図書館にいた
「ここであったが百年目だわ……」
少し低めの声で、陽香がそう呟くのが聞こえた。恨みを持って怨霊となった女性のような、おどろおどろしい声音だった。
「なぜあなたにそう恨まれないといけないのか」
聞こえたらしく、夕陽が冷たく言い放つ。
先日の下駄箱での件もあって、夕陽と陽香の仲はよろしくない。根本的に彼女たちは反りが合わないのかもしれない。
「夕陽も勉強か?」
「ええ、そう。学校は休みで、期末テストも近いから。桜利くんたちも?」
「そう。勉強だ。赤点なんかとりたくないしな。家だと勉強しづらいし」
「ふうん」
あんまり関心のない返事をすると、夕陽は「それじゃあ私、勉強するから」と先に書架の方へと歩いて行った。木床を叩くコツコツという足音が、静かな館内に響いた。
「うー……」
「……俺たちも行こうか。どこか、適当な机を見つけてさ」
「そうね。そうしましょ」
そして机を探したものの、皆考えることは同じなのか、朝陽ヶ丘高校の生徒らしき制服姿の男女や、大人たちが座ってなにか参考書なりノートなりを広げていたため、席はほとんど埋まっていた。
唯一、四人掛けの席で一人だけが座っているという空席を見つけ、そこに近寄ってみると、
「げっ……」
いち早く誰か気づいたらしい陽香が嫌そうな表情を浮かべた。
「……あら? また会ったわね」
夕陽が腰かけ、なにかの本を読んでいるのだった。
「この机、俺たちもいいか?」
「お好きにどうぞ」
「ありがとう」
そう言い、俺は腰かける。ちょうど、夕陽の真ん前に当たる場所。そして俺の隣に陽香が座り、渋々と言った表情で鞄の中から教科書とノート、そして先生に配られた宿題の用紙と過去問が収納されたファイルを取り出していた。俺も同様にし、今度のテストの範囲内のページを広げる。夕陽は相変わらず、一冊の本を読んでいた。文庫本だ。題は、『異邦人』。
「ユーヒさんユーヒさん、あなた、お勉強は?」
陽香が夕陽へ問いかける。
「これを読んだらするつもり」
「ふーん。そうなの」
「そうなのよ」
会話はそこで途絶えた。
「それにしても、人が多いな」
「通り魔がいるのにね」
俺の言葉に陽香が答え、右手に持つシャーペンをピコピコと動かす。
「他人事なのでしょうね。今の私たちと、おんなじ」
夕陽が本に向けていた視線をちらとこちらに寄越し、言う。
「まあ、そうだな」
俺たちも家の中ではなくこの図書館に歩いてきているという点では、他の誰とも変わらないのだ。他人事だと思っている。自分たちに降りかかる災いではないのだと認識している。それが誤認であると理解するのは、実際に襲われたそのとき。後の祭りだ。
「ま、そのときはオーリが守ってくれるって言ってたしなー」
シャーペンを唇にあて、横目で俺を見、ニマニマと陽香は言った。
「へえ、優しいんだ」
真正面から、夕陽の鋭い視線がきた。今度はちらりと、ではない。ガン見である。冷たい笑みが含まれているようにも思えた。
「そう。優しいのよオーリって。ときどき辛辣なことも言うけどっ」
「まあ、そうね。優しくなければ、出会ったばかりの転入生を、親切に校舎案内してくれないものね。あのときは本当に助かったわ、桜利くん。綺麗だ、とお褒めの言葉も頂いたし」
「きれっ……!?」
ギュイン、と陽香の首が俺の方を向いた。どういうこと、とその見開かれた真ん丸の目は問うている。言ったのは確かに事実だ。
「それ、ほんとう?」
「うん」
「ほー? そー。そーなのね。私には可愛いとしか言わないのに……ちくしょー……」
「畜生なんて荒い言葉、使わない方がいいわよ。女の子的にNGな気がするから」
「ぬぬぬ……!」
プルプルと陽香が震える。少し涙目ですらある。
「陽香……なんでそこまでムキになるんだ」
「負けてはならない相手、退いてはならない相手というものはいるものなの……!」
どうやら陽香は、夕陽のことをその相手であると認識している。
「今の私がそうであるように! あなただってそうでしょ! 一乃下夕陽!」
興奮した彼女はガタンと椅子を立ち上がり、ビシリと夕陽を指さし、大声を上げたことによる周囲の一般利用客の皆様方の困惑の視線を感じて、そっと座った。
「もう少し、静かにしておかないとな」
「うん……でもオーリだって悪いでしょ……私には綺麗だって言ったりしないのに……私に綺麗って言ったことなんか一度もないのに……」
「……素っ頓狂なことを少し控えれば、綺麗だなと思ってくれる人間は増えるんじゃないか」ヂ。ノイズ音。
口に出し、その内容の恥ずかしさに頭を掻いた。言ってしまえば本音だが、あまり表に出したくない本音だし。そうして俺は、前方を向けずにいる。
「取ってつけたような言葉……そんな言葉で私が機嫌を直すはずない。私の心は傷ついた」
「どうすればいいんだ……」
「あなたの一生に私を寄り添わせてくれるだけでいいけど?」
「ははは……」
陽香と会話をしつつ、俺はさきほどから黙っている夕陽の方を向けずにいる。聞こえたのはノイズ音だ。そうして今までの経験上、ノイズ音は……
「うん? どーしたのオーリ、微妙に顔色が悪いわよ」
「あ、ああ……」
ざあざあと、雨の音。
静か静かな館内に、雨音のみが響き渡る。
「……夕陽」
意を決して前を向くと、やはりそこには黒い影がいた。
さきほどまで人の
「きみは、いったいどうして……」
今の彼女に触れてしまえば、そのとき俺は死ぬのだろうか。
幼い頃に俺は死に損なった。
そのとき出迎えに来てくれた死を、置いてけぼりにしたのだ。だから彼女は迎えに来た。転入生として、俺を迎えに来たのだ。自然、俺の手が影に伸びる。その顔に当たる部分に触れようとする。意識は拒もうとも、結末が俺を死に誘っている。……イヤだ。まだ、まだ死にたくない。
「オーリっ」
ガッ、と腕が掴まれる感触。ヂヂ。柔らかな感触が、腕にかかる。影に伸ばしていた腕を、陽香が掴んだのだ。
「……陽香?」
「なにさっきから一乃下夕陽さんと見つめ合ってんの? そんでなんでその頬に触ろうとしてんの?」
ジト、と彼女の目は至極不機嫌だった。そうか。陽香に夕陽の変化は認識できない。だから、俺と夕陽が見つめ合っているように思えたのだ。そして、当の夕陽は……
「……!」
今度はきちんと人の形に戻っていた。
心なしか紅潮した頬に、いつもは切れ長の目がなぜだか緊張に見開いている。意外と大きな目をしているな、とかそんなことを思った。
「あ、あまりそういうのは……いきなりそういうのは、よくないわ……」
それだけを言うと、夕陽は席を立ち、書架のほうへ歩いて行った。文庫本を戻しに行ったのだろう。
「ねえヘンリー」
「なんだ」
「いきなり無言で女の子の頬を触ろうとする男の人ってどう思う?」
「少し怖いな」
「ふーん?」
陽香のもの言いたげな視線を受けつつ、俺は席を立った。まだ勉強のべの字もできていないが、なんとなく、なにか面白そうな本があるかを探そうと思った。
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