『モルスの初恋』

 Ⅰ 出会い


     0


 もう一度。もう一度。もう一度。もう一度。もうわ一度。もう一度。もうひと一度。もう一度。もう一度。おもう一度。もう一度。もう一度。もうす一度。もう一度。もうり一度。もう一度。もう一度。もういち度。もう一度。もう一度。もう一度れな。もう一度。もう一た度。もう一度。もう一度。もう一だ度。もう一度。もう一度。もう一度。いもう一度。もうり一度。もう一度。もう一度。もう一度。しもう一度。もう一度。もう一度。もでう一度。もうないち度。もう一度。もう一度。もう一度て。もう一度。


     1


 死というものが、ひとりの生者に恋をした。

 最初の出会いは、森の中、崩れかけの廃墟にて。

 足をすべらせた少年が後頭部を強打した折に、少年はまどろみゆく景色の中で死と出会う。

 歪曲した世界から現れたソレは、真っ黒な楕円であった。人をすら模していない、ただの黒くひらべったい、視界に張り付けたかのように奥行きのない平面。x軸とy軸のみで構成されたそれはあまりにも不確定不明瞭で、肉体も精神も存在しない、ひたすらに虚数的な骸であった。

 濁る視界、隔絶しゆく意識に乖離する現在の最中、少年は己が死にかけていると理解した。 

 あまりにも呆気なく、味気ない終幕に苦笑すら浮かぶ。

 視界に張り付いた影は徐々にその姿を大きくしていく。

 少年へと近づいて来ている。

 アレに捕まれば、そのとき自分は世界の裏へと落ち込むのだろう。

 なるほど恐ろしい、すばらしく怖い。少年は堪え難い程に恐怖した。無意識に、本能的に己の死を見据えたのだ。まだ二桁の始まりほどしか生きていない少年は、一縷も死への鬼胎を抱いたことなどなかったというのに。

 彼は生きた肉塊であり、思考する有機物である。

 故に。

 全ての行動を、常磐の緊縛を施すが如くに遮断する死を、無常たる生者へ常なる暗幕を垂らしてくるそのために怖れられていたその黒影を、やはり一般的な思考生物と同様に畏怖したのだ。

 目が熱くなり、頬を流れる液体を感じる。漏らすかもしれない。いや、多少、出た。

 少年は悲惨な様となりつつも、眼前のモヤを凝視した。目を離せなかったからだ。それは恐怖であり、また、並々ならない好奇からの行為でもあった。未だ誰も経験したことのない、死という事象を体験している。視認している。こんな体験談、あの幼馴染二人が聞いたら奇声をあげて卒倒するかもしれない。惜しいのは、もはや誰にも言いふらすことが叶わない事実であろうか。


 ふと、モヤが動くことを止めた。

 ぴたりと、静止した。

 

 見られたことに驚いた。驚いたということに驚いた。萌芽した自意識はあまりにも都合よく死を制止した。少年は死を認識した、そして死は存在を始めた。時間軸が死をとらえる、生者が背負う歳月の呪いが死を巻き込んだ。戸惑った、うろたえ困惑し当惑してオロオロした。ウロウロし混乱して、混交する万感はまず恐怖を打ち出した。未知であった。突然上げられた幕になにを為すかを理解できずに右往左往する新米演者のような有様となった。少年はとっくの昔に意識が途切れ、後は死が少年に触れるのみであるというのに。それだけでコトは全て終わるというに、死はそれを為さず、ただひたすらに湧き上がる意識に恐怖していた。

「オーちゃん!?」

 同じ年頃であろう少年と少女が一人ずつ、空を仰いで死にかけている少年へと駆けてきている。崩れた天井より差しこむ太陽が、なんとも、眩しそうに少年の顔を照らしていた。

「ど、どうしよう、どうしようホノカ!?」

「まずは人を呼んでこなきゃっ、人を!」

「お、俺っ、行ってくる!」

 幼馴染二人の行動は、そのまま少年の命を救う。

 こうして少年は、くたばり損なった。

 少年を迎えに現われた死は、ぽつんと取り残されてしまった。


     2


 なにもかもが真っ白な部屋に桜花おうかという名の少年はいた。フカフカのベッドの上、日なたの香り漂うシーツを握り、起き上がっている。傍らには友人と思わしき二人の少年少女がいる。

「なんで一人であんな危険なところに行ったの。バカにも程があるよばかあ」

 少女はそう桜花を非難する。涙は今もなお止まっていない。桜花は頭をかき、気まずそうに窓の外へ目をやる。

「オーちゃん、おまっ、おまっえあ! ほんと、ば、っ……っ! ばーかっ、お前ほんっとに、ば……か……くそあ! ふっ……ひぐ、うぐ……!」

 もう一人の少年の顔はもはや原型を留めてすらいなかった。グチャグチャのグショグショとなり、愉快な形相となっていた。その泣き顔を見て桜花は思わず笑ってしまう。

「笑うんじゃねえ! 死にかけたクセに!」

 当然、怒られた。

「ごめん。エモン」

 エモンと呼ばれた少年はハンカチを顔にゴシゴシと当てている。嗚咽はまだ止まらないようで、しゃくり上げる音が清潔で無機質な室内に響く。開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを膨らませて桜花の髪を優しく撫でた。桜花は俯き、独り言のようにぽつりと言う。

「ほんとにゴメン、二人とも。思いっきり心配かけた……」

 ことの発端は、桜花が勝手に二人と離れて気ままに散歩していたことである。

 年月を経て脆くなった足場が崩れ、落っこちた拍子に頭を強打した。

 入ってはいけないと言われていた廃墟へ立ち入ったことがそもそも大人に怒られてしまう行為で、更に自業自得のドジを踏んでしまった末に、今に至る。廃墟探索の発案者である桜花は、二人を巻き込んでしまう形になったことに強い責任と申し訳なさを感じていた。

「もう心配かけないでね。私もエモンも、えげつないくらい涙出たんだから」

 少女は桜花の目を見つめて、そう言った。死にかけの桜花の顔を見、その非現実的な様相に喪失を恐怖した彼女は、こうして今もなお生き続けている桜花を認識し、深い安堵のため息を吐いて思う。

 よかった、生きてて……ほんとうに、よかった。

 これにより、少女の中でこの出来事はオチがついた。身勝手にも強引にオチをつけたのだ。

「生きてりゃ、いいんだよ。許す。俺はそこまで器の小さい男にはなりたくねえし」

 言い、少年はそっぽを向く。まだ、桜花の姿を見ると泣きそうになってしまう。少年はひどく泣き虫だった。それを理解しているから、桜花と少女は口を綻ばせた。三人は相互に理解者であった。仲良しだったのだ、この三人は、三人は、三人は、三人は、そのころから、ずっと。

「ああ、そういえばオーちゃん。あなたのお父さんとお母さん、微笑の裏に鬼を潜ませていたよ」

 少女は言う、実に楽しそうな笑みで。それを受けて桜花は、憔悴した表情で俯き、言った。

「もう、怒られたよ」

「すごかった?」

「うん……鬼というよりも、修羅だった」

 桜花は激怒する両親の姿に震えたことを思い出す。そして初めて、泣いている両親の姿を見たことを思い出した。それほど愚かなことをしたのだ。母は泣き顔で叱咤し、父はその厳しい目で桜花を窘めつつも、その瞳は潤んでいた。ひとしきり怒られたのち、両親は桜花を抱き締めた。その抱擁から解放されたとき、桜花の両肩はびっしょりになっていた。

 親の涙に、幼い桜花はどんな言葉よりも衝撃を受け、罪悪感を抱いた。とても悪いことをしてしまった、と。親を泣かせるという愚行の後悔の味を、桜花は人生の早々に知った。

「とても、怖かったな、ほんと……」

 思い出し、また涙が出そうになってしまった桜花は、誤魔化すように視線を二人からそらす。

 

 ――見つかっちゃった。

 

 やっと見てもらえたと喜びを覚えた。恐怖と違う、初めて知覚する感情。

 真白の壁を背にして佇むソレを桜花は見つけた。視線が釘づけされる。目を離せない。

「オーちゃん?」

 少女は部屋の隅を見つめて固まる桜花を不思議がる。少年と少女は桜花の見つめる先、部屋の隅、ドアのすぐ隣を見るも、そこにはなにもいない。

 

 だが、

 

 このときより、桜花の視界の中に死が在り始めた。

 白を基調とした部屋の隅に、真っ黒な楕円がひとつ。物を言わずに桜花を眺めている。

 そのことを桜花は、なにも言わず、誰にもなにも語ろうとはしなかった。少女は思う、少年は思う、桜花を取り巻く者達は考える。くたばりゾコナイの桜花は、もっとも、誰よりも死に近い人間である。そう、無意識に認識する。

 桜花は死にかけた。

 ゆえに桜花は死を捉え、死は桜花を捉えた。

 

 死という者が、一人の生者に恋をする。

 それは死にかけより始まった。認識より開始した。

 カーテンは開かれている。風になびいて桜花の頬を叩く。

 未だ猶予たゆたう死は、形を為さない口を歪めて囁く。


 ――ねえ、視て?

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