃げ出せるように身構えてたもの」
「だな……」
「危険なのって、あのヒゲの人なんじゃないの」
陽香の言葉に苦笑し、俺たちは引き返すことなく道を歩き出した。
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