食パンくわえた女の子

「いきなり後ろから食パンを口にくわえた女の子が『きゃー、遅刻しちゃうー!』と言いながらすごい速さでホーミングしてきたらどう思う?」

「おお……? よ、よく状況は分からねえけど、なんで、ってなるわな。いろんな疑問をひっくるめての『なんで!?』ってな具合に」

「うん……その通りだ」

「え、その通りってオウちゃん? まるでよ、体験しました、『なんで!?』ってなりましたみたいな言い方だぜ?」

「なったんだよ」

「なったのかよ?」

「なったんだよ」

「なんでだよ?」

「俺が知りたいよ……」


 本当に知りたい。あれが何だったのかを知りたい。

 何の変哲もない平日の朝の通学路かと思っていたらとんでもない、変哲ありまくりだった。つい一、二時間前のことだから尚更、鮮明に思い出してしまう。食パンくわえて、外国人みたいな金色の、そして二つ結びにしている髪を振り乱し、一心不乱に俺を目掛け……まるで何かのイベントに巻き込まんとするかのように見知らぬ女の子が猛ダッシュしてきたあの光景を……。

 それに、いつもは登校中にちらほら見かけるはずの通行人が、誰一人としていなかった。


「やべえの? それって」

「分からない。ガムシャラに走って走って走りまくって、けど追いつかれた」

「マジで? オウちゃんって結構足はええのに?」

「ああ。タックルされた」

「タックルされたのかよ」

「タックルされたんだよ。それでちょっとパンツが見えて、でも恐ろしいから俺すぐに立ち上がって全力で逃げた。それでどうにか振り切れたみたいなんだけどさ……なんというか、生を実感した……」

「パンツだと……!?」


 嗚呼、俺は生きている……生きててよかった。

 校門を抜けたあと、後ろを振り返って誰も追いかけてきていないことを確認した俺は心の底からそう思った。あれに捕まっていたらたぶん、デッドエンドだった。あれがなんだったのかを先ほどからスマホでググっているが、『食パン 女の子 くわえて』と単語を入れてもフィクションしかでてこない。そりゃそうだ、パンをくわえた女の子だなんて、アニメやラノベの中でしか見ない。

 

「あー……だから、朝に教室入ってきたとき汗びっしょりだったんだわな。もう十月で寒くなってきたのになんでオウちゃん汗びっしょりなん? って思ったんだわ、俺。あとパンツは何色だったん?」

「自分以外の人間がいるってこんなに安心するんだ、と知ったよ。俺も、朝は誰かと一緒に登校しようかな……ん、白と水の縞々」

「縞パンだと……!?」


 一人の登校、怖い。

 といっても、仲の良い人間で通学路がいっしょなのもいない。隣の席のモヒカンに至っても、通学路は違うし。


「……オウちゃんちの近くって、なんか知ってるヤツ住んでたっけ?」 

「いなかった、と思う。お隣さんは片っぽが誰も住んでなくて、もう片っぽは夫婦だけで子どもがいない」


 誰も住んでいない方の家は、もうずっと廃屋だ。取り壊すという話も聞かない。


「あーいやだな、怖いなあ……」


 帰り道もいたら嫌だな。本当にそう思う。


「べべべ……!」


 隣の席のモヒカンが、廊下を見つめて硬直している。なんか『べべべ……!』とか言いながら固まっている。なんだろう、と俺も見ると、そこには……


「ひほふひひゃふっ!」


 食パンくわえた少女が、一人。

 

「なんっ……!?」


 なぜ、なぜ? 追いかけてきたのか? ここまで? 俺を? パンツか? パンツみたからか!?

 そう思う間に、彼女は教室の扉をがらりと開け、俺をめがけて猛ダッシュを開始した。逃げようとしているのに、身体がズシリと重くて動いちゃくれない!


「遅刻しちゃうぅぅぅぅぉぉォォオオラァッ!」

「ほぎゃーーーーーーーーー!?」


 とてつもない勢いのタックルを喰らい、俺の身体はふわりと宙を舞う。

 夢の中のような浮遊感で、俺は窓の外に放り出され、そのまま地面に落ちていった。

 激突の衝撃は、けれどもやってこなかった。


    ◇


「わっ!?」


 ん?


「あ、れ……あの子は……」


 いきなりなにもかもが掻き消えたかのような。あのパンをくわえた女の子も、食パンをくわえている変質者も、白い食パン(焼けてない)をくわえながら追いかけてくる恐怖も。

 そして、ここは……。

 黒板と教壇。驚いた様子でこちらを眺め見る生徒たち。なるほど、現実だ。現実の、夢ではない、夕陽ヶ丘市の、夕陽ヶ丘高等学校の、一年C組の。

 呆れた様子で、教壇に立つカンナヅキ先生が苦笑しつつ云う。


「まだホームルームだぞ。寝るにはあまりに早すぎないか」

「はい……すみません」

「けどよかったな、クノキ。お前の見ていた悪夢は、どうやら覚める類のものだった」


 そう冗談めかすと、先生は「さ、話の続きだ」とさっさと黒板へ向かい、白いチョークでなにかを書き始めた。


「……」


 恥ずかしい。

 顔が真っ赤になっていくのが自分でも分る。


「あたし、初めてみたよ。寝言でほぎゃーって叫んで飛び起きる人」


 右隣の少女が、感嘆するように小声で言ってくる。ミツキさんという名の彼女の表情には感心が浮かんでいた。

 そうか、夢、だったのか。

 あの妙な、食パンをくわえた転校生のような何かは。

 ……どこからが夢だったんだろう?


「そういえば、転入生が来るんだってね」


 ひそひそ声のミツキさんは嬉し気だ。ほにゃっと笑っている。度々、宇宙的な言動を行うけど、実質は同い年の女子だというのが分かる。転校生ってなに。


「転校生……?」

「カンナヅキ先生が転入生が来るってことを何日か前に言ってたんだって。クラスのみんなにも言う、とか言ってたらしいけど……忘れちゃったのかなあ……」


 予感はある。悪寒もある。


「いつ、来るんだ?」

「明日ぐらいだったかなあ、あれ、今日だっけ……」


 外れてくれと、願う。


「名前とか、分かる?」

「スワ……いや、スホウ……さん? だったと思うよ」


 冗談を言っている風にも見えない。これまでの経験上、ミツキさんはそんな冗談を言うキャラにも思えない。


「あ、ほら。前、見て」


 おもむろに黒板を指さし、ミツキさんは云う。

 カンナヅキ先生が黒板に書いたのは、『諏訪玲那』という文字。人名。


「これからお前たちの新しいクラスメイトの紹介をする。事前に伝えておこうと思ったが、先生うっかり伝え忘れていた。それに関してはすまない。まあ先生なりのサプライズなんだなと、優しい解釈をしてほしい」


 カンナヅキ先生がそんなことを云う。そして「さ、入ってきてくれ」と言うと……あれは。


「それじゃあ自己紹介をしてもらおうか」

「はい。皆さん初めまして……って、あー!? アンタは朝のパンツ覗き魔!」 


 カンナヅキ先生の隣に立つ少女は、悪夢の最中で見た少女は、俺を指さしなにかを叫んでいる彼女は……。


 おかしい。おかしい。おかしい。


 悪夢は覚めたはずじゃなかったのか。

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