稲達ヒューマンリサーチ(株)
稲達が茶葉を買いに出て行った後、
『誰か来ても居留守を使うように』
と稲達は言った。今話題の通り魔が来るとも限らないからだろう。
『どうせ誰も来ませんよ』
と芙月は答えた。稲達は悲しそうな顔をしていた。
そもそも、普通のお客さんですら稀にしか来ないのだ。
ここ、稲達ヒューマンリサーチ(株)なる興信所には。
稲達は芙月の伯父に当たるヒゲであり、この小さな会社の経営者だ。肩書上は偉いヒゲなのである。ただ、ヒゲ以外に従業員はおらず、芙月が暇つぶしとヒゲの観察の為に学校帰りやら休日やらに頻繁に出入りする以外は、滅多に依頼人はこない。時折、浮気調査やら人探しやらの依頼が入ってくるだけ。現在も同様、人が訪れる気配はない。
『考えてみれば、中年男性が一人だけの事務所に可愛らしい女子高生が頻繁に出入りしているんですね。それは朝であったり、夜であったり……なんだか、犯罪的です。ご近所さんに噂されるかも』
ある日、芙月はそんなことをなんとなく言った。他意なんてない。
『きみが姪であるのは周知の事実だよ』
パソコンのディスプレイを眺めていたヒゲはそんな返しをした。
『伯父と姪……どこか、妖しくないですか』
『怪しい? どこがだね?』
『……このヒゲめっ』
なんとなくムッとしたので、芙月はヒゲのヒゲを引っ張ってやった。
思い返しながら、芙月はムスッとなった。あまり感情を表に出すタイプではないが、こと
ふと、芙月は思う。
──稲達は、いつから稲達なのだろうか。
記憶の限りでは、芙月の小さな頃から稲達は稲達だった。客の滅多に来ない事務所の中で一人、あんなに綺麗な奥さんをほったらかしにして思案に暮れている。
稲達の妻は、見惚れるほどに綺麗だ。昔も、今も。鋭い系の、刃物のような美人。生というよりも、死。朝の陽ざしよりも、夕暮れの、あのほのかに切ない一日の黄昏時間のような──
『奥さんへの愛はあるんですか』
ある日、いつも事務所にいる稲達へ、いつも事務所にいる芙月は言った。
『ある』
答えはそれだけ。シンプルだが、覆しようのない力強さがあった。どうしようもないほどに、稲達は妻を好きなのだ。
『……このヒゲめっ』
なんとなくムッとなったので、芙月はヒゲのヒゲを引っ張ってやった。
外に人の気配はない。
『いつから、所長はダンディズムだったんですか』
ある日、ヒゲを整えているヒゲへ、芙月は尋ねた。
『生まれたときからだね。私はダンディズムの申し子であるから』
真面目な顔で、ヒゲはふざけたことを言った。
『へー』
芙月は適当に相槌を打った。
『……実のところ、私には目標があったんだ。まあ、ふと思ったものなのだけどね。結果、こうなってしまったのだよ』
ぽつりとヒゲは言い、それきり黙りこんでヒゲを只管整えていた。
外に人の気配はない。
──カタリと、足音がした。誰かが階段を上って来たらしい。
この事務所は雑居ビルの二階にある。鉄製の階段を上ることで、入り口の扉へと直接来られる。
「……」
芙月は息をひそめて、入り口の扉のすりガラスの向こうを見た。その向こうの、黒い人影を見据えた。人の気配はない。生者の息遣いを感じない。耳障りな静寂が場を満たしている。
この場に、生きている人間は理芙月ただ一人だ。
では、あれは?
すりガラスの奥にいる、この事務所内を覗き込んでいるあれは?
あの、人の影にしてはあまりにも黒すぎるヒトガタは、いったいなに?
「っ……」
芙月は、更に息をひそめ、押し黙った。
物音をひとつとして立てないように、ひた黙った。
嫌な汗が流れゆく。身体が微かに震えているのを覚える。
理解できないなにかが、この事務所内を覗き込んでいるのが分かる。
ガチャ、と。ノブが回った。
鍵が閉まっているために、それはドアを開けられなかった。
「……」
けれども、影は去らない。
ピンポーン、と。インターホンが鳴らされた。
「……」
芙月は一切動かず、影をじっと見ていた。
影は去らない。
あれはなんだ。あれはなんだ。あれはなんだ。あれはなんだ。
頭の中で問いが繰り返される。答えの出ない問いが。
芙月は握りしめた拳を汗まみれに、震える身体をひとり抱き締め、微かに涙の浮かぶ瞳でずっと、すりガラスの向こうの影を見続けた。無音だった。外の通りを走る車の音、往来を行く人々の話声、なにもかもが掻き消えていた。まるでこの空間だけが切り取られ、孤立したかのように。
稲達は、まだ帰らない。
(帰ってきちゃ、ダメ)
あれの目的は、自分か──それか、稲達だ。
そして、あれと稲達を鉢合わせさせてはならないと、芙月は直感的に理解した。だから、携帯を取り出し、『ヒゲ』と書かれている連絡先へ、通話ボタンを押した。
耳元へ携帯を当てる。コール音が鳴り響く。
一度、二度、三度、四度……「はい」ヒゲの声。
稲達の声が受話口より聞こえる。その事実に芙月はふっと肩の力が抜けるのを感じた。安心、というのか。「どうしたのかね」
「所長、あの、まだ戻ってきては──」
ぶつんと、通話が途切れる。
「え……?」
なぜ、と思う間もなく、切れたはずの受話口から、それは聞こえた。
「ふーん……同じ感触がするわ」
女の声だった。
動揺と戦慄に二の句を継げない芙月へ、電話越しの女はさらに続ける。
「けどあなた、半端ものね。虚構と、現実の」
芙月は、女の言葉の意味が理解できなかった。思考が硬直しきっている彼女へ、女は憐れむ様に、蔑んだ。
「なんて気の毒。可哀そう」
「あ、あなたはっ……」
言い返そうと口を開こうとした瞬間、電話は途切れ、ガチ、と事務所の入り口の鍵が開けられる音。稲達ではない。彼はたった今電話をしたばかりではないか。
なら、今ドアノブを回し、開けようとしているソレは……「……あら、芙月ちゃん」
声。
玲瓏な、涼しげな。
黒の長髪、切れ長の目、端整に過ぎる造形の顔。
「ダー……あの人は何処かへ出かけたの?」
「く、久之木先生……」
「いいのよ、芙月ちゃん。ここは学校じゃないのだから、先生と呼ばなくてもね」
「あ、はい……なら、おばさんと呼びます」
「おば……ま、まあ、事実なのだけれど。事実ではあるのだけれど……」
芙月の言葉に複雑な表情を浮かべる彼女。
ヒゲの妻である久之木夕陽が、そこにいる。
「それよりも今、入り口に誰かいませんでしたか……?」
「入り口? いいえ、誰も……」
尋ね、返ってきたその答え。
誰もいなかった。なのに誰かがいた。
電話越しの声。女の声。冷たい、憐れむような声。
いったい、なにがいた?
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