彼女との帰り道

 かあ、かあとカラスが鳴く。

 朱く染まる空を飛びまわり、俺たちに早く帰れと促しているかのようだ。

 どういうことの運びか、俺は諏訪さんといっしょに帰宅していた。なんでも、家の方向がいっしょらしい。


「この街は平和ねえ。窃盗も通り魔も変態も辻斬りもいないし」

「平和だよ。平和すぎて退屈になるぐらいには平和だ」


 俺たちの住むこの夕陽ヶ丘市には事件というものがまるでない。だいぶ前に、わりと物騒な事件が起こったらしいが、それは犯人が死んで終わりというものだったと聞く。それ以来、この街は平和だ。細かいところで交通事故やら喧嘩やらは発生しているのだろうけど、街全体を恐怖と不安に陥らせるような事態は起こっていない。


「ふぅん、退屈。アンタ、退屈してるの? 今の日常にぃ? ぜぇーたくな悩みだわ」

「分かってる。我ながら贅沢な悩みってことはな」

「ふーん……あ、そーだ。アンタって産まれてからずっとこの街に住んでるんでしょ? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「昔、この街で連続猟奇殺人があったでしょ? ほら、通り魔の仕業で、無差別殺人だったって言われてるやつ」


 その事件というのはきっと、たった今俺が思い浮かべていた物騒な事件と同一のことだろう。


「あったね。俺も父さんや母さん、それに友だちやカンナヅキ先生が話しているのを聞いただけだから、詳しくは知らないけどな」 

「犯人って、誰だったの? 死んだんでしょ? 確か自殺したって」

「犯人、かぁ……あー、確か……」


 犯人は、

 犯人は、

 犯人は、

 犯人は、

 犯人は、

 犯人は、


「あれ……?」


 誰、だったっけ。犯人の名前が出てこない。ど忘れしてしまったのだろうか。


「ん、忘れちゃったワケ?」

「ああ……ごめんけど、そうみたいだな」

「そ。なら他のところで調べてみるわ。インターネットっていう便利な代物もあることだし」

「だな……」


 確かに聞いたと思ったんだけどなぁ。

 あの、最後に自殺した………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………「クノキくん?」「へっ?」


「アハハッ、なんなのその間抜けな声っ。固まっちゃってたわよ、まるでフリーズだわ。処理能力を超えちゃったばかりに起こっちゃうあのフリーズ。そんなに難しい考え事でもしてたの?」

「い、いや……」

「ふふ、おかしー」


 諏訪さんはニコニコと笑っている。上機嫌な様子だ。


「あ、そうだ。クノキくんって本とか読む?」

「いや、あんまり……」

「そっかぁ、一冊、お勧めしたい本があったんだけどなー。もう鞄の中に入ってるお勧めしたい本が一冊あったんだけどなぁ、私の好きなこの本があるんだけどなーーー」


 鞄と俺を交互に見やりながら、諏訪さんは言う。明らかに期待しているのがバレバレなその様子に、なんだか微笑ましい気分になる。


「どんな本だ?」

「む、興味ある? 興味あるんだクノキくんはっ。そっか、しっかたないなー、おしえたげよっかなぁ」


 鞄に手を入れ、彼女はすっと一冊の本を取り出した。ハードカバーだ。


「これ、なんだけど」


 その本は。

 モルスの初恋、という題だった。


「知ってる?」

「知らない」

「水代永命っていう作家がいるのよ。この頃バラエティとかに出て、なにやら有識者っぽいことをペラペラ喋ってるのがね。その人の本」

「へー……」


 見たこと……は、ない。


「ほんとに知らないみたいね……ここの、夕陽ヶ丘市の出身なのに」

「そうなのか……」

「そうなのよねー。はい」


 そう、彼女は本を、『モルスの初恋』を差し出してくる。モルスの……モルスってなんだ。どこかのサイトで見た、喋るぬいぐるみにチョップしたときの叫び声に近い響きだ。その初恋……チョップから始まる恋、というわけだろうか。どんな恋だってんだ。


「ねえ、ネタバレしていい?」

「え、ダメだけど」


 彼女の申し出を瞬時に断る。たった今貸し出そうとしてくる本のネタバレをしようなど、鬼畜の所業である。人の心の有無を疑問視するレベルだ。


「その本の最後はね」

「あー聞こえないなー」


 耳に手をあて、彼女から発せられる悪意をディフェンスする。「冗談なのに」とだけ聞こえた。


「ま、いいわ。読んでみてよ、面白いから」

「そうする。ありがとな」

「まーね────えひひっ」


 ふざけてるような企んでいるような、目をいたずらっぽく細めて口角を吊り上げ白く綺麗な歯をにんまりさせて、彼女はそんな妙な笑い方をした。「ぶっ」なんか吹き出してしまった。


「なんで笑うの?」

「い、いや、きみの笑い方がヘンにツボに入っちゃったものだから……」

「……その本の最後は、初恋がみ」

「あーごめん、ごめんなさい」


 今度はマジにネタバレしようとした彼女をとめる。「ふん」とだけ言う彼女の様子から見るに、なんとかネタバレを押しとどめられたようである。


「でもさ、その本。ちょっと誤字ってるのよね」

「誤字?」

「うん、誤字。あー、この場合は誤植っていうのかな、それ。ちょびっとあったりして気になるの」

「へー」


「出版社に言ってみようかしら。そしたらなんかもらえるかも」と彼女は悪い笑みをしていた。


 そして、やがて俺の家に着き、諏訪さんと別れた。


 部屋に上がり、鞄からさきほど借りた本を取り出し、ページをめくる。

 本の最初、すぐ最初のページの真ん中部分に数行、


『私の想いに返事をすることなくこの世を去ってしまった一人の死者へ、

 三人の少女に想われ、不条理に今も苛まれているだろう一人の生者へ、

 未明の街の一画にて、気が狂うほどの孤独の中に書き上げたこの作品を捧ぐ。

 全き条理を私の好きなあなたが謳歌できるよう願い、

 私を忘れた私の好きなあなたを恨み、呪い、想いつつ。』


 という文章が連なっていた。

 これは……何と言ったっけ、確か……。


「……こういうときこそネットだな」

 

 手元の携帯に『小説 最初 捧ぐ』と打ち込んで検索してみると、さすがは現代社会、すぐに答えが出てきた。どうにも献辞、というものであるらしい。

 中身を読んでみるにこれは……告白なのか、恨みを書いているのか。両方のような気もする。となれば当然、この本の作者である水代永命からとある誰かへ向けて、だ。


「……男だ」


 水代永命で検索すると、その姿が出てきた。ごくごく一般的な男性だった。

 意外だった。

 献辞に書いてある文章の内容から見て、どことなく女性を想像していた。女性から男性への告白のようにもとれる文章だったからだ。それともこれは……一人の死者に。一人の生者。あなた。気が狂う。私を忘れた。呪い。恨み。全き条理。謳歌。謳歌。謳歌。謳歌。謳歌。


 ……もう少し、読んでみよう。

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