熱病 08

8


 休日、睦美は和之のかわりに隣県の理月のもとを訪れた。

 玄関のドアを開けた理月は、買い物袋を下げた睦美の姿を見て露骨に嫌そうな顔をした。

「……何しに来た」

「一度あなたの住んでいるところを見ておこうと思って」

 睦美が狭い玄関で靴を脱いで、部屋へ上がる。部屋は築15年のワンルームマンションで、細長いキッチンとユニットバスが並んだ廊下を抜けると、8畳の部屋に出た。部屋には生活臭があまりなかった。

「冷蔵庫が小さいわね」

 睦美が買ってきた食材を冷蔵庫へ入れる。

「料理しないからな」

 睦美はふたり分のコーヒーを淹れると、ガラステーブルにカップを置いた。理月はベッドに座って、硬い面持ちで睦美を見つめている。

「お母さんは、あなたがどこかで無理をしてるんじゃないかと思ってるの」

 睦美が丸い目を理月に向けると、理月は睦美から目を逸らした。

「俺が全部やったことだ」

 午前中の白い光がレースのカーテンから降り注いでいる。理月の茶髪が光を孕む。光に照らされた理月の顔は、淡く荒んだ翳を宿していた。

「俺が消えればいいんだ。だから俺に構うな」

「あなたは本当は星一を強姦してなかったんでしょう?」

 晴也が言ってたわ、と睦美が続けると、理月は一瞬、目元を軋ませて睦美を睨みつけた。

「無理矢理ヤってたんだよ。星一が慣れただけだ」

「それなのに、どうして星一はクリスマス礼拝の日に自殺しようとしたの? 星一が自殺しようとする原因が、ほかにもあるの?」

「それは俺が自殺しろって言ったからだ」

 睦美が身を固くする。

「あいつは俺が死ねって言ったら簡単に死ぬような奴なんだよ。自分の意志が軽すぎる。だから、俺はあいつから離れたいんだ。あいつは俺といても何も変わらないから」

「強姦とか自殺とか……あなたたち自分が何をしているか本当にわかってやっているの? あまりにもあなたたちの扱いが軽すぎて、私には理解できない」

「あんたに理解してもらう必要はない」

 ただ、と理月は睦美へ身体を向け直した。

「あいつを変えてやってくれ。どんなことをしても俺には無理だった」

 今の理月は、不遜な表情を浮かべたいつもの理月とはまったく異なっていた。重すぎる荷を背負って疲れ切ったような、脆弱な部分が剥き出しになったような、そんな表情をしていた。

 和之は理月が人を人と思わない子供だと言っていたが、理月はおそらく自分の欲望だけで星一と向き合っていたわけではなかったのだろう。

「あなたは星一をどう思っていたの?」

 今までずっと疑問だったことを、睦美は口にした。

「あなたがしたことは本当に強姦だったの?」

 睦美は黒いスカートの膝をぐっと握りしめた。

「あれだけ……仲が良かったのに」

「仲がいいんじゃない。あいつが俺に合わせていただけだ」

 理月は窓の外に目をやると、目の焦点を遠くした。

「あいつには自分の意志がないから」

「……晴也と同じことを言うのね」

「晴也?」

「星一は他人の希望だけを叶えて生きてきた、って」

「晴也も少しはわかるようになってきたんだな」

 皮肉っぽい笑みを浮かべて、理月は天井を見上げた。

「あなたは確かに育てやすい子供ではなかったけれども、他のふたりとあなたを区別して育てたつもりはないのよ」

 理月には睦美の言葉は響いていないようだった。興味なさそうに睦美を一瞥しただけだった。

「コーヒーが冷めちゃったわね」

 ふたりはコーヒーにまったく手を付けていなかった。

「コーヒーを淹れ直したら、カレーを作るね」

 睦美はスカートの裾を直しながら立ち上がった。


 日曜日の午後、星一が大量の紙袋を抱えて買い物から帰ってくると、家には父親と晴也の靴があった。

「お母さんは?」

「今日は一日出かけてくるって」

 星一の問いに、リビングでテレビを観ていた晴也が答える。

「何買ったの?」

「洋服」

 ふうん、と頷くと、晴也は大きな口を引き結んで笑った。

「いいね」

 晴也は星一が洋服を買うことを歓迎しているらしい。なぜだろうと首を捻りながら、星一はリビングの階段を上がっていった。

 自分の部屋へ入ると、星一はコートやセーターのタグをハサミで切った。

 ひとりで洋服を買いに行ったのは初めてだった。いつもは理月の後についていって、理月が選んだ服を試着するだけだった。ひとりで服を選んでいると、なぜこんなに沢山服があるのだろうと星一は理不尽な気持ちになった。

 スマートフォンのメールの着信音が鳴った。

 皮のショルダーバッグからスマートフォンを取り出す。夏目歌穂からだった。

 歌穂のメールには、携帯電話のメールアドレスがひとつだけ書かれていた。

 理月のメールアドレスだ。

 何をメールしよう、と星一は勉強机の前を歩き回った。

 理月がいなくなったこの三週間の話をしようか。

 星を撒いたように光る花壇のビオラ、世界が金色に溶解していく真冬の雨の話をしようか。

 晴也が自分のことを理解してもあまり態度が変わらなかった話をするべきか。

 理月としたい話が沢山ありすぎて、メールでは間に合いそうになかった。

 星一は理月のメールアドレスに、自分の電話番号を打ち込んで送った。

 すぐに電話の着信音が鳴る。非通知の番号だった。通話ボタンを押す。

「理月?」

 声が上ずった。喉につかえて、うまく出ない。

「星一か」

 電話の声は沈んだものだった。

「もう話すつもりはなかったんだが……今日母親が来た」

 理月の声がどこか遠いところで聞こえる。足元が雲を踏んでいるようにおぼつかない。

「晴也や母親に余計なことを言うな。俺に強姦されていた、そういうことにしておけよ」

「それはもう無理だな」

 晴也に理月とのセックスが好きだと言ってしまった。それを知った上での、昨日の父親の言動だろう。

「あんたも俺も男が好きなわけじゃない。でも、あいつらには伝わらない。余計なことは言わないほうがいい」

「言っても晴也の態度は変わらなかったよ。俺が理月と寝ていることも、俺たちに感情がないことも」

 晴也は晴也なりに自分たちを理解しようとしていた。星一は晴也に距離を置かれるかと思ったが、晴也はいつもと同じ態度で接してくれていた。

「晴也は何て言ってる」

「病院に行けって」

「あんたも俺みたいに自分の頭の中身を弄り回されたいのか? それが一番嫌なことだったはずなのに」

「以前は俺たちが人とは違うと露見するのが嫌だったけれど、最近はそこまで嫌ではなくなった。意外と人は気にしないものなんだなって」

「それは晴也がそういう性格だからだ。皆が晴也みたいな行動をするわけじゃない」

「お父さんからは、お前は同性が好きなのかと聞かれたよ」

「何て答えた」

「答えられなかった」

「それは肯定と取られても仕方ないだろう」

 理月の声に苛立ちが混じる。星一はふわりと笑みを浮かべた。

 電話越しに理月をいつまでも独占していたかった。

「理月」

 今までずっと聞きたかったことを言葉にした。

「何で俺から離れたかった?」

 理月が沈黙する。

「俺と一緒にいるのが嫌になった?」

 電話の向こうの沈黙の気配を追いかける。無言の状態が長く続いた。

「理月が嫌なら、セックスも話もしないよ。それでも側にいては駄目なのかな」

「駄目だ」

 理月が観念したようにため息をつく。

「好きだ」

 空から隕石が落ちてくるように、言葉が降ってくる。

「あんたを好きになった」

「それは……」

 言葉が喉に絡まってうまく出ない。

「……僕には関係ないことだろう?」

「そうだよ」

 理月は沈んだ声で星一に同調した。

「あんたが好きだ。だから、側にいるのが辛い。一緒にはいられない」

 よく見る夢の風景が浮かんだ。

 雪原に残ったふたつの足跡。ひとつは雪原を縦に進んで灌木の森に消え、もうひとつは、先を行く足跡に交わって、そこで途絶えている。

 ひとりの人間が空へ連れていかれたように。あるいは、もうひとりの人間に狩られてしまったように。

 そうして雪が降り、足跡は消え、自分だけが感情も何もない、清浄な白い世界に取り残されてしまった。

「おめでとう」

 星一は薄い笑みを浮かべた。

「僕を好きになることができるなら、他の人を好きになることもできるはずだ」

 木の人形だったピノキオが人間に変わったように、理月にも魔法がかかったのだ。

 演技が本物の激情となった役者のように、感情を持つことができるようになったのだ。

 星一をひとり、感情のない世界に置き去りにしたまま――

「もう電話しない」

 抑揚のない声に、星一はわかった、と頷く。

「さようなら。星一。お元気で」

「――理月も。お元気で」

 最後の言葉は、静かなものだった。

 星一はスマートフォンの通話を切って、その場に立ちつくした。

 今まで、理月とふたり、月の端に腰を下ろして、猥雑で美しい人間たちの世界を眺めていた。

 めまぐるしくチャンネルが変わるテレビのように、自分たちの関係ないところで、世界は色とりどりの相を交えて踊り狂っていた。

 雪よりも白い空白、闇よりも深い真空。

 月の端に座って、揺らぐことのない真空の宇宙から、世界を眺めているのは自分ひとりになってしまった――

 身体が弟を呼ぶ。

 久しぶりの感覚だった。

 最近、自慰をしていない。自分のベッドへ行き、理月の枕に顔を埋める。

 理月の匂いがもうわからなくなってしまった。

 星一は枕に両腕を回して抱きしめた。

 ふいに、セックスがしたいと思った。

 誰でもいいから。

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