一日が始まった

 夢は見なかった。


 ざあざあと雨が降る音がする。ずいぶんと豪快な雨脚だ。こんな雨の日は、陽香は窓から侵入できない。さすがに雨で滑るため、飛び移るのは危険だろうしな。


「すごい雨。空が号泣してるみたい」


 いたね。

 

「なに、その目。きちんと玄関から入ってきたわよ」


 雨の湿気に負けじと、ジトっとした視線を彼女が向けてくる。短パンに長袖のTシャツ姿で、いつものように椅子に座ってこちらを向いている。ところどころに雨に打たれたらしい水の跡がポツポツとあった。熱がさがったばかりなのに、大丈夫なのだろうか。


「……おはよう」

「うん。おはよ。学校、今日は休みらしいわ」


 ぽつりと、陽香がそう言った。「連絡網で回ってきたの」


「そうか。そりゃあ、そうだよな」


 学校があるところと同じ街の中で人が殺されたのである。万が一を考えて休校の措置をとるのは当然といったところだろう。


「今日はいっしょにいましょうね。どうせ予定ないんでしょ」


 ニマニマと、陽香が微笑む。


「お勉強しなきゃな。期末近いし」

「えー? 勉強と私のどっちが大切なのよー?」

「勉強」

「うぎー」


 その後、俺のところにも電話がかかってきて、休校である旨を伝えられた。

 実際、十一月も間近に迫った今、期末考査も近くある。それなら採る選択肢はひとつである。


「どっか行くの?」


 立ち上がった俺に、陽香が尋ねた。


「図書館に行ってくる」

「ふーん。じゃ、私も行こーっと。ちょーどいいし、分からないところ全部オーリに聞くからっ」

「雨降ってるから寒いぞ。大丈夫か?」

「いいの。オーリといると心が温まるんだから」


 それでいいのだろうか、と思う。ただ純粋に幸せそうに笑う彼女を見ていると、そんな疑問も些細なもので、しごくどうでもいいように思えてくるのも事実だ。

 しかしそれでも懸念がひとつ。


「それに、通り魔に出くわさないとも限らない」

「大丈夫よだーいじょーぶ。死ぬときはいっしょだからね、オーリ」

「できれば死なずに済みたいんだがな」

「それじゃあ、こうしましょ?」


 と、良い考えがある、とばかりに陽香は一本人差し指を立てると、


「私の犠牲でオーリを逃がすわ。それで私は死んじゃうんだけど、できるだけ印象的な死に方をしてオーリの心の中に私の死を刻み込むの。そしたら私はね、ずっとあなたの心にいられる」


 にんまりと、陽香は恍惚の笑みを浮かべた。


「なんてすばらしい考えなのかしら」

「まるで呪いだな」

「もう。言い方が悪いわねー。愛と呼んでほしいわね。好きな人の心の中にずっと住み着いていたい、これを愛と呼ばずしてっ、よ!」


 ふんす、と彼女は興奮したように言った。けれど俺にはそれでも、その考えは呪いとしか取れなかった。相手に消えないショックを与えて、心の中に居続ける。やはり呪いだ。そうならないように、そうはなってしまわないように、通り魔に出くわしたら、俺が彼女をどうにかして守るべきだ。彼女の死が俺を蝕む呪いとなってしまわないように。


「ま、とりあえず行きましょーよ図書館。図書館デート」

「だな」


 結局のところ、出遭わないのが一番いい。

 その後俺たちは階段を降り、リビングでテレビを見ていた舞に図書館へ行くことを伝え、「戸締りはしっかりな」「言われなくても分かってるー」と会話を交わし、そのあと諸々を済ませて私服に着替え、外へ出た。

 相変わらず、外はざあざあと雨が降っていた。


    ◇


 雨下の道中、陽香は傘をくるくると回し始終ご機嫌だった。


「やっぱ寒いな」

「ねー」


 市立朝陽ヶ丘図書館は住宅街から離れたところ、幹線道路沿いの道から曲がって入っていったところに建っている。道なりに進めば朝陽ヶ丘高校にもたどり着くことができ、勉強場所として中々に重宝されている。


「こーんな雨の中、心もとない傘を差して、じわじわと雨粒に濡らされて……ひどい状況よねえ。サイテーな気分だわ」

「あはは……」


 言葉の内容とは裏腹に、天を仰ぐ彼女は実に楽しそうだ。

 俺たち以外に歩行者のいない歩道をいっぱいに使って、ふんふんと鼻歌すら奏でつつ歩いている。


「でも、平気。オーリがいるから」

 

 彼女はどうして、そうも俺を好いてくれるのだろう。

 口に出すことはない、その疑問。たびたび思考まで浮かび上がり、無粋なものだと弾けて消える、泡のような問い。人が人を好きになる理由は、当人しか分からないだろうし。


「あ、見えてきた」


 ぴょんと、陽香は指をさした。

 そこにはひとつの建物が建っていて、『朝陽ヶ丘市立図書館』というプレートが掲げられていた。

 

「いっぱい勉強しよーねオーリっ」

「そうだな」


 傘の水を払い、傘立てに立てる。そして入り口の自動ドアを抜けると同時に、俺たち二人は止まった。


「……なんであなたがここにいんのよ?」

「公共の場所にいることでどうして文句を言われないといけないのかしら」


 一乃下夕陽。彼女が図書館のロビーに佇んでいたのである。あたかもたった今到着したばかりのように、朝陽ヶ丘高校指定の制服姿で、鞄を片手に静かにあった。

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