髭が歩いていた
夕陽を先に下ろし、霜月……霜月先生は俺と陽香を家の前まで送り届けてくれた。「一人でも二人でも、とにかく出歩いたりはしないように」と先生は真剣な表情で言い、霜月先生の乗用車は道の向こう側へと消えていった。
となりで一緒に見送っていた陽香が、けだるげな動作で空を見上げ、言う。
「雨が降りそうだわ」
「ずっと曇ってたからな」
「……少し、頭痛い」
「気圧のせいか」
「かも……あー、意識したら痛み増した気がする……」
「頭痛薬飲んどくか? うちにたぶんあると思うし」
「ううん。へーき。ちょっと頭なでてくれたら治ると思うから」
「そうか……」
特に何も考えず、陽香の頭にぽんと手を置く。髪の感触を受けつつ、手のひらを軽く左右に動かした。陽香のまん丸の目が、きょとんと俺の方を向いた。
「撫でてくれるんだ。軽く流されると思ってた」
「まあ、たまにはな」
「たまには、かぁ……ま、いいや。これでもじゅーぶん、嬉しいしぃ」
目を瞑り、心地よさそうに陽香は笑う。その日なたのような笑みに、夜や月を思わせる何ものも見受けられない。彼女は日なたなのである。それは生であり、死ではないことを意味する。
「あ、そーだオーリ」
「なんだ」
「静香のおっぱい、好き?」
……いきなりなにを?
「それは答えないといけない質問か」
「うん。どうせ『はい』だと思うけど、とりあえず聞いてみたの」
「そっか……」
「そう。ほらオーリ、答えて」
「……見てしまうことは、ある。それが好きだからなのかどうかは正直なところ分からないがな」
「大きいもんね」
「ああ。なんかさ、見ないとこれは逆に失礼かもしれないな、って思う」
「何言ってるの?」
陽香はくすりともしていなかった。真顔で問われた。
「そうだな、ヘンなことを言った。今のは忘れてほしい」
「んふふ、やだけど? 私の記憶領域には、オーリ専用のスペースが設けられているから。もうそこに入っちゃった」
「そっか、入っちゃったか……」
「ね、オーリ。いいこと教えたげよっか?」
「ああ」
「静香と私って、胸のサイズが同じなのよ」
「へー……」
言われ、俺はブレザー姿の陽香の、その胸部に視線を注いだ。注いでしまった。尾瀬は確かに胸が大きい。周知の事実だ。そのサイズといっしょだと言われてしまっては、見ずにいること能わざるなりだった。陽香はしてやったり、という風にニマニマと悪い笑みを浮かべている。してやられたのは明確だった。サイズは違うように見える。嘘にまんまと乗せられた。
「やっぱり、すけべね」
「否定はしない」
あははっ、と陽香が楽しそうに笑い、「あとね、オーリ」と人差し指を立て、なにかを忠告するような表情を浮かべる。それがどんな忠告なのか、予想はついた。だから俺は、
「陽香、その前に一ついいか」
「え? いいけど」
「一番は、陽香だ」
向けられた質問への答えは二択。だが、その実三択目が存在する。以前に陽香が言ったことである。きっと陽香は、俺がその見えている二択の中から答えを選んだということについて、再びの忠告を行おうとしたのだろう。忠告の意図は分からないが、される前にこちらから三択目を選び直した。
案の定、陽香は「へ……?」という表情を浮かべている。
「静香よりも、私の胸ってこと?」
「ああ」
頷く。改めて言うと、とても恥ずかしいことを言ってしまった気分になる。実際そうなのだが、羞恥に怯えたままでは決して進めない道もある。これがその道であるのかはよく分かんない。
「へー。そー……そーなんだ、私の……」
陽香が自らの胸に両の手を置き、なにかを確かめるかのように軽くぽよぽよと触る。そういうのは人目につかないところでした方がいいよと考えつつ、俺は陽香のセルフπタッチから目を逸らした。未だ俺たちは自宅の前の道路上にいる。見る限りでは、路上に通行人の姿はない。
「ふふー。そっか、私のかぁ、ま、そうよね、そうに決まってたわ」
満足そうな、幸せそうな。
そんな陽香の笑い声が耳に届いた。
「ね、オーリ」と陽香が俺の制服の裾を掴み、言う。
「ちょっと散歩行かない?」
「分かった。行こうか」
「あら、そんな二つ返事で良いの? 最悪の場合、今日が私たちの命日になるかもしれないのに」
「そのときはそのときだよ。陽香、脚には自信があるだろ?」
「脚ねえ……もちろん。短距離だけなら、オーリにも勝てるかもしれないし」
「はははっ、それならいい」
会ってしまったら、そのときは逃げればいい。
立ち向かおうとなんてせずに、会話をしようとせず、素直に、俺は彼女の手を引いて逃げればいいのである。
どうしようもない状態に、もし、なってしまったら。
その時は俺が彼女を守るだけだ。
◇
「あ、おにーちゃんにおねーちゃん、おかえりー」
舞はもうすでに帰宅していた。
「ちょっと散歩行ってくる」
「えぇっ? だいじょーぶ? きちんと五体満足で帰って来れるー?」
「平気平気」
「うんうん。だいじょーぶだよ、舞ちゃん。通り魔に遭っちゃったら私たちは全力でここまで逃げて帰ってくるから。それで鍵を閉めて、閉じこもる。それなら生存できるわ」
そして、俺はかけてあった薄手の上着を制服の上に着て、陽香とともに再び家を出た。
運が悪ければ通り魔に出遭って死ぬという可能性を孕んだ散歩へ、である。別に死にたがっているわけじゃない。俺と、たぶん陽香も、まだ死ぬには若すぎるという自覚がある。常々俺はそのことを、再自覚、する。死ぬには早い。俺にとって死は、あまりに遠い。
「んふふー、どこ行こっか? ねえねえオーリ、どこに行こっか?」
肩が触れ合おうかという近さの陽香が、楽しそうにステップを踏む。
「とりあえずは────」
と、そこで。
「あの人は……」
髭の偉丈夫が前方より歩いてくる姿を見た。
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