『モルスの初恋』
6
──私は、私?
──それとも僕? 俺? あたし? ワシ? うち? わたくし? あたくし? 自分?
死は思考する。選択する。自らという
──ねえ。ねえ。
──あなたは、どれが好き?
死は尋ねる。
椅子に座って机に向かい、夏休みの宿題(算数)と死闘を繰り広げている桜花少年へと、届かぬ質問を行う。
今の桜花に死は視えていない。今の桜花はあまりにも生者だった。故に死は遠い。その為に死との間に隔たりがある。結果、死は寂しい思いをしていた。触れられない。会話できない。もどかしい。悲しい。寂しい。寂しい。寂しい。
「だー!」
叫び、桜花は鉛筆を筆箱にインした。心なしか頭から煙が出ているようにも思える。夏休みの
──ねえ、どの呼び方があなたの好み?
死の問いは、桜花には届かない。
「プールだ。今の俺に必要なのはプールなんだ……!」
部屋を飛び出し、桜花は電話へと向かった。
そして、幼馴染であるエモン少年へと電話を掛けた。呼び出し音がなる、エモンのお母さんが出る、エモンに代わってもらう、エモンが受話器を耳に当てる、
「プール!」
「おう!」
即答だった。考えていることはお互いに同じだったようだ。
少年二人は、こうしてプールへ行くこととなった。
もう一人の幼馴染である少女は、なんか気恥ずかしいから呼ばなかった。
少年はそろそろ、思春期に突入しつつある。
7
「あっちい……」
丸刈り坊主のエモンが、顔中に汗の粒を浮かべつつ顔を顰めている。
「あっちぃよぉ、どうにかしてくれよお、オーちゃんんん」
「無理だ。俺には無理だ」
その隣で歩いている桜花もまた、身体中が汗びっしょりだった。真夏である。太陽が無慈悲な殺人光線で焼き殺そうとしてくる季節なのだ。もうすっごくあっつい。
「だが──プールはすぐ目の前にある」
事実、二人の少年の眼前には、市民プール。未明ヶ丘市が設けたプール施設が鎮座ましましていた。このうだるような暑い日のソレは、正に天国への入口のようだ。そんな天国への門をくぐり、お金を払い、更衣室を飛び出ると、そこには涼やかな景色が波打っていた。
「ひへへ、俺が先ぜよオーちゃん!」
駆けだすエモンに、桜花は「プールサイドは走っちゃダメなんだぞ」と至極まっとうな注意を行う。
「そうだったわ……プールの誘惑で、すっかり忘れちまってたわ」
桜花の注意を聞くや、エモンはすぐにウォーキングへと切り替えた。エモン少年は聞き分けが良かった。
「あーーー!」
──と。二人の少年はそんな大声を聞く。
「ん……おあ、
そちらを見ると、幼馴染のもう一人、穂乃香少女がいた。
「穂乃香……」
桜花は、その姿に妙な気恥ずかしさを覚えた。
そして、えもいわれぬ魅力も、また。
「なに、二人してこっそりとプールに来てるのよ。私を差し置いて!」
「いや、お前こそ一人でプール来てんじゃんかよ」
「一人じゃないわ。二人よ」
そう言い、穂乃香が振り返る。その奥には、クラスメイトの女子が一人──
「こ、こんにちは……桜花くん、衛門くん」
「こんにちは」
桜花が挨拶を返すと、小瀬は穂乃香の後ろに隠れてしまった。その勢いで揺れた。頬が真っ赤だ。尾瀬の声は全体的にボリュームが小さいが、それに反して身体のボリュームはなんかすごい。さっき揺れたし。桜花はそういう年頃なのである。
「小瀬さんやべぇ……」
エモン少年の感想が聞こえる。大方、桜花と同様の想いを抱いたのだろう。すごい、おっきい……と。
それに対して穂乃香は……。
「なによその眼は。オーちゃん、なによその眼はァ……ああん?」
ずしずしと、刃のように鋭利な視線をこちらに抜き放った穂乃香が歩いてくる。揺れてない。
「ち、ちがっ……」
すぐ眼前にまで迫って来た穂乃香に、桜花は困惑した。そして彼女はあろうことか、その顔を桜花に近づけ、小声で言う。
「オーちゃんの視線の先ぐらい分かるわよ、このスケベ」
「ぐ……」
当たっている。
当たってはいるが、総てではない。桜花の視線は確かに小瀬さんに引き寄せられた、だがそれ以上に、
「ち、違う」
穂乃香のことも、見てしまっていた。その姿に魅力を感じていた。桜花はそう言う年頃なのだ。
「ふん。私だって……」
ぷんぷんと、穂乃香は去ってしまった。
「小瀬さん、ぱねえわ……」
エモンは、まだ余韻に浸っている。
楽しそうな光景。
楽しそうな四人。
死は、彼らの生み出すその景色が、羨ましくなった。
桜花と会話できる衛門が、静葉が、穂乃香が羨ましくなった。
桜花と触れ合える彼らが、羨ましくなった。
桜花の視線の先にある彼女……道戸穂乃香が、羨ましく、妬ましく……「私」と彼女は言う。桜花の好きな穂乃香は、自分のことを『私』と言う。
桜花に愛されるであろう穂乃香は、女だ。女の彼女は、『私』。
──私。
死の性別と、一人称は決まった。
ほんの少し、死は人間に近づいた。
8
ぷかぷかと、桜花は流れるプールに流されていた。
逆らおうなどとは思わない。疲れるだけだ。流れに身を任せるほうが、遥かに楽だ。
「俺は負けねええええええ!」
丸刈り坊主の知り合いが必死に流れに逆らっているようだが、まあどうでもいい。桜花はちゃぷちゃぷと浮かび、ただひたすらにぼーっとしていた。冷たく、心地よい。涼しく、気持ちいい。プール最高、ここで暮らしたい……。
市民プール内には、大勢の人、人、人……。
喧騒と水しぶき。賑やかで、夏らしい。
──ふふ。
その中で、ちらりと。
桜花は真っ黒なヒトガタが目に映ったという──錯覚を覚えた。一瞬、ほんの一瞬の幻。黒いヒトガタが、動く人々の間から、こちらを見ていた。
「……っ」
ぶるっと、寒気がした。
水の冷たさのせいではない。
もっと感情に訴えるこれは──恐怖だ。
「私は、『私』」
「────ッ?!」
今度は、声。
喧騒の中に混じって、あまりにも明瞭にその声は聞こえた。冷たく、抑揚がなく、人間味のない。そしてその声は、はっきりと自分に語りかけてきていた。
桜花は周囲を見回すも、流れるプールに敗北し流れていく衛門と、小瀬さん(大きい)と穂乃香(小さい……)がこっちを見ている姿と、数多の人しかいない。
「……なんだったんだ」
黒い影と、耳元に聞こえた声。
それは、桜花少年の、ひと夏の恐怖体験であった。
9
「あー楽しかったぁ」
ぐ、と伸びをし、穂乃果は満足そうにはふぅ、と息を吐いた。
あの後、四人で思う存分にプールで遊び、疲れてへとへとの家路である。衛門少年と静葉少女とはそれぞれ途中で別れて、今は家が隣同士の桜花と穂乃果の二人きりだった。
「また行こうね」
「うん。行こう」
朱に染まる空に、頬を撫でる涼しい風。なんとも心地のよい時間だった。
ワンピース姿の穂乃果は、ふふ、と先ほどからとても機嫌がよさそうに微笑んでいる。まるで好きな人といっしょにいられることが嬉しくてたまらない少女のようである。
「あ、そうそうオーちゃん。きーたことある?」
「なにを?」
「転入生って、パンをくわえてやってくるものなんだって!」
「そうなんだ。なんか慌ただしいね」
「そ、あわただしーの。きゃー、遅刻しちゃうーってなってて、それで結ばれる運命の人にタックルしてくるって話だよ、とーとつに! なんだかロマンチックだよねっ」
見知らぬ転入生がパンをくわえて唐突にタックルしてくる。それはロマンというよりは恐怖なのでは、と桜花少年は疑問に思った。
「ね、オーちゃん? もし私が転校しちゃって、またオーちゃんの学校に戻ってこれたらね、真っ先にタックルするから。覚悟してて?」
「わ、分かった……」
桜花は覚悟した。
タックルするから、というその宣言が、目の前の少女の遠回りな想いの吐露であることに、桜花はおろか言った穂乃果のほうも気付いていない。
「でも、私転校の予定とかぜんぜんないんだけどね」
「そっかぁ、ならタックルできないね」
「できないねー。でもいいの、それって私がオーちゃんといっしょにいられるってことだから!」
今度はストレートな少女の言葉に、桜花は照れくさくなり、顔をそむけた。
「んー?」
なんで顔背けるのー? とばかりに、穂乃果は桜花を見つめている。
賢明であろうとなかろうともうお気づきのことであろうが、道戸穂乃果は条理桜花のことがとてもとても好きで大好きなのである。その愛情の深さは、あまりに不快。
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