窓から彼女が侵入してきた
崩れた天井から差し込む陽光が眩しい。
ズキズキと痛む胸元に触れると、胸の左側からはナイフが生え出ていた。痛みの原因は、どうやらこれのよう。なんてことだ。触れた手のひらがべったりと赤く塗られていた。
ヂ、と視界にノイズが走った。
走ったと思ったら、何も見えなくなった。
視覚が死んだのだ。全てが黒く、微かに赤く、白い。形を持つ何物も見えない。真っ暗闇。
「……ちゃん! オーちゃん! 起きて、目をつむらないでっ……開けて、ねえ……! ねえったら!」
女の子が叫んでいる。
必死に、叫んでいる。
「しんじゃった。死んじゃったね。シんじゃったのね。シニたかった? シニたくなかった? どっち? どっちなの? 私? 私はとぉっても、うれしいけれど」
女の子が囁いている。
嬉しそうに、囁いている。
それきり、音は消えた。
「 」
女の子が……いいや、もう何も聞こえない。そもそもが聞こえるはずないのだ。もとから誰もいなかったのだから。
◇
イヤな夢を見た。
それはもう、イヤな夢だった。
清々しい朝だというのに、陰鬱な気分に襲われるような夢だ。なんせ自分が殺されるという、なんとも不吉で不愉快な夢。俺にはまだ、死ぬには若すぎるという自覚がある。
「……生きている」
手のひらを眺める。大丈夫、赤くない。夢の中では引くほど赤かった手のひらは、今では健康的な肌色である。つまりあの光景は現実ではなかったということ。夢で、幻で、非現実。生きている。生きているのである。それは死んではいないということ。殺されてはいないということ。
「なあに
「うおっ……!?」
いきなりの声に驚いてしまった。見ると、ベッドの横、俺の勉強机の椅子に座っている一人の少女。椅子の背もたれに両手を乗せ、脚を広げて逆向き座りの姿勢だ。
「ふ、不法侵入だぞ、
「何言ってるの? これはね、幼なじみ特権のひとつ。幼なじみに分類される人間に至っては窓から入って寝顔を見つめていても罪には問われない、というお国の定めたホーリツ」
ドヤァ、とその少女──陽香は言う。何言ってるのと思う。
「一応聞くが、何法だ?」
「幼なじみ法」
「ない」
「あるかもしれないじゃない? ホーリツなんていっぱいあるんだから」
「それでもない。断言する」
「現実ばかり見ちゃって。夢がないわね。ひとかけらの夢が現実を彩るエッセンスになるってのに」
幼馴染法にどんな夢を抱けと言うのか。そもそも幼馴染法ってなんだ……いや、まともに考えるのは止そう。脳内で幼馴染法を立案しようとしても何の実にもならない。
「でもね、そもそも鍵開けてるのはオーリの方じゃない?」
くい、と陽香は親指で窓を指す。
見ると隣家側の窓はがらりと開かれ、吹き込む風がぱたぱたとカーテンを揺らしていた。爽やかな、朝の風だった。夏が終わり秋となった今では少し風が肌寒い。
「ブヨージンだし、鍵開けてるってことはすなわちウェルカムってことでしょ? 違う?」
「違う。こんな住宅街の真ん中でしかも二階の窓から侵入しようとする人間なんてそうそう出くわさない。それこそ運がとんでもなく悪くない限りな」
「あなたの目の前にいる女の子がその子だわ」
「じゃあ俺はとんでもなく運が悪いんだ」
「うわ、ひど。こんなにも可愛らしい私の顔を朝から拝めるというのに。むしろ有難がってほしいくらいなのにー」
「いくら可愛らしくても寝起きに目の前にあったら怖い」
「そーいうものなの?」
「そういうものだ」
「ふーん……ね、オーリ?」
「なに?」
「私って、あなたから見たら可愛らしいんだ?」
にこっ、と目を細め、陽香は笑った。その様子は確かに可愛らしいという言葉が十分に当てはまる姿である。少し茶色っぽい髪をサイドにまとめて、まんまるの眼、整った鼻梁……確かに可愛らしい。けど、今認めるのは何だか悔しい。
「……一般的な評価を言っただけだよ」
「強がっちゃってー。ゲンチはとられてるから、そーいうときってカンネンしたほうが潔いというもんじゃないかしらねえ?」
「ぐ……」
余裕の笑みで、陽香は続けた。
「それにしてもっ……可愛い、かあ。そっか、オーリから見たら可愛いんだね、私。ふふ、うれしい。あーあ、オーリからの可愛いってお褒めの言葉、録音しておけばよかったかなー、ちょっと準備が足りなかったなー」
とても嬉しそうに陽香は言う。なんだかこっちが恥ずかしくなってくるからやめて。
「ね、ね、オーリ。もーいっかい言って?」
「……、一般的な評価を言っただけだよ」
「む……前すぎっ。そのあとの、ほら、『いくら陽香がこの上なく可愛らしくても』ってトコロ!」
「断る」
「えー?」
不満そうに眉を顰める陽香へ、「じゃあ俺着替えてくるから」と俺は言い、そそくさと部屋の扉のノブに手をかけた。背後から、陽香の言葉。
「私も後からまた来るから。お義父さまとお義母さまに日課の挨拶をしなきゃいけないし。今度はきちんと玄関からね」
「できれば毎回玄関から来てほしいんだが」
「だーめ。いの一番にあなたの寝顔を見ないと、私の一日が始まらないんだもの」
そんな上機嫌な声が返ってきた。俺のささやかな要望は『だーめ』された。
その後、俺が階段を降りると、もうテーブルの上には朝食ができていた。トーストとハムエッグというシンプルなものだ。母さんが作ってくれたのだろう。
「あら、起きたの。桜利」
「ん、おはよう」
「おはよ。それより、これ見なさい。食べながらでいいから」
そう言うと母さんはテレビを指さした。父さんもまた、難しそうな顔でテレビ画面を見つめている。そこに映っていたのはニュースの映像だ。画面には『朝陽ヶ丘市で通り魔発生』と表示されていた。
「朝陽ヶ丘って、ここじゃん」
「ああ。幸いにも怪我で済んだみたいだがな」
父さんが言う。
「大丈夫かしら……」
「警察が動いている。学校の登下校路にも人を寄越すだろうから、そう心配する必要もないだろ」
「でも……」
心配そうな母さんをよそに、父さんが顔をこちらへ向ける。
「桜利、もし怪しい人間に出くわしたら大声をあげて全力で走って逃げなさい。間違っても近寄ったりなんかするなよ」
「分かってる」
「あともうひとつ、陽香ちゃんをしっかり守りなさい。一人で逃げたりなんかしたら男が廃るぞ?」
こちらは少し、からかうような調子が含まれていた。実際、父さんの顔がすこしにやっとしている。むっとなって、言い返す。
「分かってるよ。言われなくたって守る」
「はははっ。それならよろしい」
その後、制服に着替えているとインターホンが鳴った。
「はあい」
と母さんが出て、すぐに「あらぁ、おはよう陽香ちゃん!」とテンションのあがった声が聞こえてきた。「おはようございます」と粛々とした陽香の声も聞こえた。いかにも真面目そうな、優等生めいた挨拶だ。窓から入ったりなんかとんでもないです、とでも言うかのような。あの子、猫かぶってる。
「桜利! 陽香ちゃんが迎えに来たわよ! 早く出なさい!」
母さんの言葉に、父さんがにやついた。この色男め、とその表情に出ていた。
用意が完了した俺が出ていくと、両手で鞄を持った陽香が、キラキラとした笑顔で待っていた。
「おはよう、オーリ」
「ああ、おはよう、陽香」
「それじゃあ、行ってきます。お義母さま」
母さんの「行ってらっしゃい、通り魔に気をつけなさいよ」という言葉を受け、陽香は照れくさそうな表情で、
「大丈夫です。オーリが、『一生守るから』って言ってくれましたからっ」
言ってないよ? いや、なにか起こったらそりゃ当然守ろうと思ってるけど、口に出してはいないのに。
「まあ!」
母さんが丸く目を見開き、俺を見た。
その視線から身体ごと逸らし、「行ってきます」と俺たちは登校となった次第である。
「陽香、捏造はよくない」
「でも守ってくれるでしょ?」
「……ああ、当然」
もちろんだ。大切な幼馴染なんだから。
俺の言葉に、陽香はぱあっと表情を明るくした。もともと明るかったのがさらに明るくなった。花の咲いたような笑み、満開の笑顔。
「ならいいじゃんっ。いいじゃんいいじゃん、オーリ、オーリっ」
そして俺の手を握ると、そのままご機嫌な様子で歩き出した。
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