メメント森手前広場
茶葉を買った後、稲達は一人そこを訪れていた。
どっぷりと黄昏に沈む街並みから少し外れた、その場所。
メメント森なる、夕陽ヶ丘市の自然スポットの一つである。憩いの場であるこの森の敷地内には、およそ場違いなラブホテルの廃墟があった。ずっと前から、あった。
そうして先日、そのラブホテルの廃墟の中で、一人の高校生が死んでいた。たった一人で冷たくなっているのを、帰宅しないことを不審に思い捜索していた家族及び知人たちが発見したようだ。
ニュースで大々的に取り沙汰されているその場所の付近に、稲達は来ていたのだ。具体的には、その廃墟の近くにある広場の、なぜだか一本だけイヤに成長している樹の傍に。
「ふむ……」
その『パトリア』という、皮肉の効いた名称のラブホテルの廃墟には、未だ複数の警察官が出入りしていることだろう。そこに一民間人である稲達が行っては、まるで怪しいヒゲとなってしまう。警察にも知人がいるにはいるが、彼がこの現場に来ているとは断言できない。
すると、ふと──携帯が鳴った。
取り出すと、そこには
「……どうしたのかね?」
「所長、あのっ」
やけに焦燥を帯びる芙月の声に、違和感を覚えた。
「まだ戻ってきては」
ぶつん、とそこで急に通話が途切れた。電波が届いていないわけでもない。アンテナはばっちり立っている。では、これは、いったい……「フフフ」まだ耳元に当てている携帯から、そんな笑い声。そして。
「ひぃ、さぁ、しぃ、ぶぅ、りぃ❤」
気が狂ったかのように、その声の悦びは絶頂していた。
「きみは……?!」
そして、ぶつんと、また途切れる。
今度こそ完全に通話が切れたようだった。
「……おお、これは」
そう一人呟き、稲達は目の前の木に体を預けるそれを目にし、驚愕に目を見開いた。
先程まではなかった。
なのに今はある、その、焦点の合わない眼で虚空を見上げている少女、服を剥かれ、剥き出しとなった裸体はところどころが削がれ、脂肪と筋線維が直に見え、血が流れている。腕は片方がなくなっていて、足もまた片方だけがくっついている。身体のパーツを少しばかり失くしてしまった、そんな中途半端にバラバラな……死体。
そして、樹の幹に張り付いた────
「なんという、なんたることだ」
一、二歩後じさり、稲達は歯を噛みしめ、どうにか正気を保った。脂汗が額に浮かんでいる。
そして、更なる異常が起こった。
稲達の視線の中で、その死体や幹に貼り付けられた文字までもがフッと幻のように掻き消えたのだ。たった今の悪夢を掻き消すかのように首を振ると、稲達は事務所へと急いだ。
◇
「理くん!」
事務所の扉を開けると、「あ、所長」ソファーに座る姪と、「おかえり、所長さん」そこに向かい合って座っている妻──久之木夕陽の姿があった。
「……? きみが、なぜここに」
「夫の仕事場に妻がいることのなにが問題なの?」
「い、いや、問題などないが……学校はどうしたんだ」
「先日の殺人事件で、今日の学校はもう終わったわ。生徒は早々に帰宅、私たち教員も、職員会議の後に帰宅。それで私はここに来たというわけ。あなたがいつも私を家に置いてけぼりにして引きこもっているこの事務所に。分かった?」
「まあ、そうだが……」
理由は分からないが、夕陽の機嫌は悪いようである。
稲達はそんな妻からの圧に若干戸惑いながらも、さきほどの電話の件を芙月へと問う。
「それよりも、理くん。さっきの電話だが」
「あ、それは……さきほど、この事務所に来客がありそうになったんです」
「来客が? それは珍しいな。それにありそうとはどういうことかね?」
自然とそのようなことを口に出してしまい、稲達は悲しい気持ちになった。けれど今は悲しんでいる場合ではないのである。
「鍵をかけていましたので、お帰りになったようです。私は正直、怖くて動けませんでしたし。だってその方は、いいえ、ソレは……」
「うむ……」
「人ではありません」
人ではないモノの来訪があったと、目の前の姪は言う。
「訪ね先は、所長、あなたです」
「……そうか」
脳裏によぎるは、ついさきほどの、メメント森でのあの着信だった。
久しぶり、と電話をかけてきた相手は言った。久しぶり。再会を喜び、親しみと情欲を込められたその挨拶。きっと、この事務所を訪ねてきたソレと同一存在だ。
「扉のすりガラスの向こうから、この事務所の中を覗き込んでいました。怖くてじっとしていたら……久之木先生が来たんです」
「そうか……」
ちら、と妻の顔を見遣ると、「何も見ていないのよ」と彼女は首を横に振る。「私が来た時にはもう誰もいなかったわ」
「で、ですが……あの真っ黒はドアノブをガチャガチャと回して、あのすりガラスの向こう側に確かにいたんです。それでいきなり鍵が開いて、先生が……はっ!? まさか先生があの真っ黒な影……!?」
「違うわ」
きっぱりと言い切ると、夕陽は稲達をじぃっと見つめ、言った。
「あなたも知らないでしょう?」
なにも感情の込められていない声に問いかけられ、稲達は困ったように頭を掻く。
「……私にも、思い当たる節はないな」
妻の視線を受けながら、そうして稲達は首を横に振る。まるで夕陽の姿から逃げるかのように、稲達はそのまま玄関を見つめ続けた。
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