『モルスの初恋』

     3


 朝のホームルームは延期となった。

 未明ヶ丘高校一年C組──桜花の所属するクラスである──その教室の黒板には、白のチョークでデカデカと『臨時職員会議の為ホームルームは中止。教壇の上のプリントにて自習。早めに終わったら静かに待機』という恐らくは担任である或鐘あるかね先生の文字が書かれ、教壇の上にはクラスの人数分印刷されたプリントが積まれていた。中身は数学だった。

「うへ。ラッキーだぜ、こりゃあ」

 隣の席のモヒカンが自習になったことを喜んでいる。「あ、でもこれ全然わかんねえ」プリントを一目見て早々に弱音を吐いている。

「やべえなこれ。全然分かんねえ。冗談抜きでさっぱり分かんね。オーちゃん、わりいけど力を貸してくんね? 俺も精いっぱい努力はしてみるがよぉ、結果は目に見えてんだわ。結局のところ俺には分かんねえ、っていう結果が待っていることだけは分かる」

「ああ、うん……」

 対して桜花は、心ここにあらずという面持ちでぼんやりと席に座っていた。

「オーちゃん? も、もしかしてこれってオーちゃんも分かんねえタイプの問題なん? だとしたら俺がさっぱり分かんねえのも頷けるな。頷きまくれるわ……」

「いや、違うんだ。ちょっと考え事してて」

「そっか……なら邪魔すんのもわりいし、俺はひとまずこのプリントと闘ってみるぜ。まあ大丈夫だろ、分かんねえなりになにか分かることがあったりするかもしれねえし。そしたら俺はこの自習プリント野郎に勝ったってことだわな。らくしょーよらくしょー」

 そう、モヒカンは見た目に似合わず真面目にシャーペンを握り、プリントと向き合い始めた。「やっぱ分かんねえ」勝敗は決したようである。

 桜花の脳裏を占めるのは、今朝に見た死体だ。誰かに殺されたであろう死体のことだ。そしてその場に見つけたあの黒い影のことだ。久しぶり、と口にしたあの影のことなのだ。

 あの後、両親が警察に連絡した後、すぐに駆け付けた警察に数分間ほど事情を聴取されたのち、桜花はすぐに解放された。そして今日は休みなさい、と両親に言われた。死体を見てしまった、という精神的ショックを慮ってのことだった。ただ、桜花はその言葉に首を横に振った。

 そうして、母親に車で送られ、こうして未明ヶ丘高校に登校しているという次第となった。


「どうしたのかしら。いきなり職員会議だなんて」


 前の席に座る道戸穂乃果が振り返り、そう云う。桜花と同様に高校生となった少女は、より端整になり、より落ち着きが増した。けれども胸が増した様子はない。

「さあな……」

 そう答えたものの、桜花は答えを知っている。あの死体が見つかった、ということが確実に関係していると承知している。そしてあれが他殺死体であり、殺した人間がいるという事実を学校側が問題視しているということも想像が容易だった。

「オーちゃん、考えごと?」

 穂乃果もまた、上の空の桜花の様子を目敏く認め、尋ねる。

「その通りだよ。考え事だ」

「ふうん? それって私に言えること?」

 訝しげに目を細めた穂乃果が、更に質問を重ねる。

「……あんまり言いたくはないかな」

「教えて」

「あー……そんなに知りたいのか?」

「うん。知りたい」

 少しの間、桜花は迷った。けれど穂乃果の鋭い瞳の真剣さに、言ってしまおうかと思った。そのため、言った。

「職員会議の理由、たぶん殺人があったからだと思う」

「殺人……?」

 桜花の口から出た物騒な単語に、穂乃果の眉がぴくりと揺れた。

「実際、見たんだ、俺。今日の朝、人が死んでるのを……」

「うそ……じゃ、ないのよね。オーちゃんがそんな真剣な表情で言うのなら」

「そう。ほんとのことだよ。これが嘘であってくれたらなぁって、俺も思ってる」

「オーちゃん……」

 くく、と苦笑する桜花に、穂乃果は心配そうな表情を浮かべた。

「その、大丈夫? 死体見ちゃったんでしょ?」

「平気平気、俺は大丈夫。まだ実感が追い付いていないだけかもだけどな」

「そう……手、握ってあげましょうか?」

 唐突な申し出に、桜花は「は?」となった。

「なんで?」

「急に実感が湧いて、オーちゃんの手がぶるぶると震えだすかもしれないし。その対策としてひとつ案じてみたのだけど」

 それがなにか、とばかりに穂乃果は言い、言い終わるときにはもう、桜花の右手を自らの両手で捕まえていた。素早い所作であった。

「ほ、穂乃果?」

 ぎゅう、と両手で挟まれるかたちとなった右手に、穂乃果の手の温もりが抗うすべなく伝わってくる。人間の手。まさしく彼女は人間の手をしていた。血の通う、体温を持つ、人間の。

「すこし、冷たい……オーちゃんって冷え性?」

「いや、分からないけどさ、穂乃果、ここ教室……俺、割と恥ずかしいから……」

 周囲のクラスメイト達は各々の会話や、自習のプリントに注意が向いている。けれども数人ばかりは、桜花たちの方に目が向いている者も確かにいるのである。二人の会話に聞き耳を立てたり、ちらと横目で盗み見ていたり、堂々と真正面から見て「やべえ、ラブがラブッてら……」とモヒカンしていたり、と。

「そうなの?」

 きょとんとした穂乃果の問いに、

「そうなんだよ」

 と桜花は頷く。

「ふうん。そうなんだ。なら、やめて……」

 穂乃果は桜花の手を挟む両手の圧を弱め、にやりといたずらっぽく笑い、「あげない」と再び力をくわえた。柔らかな手の感触が、桜花の手を挟みこむ。

「ぐ……」

 仕方なしに、桜花は穂乃果の気が済むまで挟ませておくことにした。そしたら十分以上そのままだった。その間、穂乃果は満足そうにニコニコと笑いながら、桜花と小声で会話をしていた。バカップルだ、とクラスメイトの何人かは思った。桜花の野郎、と端整ではある穂乃果に想いを寄せる数人の生徒は思った。妬けちゃうなー、と友人と茶化す園田そのだ咲良さくらの姿があった。苦笑いをしつつ心を痛ませている小瀬おぜ静葉しずはの姿があった。微笑ましい気持ちが九割で仲の良い二人を横目に見る遠泉とおいずみ早紀さきの姿があった。宇宙外に存在する超巨大生命体の姿を夢想し受信する美月みつき海未うみの姿があった。人の恋愛劇など、傍から見てみれば一様にどうでもよく、コメディめいているものなのである。

 

     4


 羨ましい。羨ましい。羨ましい。

『私』という死は、互いに想いを寄せ合う二人を見、悲しみと憎しみが沸き起こる。

 道戸穂乃果には、のうのうと幸せに生きている責任がある。


     5


 一限目が終わる時間に、一年C組の担任である或鐘あるかね流奏るそう先生が戻ってきた。神妙な表情で、なにか一大事が起こったとでもいうかのように眉をひそめながら。

「通り魔が出た」

 教壇で或鐘あるかね先生の発したその一言に、クラス内の人間皆が黙った。しん、と一斉に静かになった教室内に、先生は更なる言葉を響かせる。

「今朝のことだ。登校中に見てしまった人もいるだろうが……あそこ、住宅街のところに公園があるだろう? 未明ヶ丘四丁目公園、という名称だったと思うが……その公園の中で、人が…………ああ、直接言った方が良いのかもな、人が殺されていた。はっきりと死んでいると分かるような姿で、倒れていたようだ」

 教室内にどよめきが走った。

 殺されていた、と先生は言った。死んでいる、と口にした。

 誰かが殺されたのだ。同じ街の中で。身近な場所で。

 そして、殺した人間がいる。

 桜花は思い出す。今朝、目にした死体、そしてそこに佇んでいた黒い影を、その場面を明瞭に想起した。

「通報されたときにはもう、通り魔の姿はなかった。当然だな。そして今もってなお、その行方は知れない。何処にいるか分かっていない」

 クラスにどよめきが起こっている。ざわざわと騒ぎ始める生徒達へ、或鐘先生は冷静な声音で話し続ける。

「臨時の職員会議の結果、今日の授業は午前中のみとなった。半ドンというわけだが、事態が事態だ、喜ばしいことでは決してない。授業終了後は、この学校内、できればこのクラス内に待機していなさい。親御さんや知り合いの方が迎えに来てくれるまでな。親御さんたちの仕事の都合上、迎えが厳しそうな人は、僕達教員が家まで送る。いいか? 絶対に、絶対にだぞ、一人で帰ろうとはしないこと。二人や三人でもだ。警察がいるとはいえ、絶対の安全は保証できない。必ず、誰かが送ってくれるまでこの学校内に待機していなさい。分かったな?」

 クラス全員が不安そうに頷いていた。ふざけようとする者など一人もいない。それほどまでに或鐘先生の声はあまりにも真剣で、事態は深刻だった。

「今から親御さんへ連絡をして、お昼ごろに迎えに来てくれるようならそうするように。職員室の電話も使用可能だ。そして後でもう一度言うが、必ず帰る際には僕に言いなさい。誰が帰ったかを記録し、漏れがなく、皆が無事に帰宅できたことを把握するためだから。一時限目は少し遅れて開始する。公衆電話は確実に混むだろうから、僕の携帯を使用してもいい。ただし変なところは見ないでくれよ? 僕にも見てほしくない部分は存在するんだからな」

 そんなジョークを飛ばし、或鐘先生は携帯をポケットから取り出して、教壇の上に置いた。

 そしてクラスメイト達が皆一斉に、家族と連絡をとるために席を立ち、あるいは今しがた聞いた衝撃の出来事について雑談を交わすために、教室を出て行った。

「っべえな……」

 出遅れたらしい衛門(モヒカン)が、桜花の隣で心底不安そうに呟く。

「やばいな」

「うん……オーちゃん、俺もちっとカアチャンに連絡してくるわ」

「ああ」

「センセーにケータイ借りよっと」

 或鐘あるかね先生に携帯を借りに行くモヒカンの後姿を、桜花はボーっと眺めていた。ぞろぞろと教室を出るクラスメイト達に、彼はすっかりと置いてけぼりをくらっていた。

「オーちゃんは行かないの?」

「ん、後ででいいかなって。たぶん、母さんが家にいるだろうし」

「なら、少しお願いしていいかしら……? 今、私の家、きっとお父さんもお母さんも出かけてるから……」

「分かった」

 逡巡の間もなく桜花は快諾した。道戸家と条理家は隣同士であるため、穂乃果をいっしょに乗せて帰ることになにも不都合はないのである。

「ありがと、オーちゃん」

 微笑む穂乃果を前に、桜花の頭の中は死体と黒い影で占められていた。

 久しぶり、と影は言った。

 死体の傍に影は立っていた。

「……」

 嫌な予感。とても嫌で、それでいて不吉な予感を、桜花は抱いた。

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