女の子は食パンをくわえていた

「あら、野生のダンディズムだわ」


 登校途中、ふとそのように口にした陽香の視線の先。

 ゴミ捨て場の近く、住宅街にぽつりと存在する廃屋の前に、確かにダンディズムがいた。ご立派なカイゼル髭を蓄えた、ステロタイプのダンディズムだ。感傷的な眼差しで廃屋を見上げている。様になってるなあ、と思う。俺も将来的にはあんなダンディズムになりたい。なれるかな。


「おはようございます」


 なんとなく、挨拶をする。次いで陽香も「おはようございますっ」と快活にご挨拶。


「……うむ、おはよう」


 渋いバリトンボイスで返された。ぱねえ。かっけえ。


「しかし……これはこれは、お似合いのお二人だ」

「そうですか……!?」


 陽香がぱああと顔を輝かせた。


「君たちは正に表裏一体。お互いに欠かせない存在であるだろう」

「そんな、夫婦だなんてっ、そんな、やですよもーっ!」


 きゃーっ、と陽香が顔を赤らめる。

 ニュアンス的には間違ってはいないだろうけどさ。俺はというと……なんだろう。そのダンディズムのその言葉が、どうにも不吉な含みがあるように感じた。ダンディズムはにこやかな笑みを浮かべてはいるんだけど……ううん、分からん。気のせいか。気のせいだな。


「表あるところにまた、裏もある。摂理としては当然だ。うむ、頑張りたまえよ、若人わこうど。ではでは、君たちにまた逢えることを望み、その瞬間を楽しみにしつつ私は去ろう」


 堂々とした態度で、ダンディズムは去って行った。時間帯的に出勤だろうか。ああいう伊達男が勤めるような職種っていったいどんなものが……探偵とかか?


「お似合いだって! 夫婦ですって! ああ、世界はなんだってこんなにキレイなのかしら! すべてが美しく見えるわ! わーるどいずそーびゅーてぃふる! きゃっはー!」


 陽香の機嫌は右肩に上がりすぎて奇声さえあげている。けれどもそれは唐突に、疑問とともに急停止した。


「……? なにあれ?」

「……分からん」


 俺たちの目の前に、十字路があった。

 朝陽ヶ丘高校に行くためにはまっすぐに突っ切る必要がある、ただそれだけの場所だ。問題はその曲がり角、向かって右側のところに誰かが突っ立っていたのである。


「食パン、かしら……」

「食パン、だな……」


 食パンをくわえて。


「あれ、私たちの高校の制服よね……」

「俺たちの高校の制服だな……」


 朝陽ヶ丘高校指定の制服を着用して。


「動かないわ……」

「動かないな……」


 微動だにせず。


「女の子ね……」

「ああ、女の子だ……」


 胸元まであるだろうか。まっすぐな黒髪を流した、切れ長の瞳の少女だった。

 

「まさか、通り魔……?」

「となると凶器は食パンか……」

「ううん。きっとバターナイフを懐に隠し持ってるんだわ……!」

「痛そうだなぁ……」


 俺たちは前に進み、少女の姿が近づいてくる。


「それにしても動かないわね」

「時が止まっているみたいだ」

「そうね……」

「うん……」

「……ねえ、あの子の前を通らないといけないのよね?」

「通らないといけないな」

「大丈夫かしら」

「……大丈夫、だろう」


 たぶん。きっと。おそらくは。


「陽香。念のため、あの子の側に俺がいようか。一見無害そうだけど、ひょっとすると食パンで殴りかかってこないとも限らない。ジャムでもついていた日には洗濯が大変そうだし」

「だ、大丈夫なの……? 本当に通り魔とも限らないわ。いくら見た目が女子高生でも、秘めたる猟奇性を持っているかもしれないのに……」

「そのときはそのとき。全力で逃げるぞ」

「う、うん……」


 そうして俺たちは恐る恐る、食パンをくわえて微動だにしない朝陽ヶ丘高校の制服を着用した女子高生の目の前を通過しようと歩みだした。

 脇目にその子の様子を窺いながら、俺と陽香は十字路を通る。


「……」

「……お、おはよう」

「……」


 通り際、一応はと挨拶をするが、無視された。なにも反応がない。


「……」


 本当に、全く反応がない。服屋なんかによくあるマネキンみたいだ。見た目は精巧に人間してるのに。人間のガワだけを被った、人間ではないナニカ。それが動き出す機会を延々と待ち続けている……か? まさかな。

 俺はその子の前に立ち止まり、面と向かって彼女を見た。

 全く動かない。瞬きすらせず、瞳も硬直している。本当にこの子の時は止まってしまっている。微かな動きも、それこそ呼吸による胸部の動きも見られない。


「なにをあなたは胸をまじまじと見てるのよ」

「いや、本当に動かないなって」

「まったく。見るなら私のを見なさいっての。ほら」


 そう、陽香は胸を張った。ほら、じゃないと思う。でも見てしまった。そこに胸があったものだから。しょうがないね。

 白のブラウスの下から、確かな双丘が主張していた。第一ボタンを外しているため、かすかに見える首元がどこか気まずい感触を呼ぶ。思わず視線をそらしてしまった。


「ふーん、やっぱり興味あるんだ?」


 にやにやと、陽香は悪戯めいた笑みを浮かべ、「すけべね」と付け加えた。反論できない。ちくしょう。ああそうさ、すけべだよ俺は。


「今は、この子だ。どうして動かないんだろな。生きてるのかな、いったい……」

「確かめたいのなら心臓を触ってみたら?」

「それは無理な話だよ」

「すけべなのに? ひゃっほー、ってカンジにこれ幸いととびつかないの?」

「とびつかない。俺は常識的なすけべだ」


 止まっているとはいえ、見知らぬ女子の胸を同意もなしに触るのは倫理的にいけない。


「なら、私が……」


 そう言うと、陽香は停止する少女の胸元に手を置いた。


「……薄い」

「な、なにが?」

「胸が。私の方がおっきい」


 その情報は要らない。


「鼓動、ないわね……」

「ないって。それじゃあ……」


 死んでいるも同然、というわけになる。なんだ、これは。この少女は。時間停止の少女? 食パンをくわえたまま? 状況の理解が困難だ。

 俺と陽香が頭の上に疑問符を乱舞させていると、


「────」


 唐突に。

 食パン少女の瞳がぎょろりと、俺に向いた。


「え……?」

「ひほふほひゃふは」


 パチンと電源がオンになったみたいに、おもむろに少女は動き出した。明らかに俺の方へと。


「え? え、なに? なんなの?」

 

 後ずさる俺のほうへ、少女は歩み、そして走り出す。

 食パンをくわえた状態で、一直線に俺のところへ。

 まるで端から俺を待ち構えていたかのように。

 俺を何らかのイベントに巻き込まんとばかりに。

 これはいけない、と直感で理解した。その目的が俺だということも。

 だから俺は、


「陽香! 先に学校へ行ってろ!」

「え、で、でもっ……」

「いいから! 俺は遅刻する! その旨を先生に適当な理由をでっちあげて報告よろしく! あとカバンもお願いします!」

「ま、待って! オーリ!」


 そう言うと俺は、戸惑っている陽香にカバンをパスし、全力で走り出した。

 振り返ると、食パン少女はやはり俺を追ってきている。

 

「ひほふひひゃふっ!」

 

 なんか言いながら追いかけてきている! 怖い!

 

「はっ! なにがなんだか分からな過ぎて正直もの凄く怖いが、追っかけてくるなら逃げてやるよ!」


 脚には自信がある。俺は文武両道を自負している!

 そして俺は陽香とは真逆の方向へ、全速力で走り出した。今、冷静になってはいけない。冷静になってしまえばこの状況の不可解さに恐怖してしまう。そしたら逃げる脚が鈍る。それはだめだ。とにかく、とにかく逃げなければいけない……!


「ひほふひほふ~!」


 背後から声が聞こえる。

 気にしてはいけない。振り返ってはいけない。

 走れ、走れ、走れ、走れ、走れ。でなければ逃げられない。


「はあっ、はあっ……!」


 時間にして数分、俺はひたすらに逃げ、背後からの声が聞こえなくなってきた。


「もう、さすがに、きてない、だろっ……!」


 上がる息を整えつつ、背後を振り返る。


「ひほふひひゃふー!」


 いた。普通にいた。

 すぐ後ろにいた。


「ほぎゃーーーーーー!?」


 初めてだった。驚きのあまりに「ほぎゃーーーーーー!?」なんて言ったのは。人生で「ほぎゃーーーーーー!?」なんて叫ぶ機会が巡ってこようなんて思ってもなかった。


「ふほぁっ!」


 食パン少女が、俺が止まっているの好機とばかりに雄叫びをあげて全力でタックルしてきた。その勢いといったらもう、しっかりと腰が入っていて絶対に俺を突き飛ばしてやろうという強い意志があった。

 

「ぐほっ……!?」


 真正面から、モロに受ける。

 なんなの、と吹き飛ばされながら俺は思った。本当に、何なのだろう……俺、なにか悪いことしたかな。食パンをくわえた女の子の恨みを買うようななにか。はは、なにも思い浮かばない……。


「あいたたた……」


 俺を突き飛ばしたあと、その子は白々しく尻餅をついた。突き飛ばした衝撃で食パンは地面に放り出されていた。


「あ……」


 ぺたん、って具合にその子は座っている。足はだらしなく開かれて、俺の視界には淡いピンク色が映っている。そう、パンツだ。


「~~~!!」


 その子は、俺の視線の先に気づいたのか、顔を真っ赤にして足を閉じた。


「……見たのね?」


 スカートを両手でしっかりと抑えて、少し涙ぐんだ目で俺を睨みつけている。


「え、あ、いや……」


 俺が言い淀んでいると、その子はぱっと立ち上がり、地面の上に落ちていた食パンを拾い上げてぱっぱっとゴミを払ってまたくわえて、俺を指さして言った。


「ふへへ!」


 何を言っているのかはよく分からない。

 そしてその子は俺に背を向け、どこかへと走り去って行った。


「……? 助かった、のか……?」


 いったい、なんだったんだ。

 始終意味が分からなかったが、過ぎ去っていった今となっては安堵感が湧き起こる。一から十まで何一つ分からないけど、なんか助かったっぽいぞ、という感じの。


「……さて」


 立ち上がり、制服についた汚れを払う。


「行くか、学校……」


 とてつもない疲労を覚えつつ、俺は敗残兵のような気分で登校を再開した。

 もちろん、遅刻だろう。

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