案内は終わった
「今日はありがとう、案内してくれて」
「どういたしまして」
天井には電灯が灯り、外はすっかり夕闇に包まれていた。相変わらず人気のない学校内は、夕暮れのもの悲しさは消え去り、夜の不気味さが満ち始めていた。ポツポツと光る電灯の心細さがまた、得体のしれない不穏さを纏っているように見えた。
小さい頃から夜は苦手だ。暗闇に満ちていて、アレが何処にいるのか分からなくなる。
「なにか、聞いておきたいことはないかしら」
「ん?」
唐突に、夕陽がそう切り出した。両手で鞄を持ち、その怜悧な瞳で俺を真正面から見つめている。これから家路に就こうというのに、不思議なことを言う。
「……私ときみのお喋りは、今日はもうここまでだろうし。もしかするときみ、私と喋りたりないかもしれないだろうし」
「ない……な。特に思い当たらない」
「ほんとう?」
「あ、ああ。嘘は言ってない」
すぐに思い当たらないのは事実だ。今日の案内のときに話すことは大体話したことだし、むしろ彼女が喋り足りないのではないのだろうか。
「……なにもない?」
夕陽の瞳が、微かに悲しみの色を帯びた。ように見えた。
「そ、そういやさ、夕陽はどこの町から転校して来たんだ?」
ツキシノシノシ、と最初の挨拶の時に彼女は言っていた。この朝陽ヶ丘市の隣らしいが、そのような名前の町はない。朝陽ヶ丘市に隣接するのは、月ヶ峰市や星降町だ。
「どこからって。私の自己紹介、聞いてなかったの?」
くすりと、夕陽は笑う。嬉しそうだな、とそんな印象を覚えた。
「あー、うん。ちょっと別のことを考えてて、聞き逃した」
「ふーぅん? 緊張の中頑張っていた私の自己紹介、聞いてくれなかったんだ」
「とても緊張しているようには見えなかったぞ」
「緊張してたわ、とてもね。表に出てこなかっただけで」
「そういうものか」
「そういうものよ。それで桜利くんの質問だけれどね、私はお隣の
「そう遠くないんだな」
「ええ」
月ヶ峰市は、電車で一時間もかからないところにある。朝陽ヶ丘市よりも街並みが都会で店も豊富であるため、遊びに行く生徒も多い。現に俺やレモン、それに陽香も行くことが度々だ。
「他にはないの、桜利くん」
「んー……やっぱりないよ、夕陽」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうな顔をした。
「やっぱり、名前で呼ばれるのっていいわね。桜利くんはそうは思わない?」
「いや、そういうのは……ない、な……」
「ええ?」
「『ええ?』と言われてもなぁ」
「……ねえ、桜利くん?」
「うん?」
「急に重いことを言ってもいいかしら?」
「重いこと……? グラムか?」
「ううん。メンタルのほう」
メンタル的な意味、とは。心にクる感じなのか。
「構わないよ」
「私ね、ときどき……世界に自分の居場所なんてないのかもしれない、って。そう思うことがあるの」
……本当に重い。
「確かに、重いな」
「ふふふ、重いでしょう?」
冗談めかす彼女の瞳。悪戯っぽく歪んでいるその奥に、寂寥が凝っているようにも見える。俺の主観であるから正確なところは不明だが。
「でも名前を呼ばれると、そうでもなくなる。ほら、名前を呼ぶのって相手を認識してるからでしょう?」
「あ、ああ……」
「相手に認識されていると、私は自分の居場所にいるんだって思う。私のいる場所、私がここにいる場所、間違いなく、私の居場所である空間……ね、ね、桜利くん。桜利くん」
「うん……?」
俺の名を呼びかける彼女は笑んでいる。
寂寥ではない。諦観でもない。悪戯でもない。冗談でもない。
どう、感じればいいのだろう。笑顔は笑顔だ。笑顔であるのだが、どこか無機質で、仮面のようで、まるで得体のしれない……そう、得体のしれない。
夕陽が、得体のしれない笑みを浮かべていた。
「私を、呼んで?」
名を呼ぶ。存在認識。居場所の自覚。
「……夕陽」
俺が彼女の名を呼ぶと、夕陽の得体のしれない笑みが、嬉しそうな
「もういちど」
「夕陽」
「ふふ、もういっかいっ」
「夕陽」
段々恥ずかしくなってきた。夕陽はといえば、無邪気に、楽しそうに笑っている。よほど嬉しいようだ。名を呼ばれるということが。存在を認識されるということが。
「じゃあ────」
無邪気な笑みがまた、得体のしれない笑みへ。
そして────ヂ、ヂヂ、ヂ。
「っ……!」
黒。黒い。
「ワタシは?」
なにが。誰だ。
俺の目の前に夕陽はいない。いない。いないいないいない。影だけ。黒い影だけ。いるのは黒い。死が。黒い影だけ。死がいる。俺の目の前にすぐ。俺の視界に張り付いている。平面に。奥行きなく。無く。
「う、あっ……!」
「ねえ、呼んで?」
後ずさる。もつれ、震える足でソレと距離をとる。
「呼んで? 名前、私の名前────ねえ、ねえ? 桜利くん。さっきみたいに。さっきみたいに。ねえ? 桜利くん? 桜利くん? ねえねえねえ、桜利くん?」
ヒトガタの影。止まったままの足で、こちらへと動いている。校舎の床上を滑るように、俺の下へと。
「呼んで? 呼んでよ。ねえ。呼んでくれないの?」
「お前っ……! やっぱ、り……!」
こいつは。俺があの時に見た。あの時もあの時もあの時もあの時もあの時にも見た! アレに、あの影に違いな「あれれー? なにしてるのー? 久之木くーん?」……い……?
ヂヂ。
能天気な声が、耳に届いた。
「ひの……か……?」
「なーにしーてるーのかっなー? こーんな夜の校舎の下駄箱でー、キレーな美人転入貧乳生の誰々ちゃんとふたりっきりでー? いったいどーんな不純イセーコーユーにシャレ込もーとしーてるのかっなー? おー? オーリ? オーリオーリオーリ? おー?」
歌うように言いながら、ぱたぱたと陽香が駆けてくる。若干キレ気味で駆けてくる。
俺と、黒い影、その間に。
「陽香! ダメだ! 逃げ……ろ?」
黒い影は、いつの間にか一乃下夕陽の姿へと戻っていた。心なしか顔を赤らめ、むすっとしているように見える。まるでコンプレックスを指摘されて恥じらいと怒りを露わにしている少女のようだ。
「逃げろー? 逃げろってどーゆー意味なのよ? 私は何者からも逃げないわよっ」
ふんすっ、と陽香は言う。威勢がよい。「あなたこそ逃げないでよね、オーリ?」はい。
「貧乳、というのは頂けないわ。それはいったい、誰のことかしら。誰のことかしら」
「ふーん? 自覚ないんだ? ないんだー? ほんとにー?」
自らの胸を心なしか張りながら、陽香は『はんっ』と鼻で笑った。勝ち誇った笑みだった。
「それよりも桜利くんよ。あなたの失礼な言葉なんかよりもずっと優先すべきことだわ」
夕陽がそう言い、陽香を素通りし、俺のところへ数歩、駆け寄る。
「お、れ? 俺がどうか、したのか」
「だって桜利くん。きみ、いきなり顔が真っ青になって、なにかに怯えるように後ずさりし始めたでしょう?」
「怯えたって……それは……」
お前にだよ。
喉元まで上ってきたその言葉は、心配そうに眉根をひそめる夕陽の顔を見、また下がっていった。彼女は真に俺を心配している。そうとしか、そうとしか見えないのだ。
「桜利くん?」
「い、いや……なんでも、ない……」
「なにか怖いものでも見えたの? それとも単に体調が急に悪くなっただけ?」
「体調がちょっとな、眩暈がしたんだ。それだけだよ。もう大丈夫」
手を貸そうと伸ばされた夕陽の手を片手をあげてそっと断り、俺はひとつ首を振った。あれは幻。あれは幻覚、幻聴。そう、思うほかない。でなければ現状の夕陽とあの夕陽、まるで態度が違うのだ。
そう考えていると、腕を引っ張られた。目の前の夕陽は、伸ばした手を引っ込めるタイミングを逃しているようで、両手が空いている。だから違う。じゃあ、俺の腕を掴んでいるのは……
「だめ、だから」
陽香だ。じっとりとした目で俺を睨みつけ、次いで夕陽をけん制した。
「オーリはね、今悩んでるのよ。一晩で家にいる家族がマイナス2プラス1されて戸惑ってるの。だからこれ以上の負荷をかけないであげてほしいのっ」
「マイナス2? プラス1? 意味が分からないわ」
陽香に睨まれ、夕陽は気分を害した様子で、今度は苛立ちのために眉をひそめている。
「サキに聞いたわ。転入生さん、あなたがオーリを校舎の案内人に選んだのでしょ? 勝手にね。そして案内はもう終わった。おわりおわり。しゅーりょーしました。ならこれ以上あなたとオーリがいっしょにいなくてもよいのではなくて?」
急なお嬢様言葉で、陽香は夕陽を突っぱねる。言葉の勢いで、茶色いサイドテールがふるふると揺れている。夕陽の双眸が陽香を見つめ返した。威圧的で、射殺さんばかりの視線だ。
「陽香。夕陽は勝手に選んだわけじゃない。俺も彼女の案内に同意している。それにだ、負荷とかも全然ない。そもそも俺は疲れてない。だから、そう強く言う必要はないんだ」
「けど、オーリ」
陽香がなにかを言いかけたところで、夕陽がくるりと踵を返した。そして向こう側を向いたまま、
「ありがとう、桜利くん。今日は本当に楽しかったわ。また、明日」
と言うと、そのまま鞄をつかみ、去っていった。
「また、明日な」
彼女の背中に声をかけ、出入口の玄関を抜け去っていく彼女の背中を俺は見つめていた。
未だ俺の腕を掴んだままの陽香は、あっかんべーをしていた。
「小学生か」
「……ふんっ」
明日は、彼女に教室内でまた会うことだろう。
彼女は不気味で、言動がちぐはぐなところがある。だが、あの寂しげな言葉、瞳もまた、彼女の一部分なことには違いない。
「まったくの直感で、十割がたはいちゃもんかもしれないけれどね、オーリ」
「なに」
「あの子は不吉だわ」
夕陽という、転入生。
「そりゃあ、確かにただの難癖だな。百パーいちゃもんだ」
「……オーリはあの子の肩を持つってワケ? ひんにゅー派?」
「そういうわけじゃない。事実を言ったまでだ」
不吉だ、不気味だと一切を跳ね除けるのは早計に過ぎるように思う。直感に過ぎないが、確かに俺は見た。彼女の瞳の奥に固まっていた寂しさに、一人の人間の姿を。黒。……ダメだ。今はあの黒いヒトガタの姿は頭から振り払おう。
「ふーん?」
じぃっと俺を見上げる陽香の視線から目を逸らし、「もう帰ろう」とだけ言う。「そうね」と言い、俺たちもまた、帰宅の途に就いた。
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