熱病 09
※この章には同性間の性的な描写があります。苦手な方はご注意ください。
9
次の週末の日曜日、星一は一度も足を踏み入れたことのない場所を訪れていた。
南大森。市街の中心地からかすかに外れた、飲み屋やラブホテルが軒を連ねる一角を、星一はネットの地図で調べた通りに歩く。
今日は黒いコートにグレーのセーター、白いシャツを着てきた。モノトーンの洋服は、以前の服よりも肌に馴染んでいるような気がする。
旅行会社のビルが建っている角を曲がった二軒目に、その店はあった。
黒いタイルの外壁に、蔦の絡まる金属製の看板が出ていた。飾り文字の筆記体で、『Cassini』と書かれている。土星の衛星を発見したフランスの天文学者の名前だ。
ここにインターネットで待ち合わせをした相手が来ている。星一は黒い扉に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
店内は細長い造りで、カウンターの奥にも座席がいくつか配置されていた。黒で統一された店内に、星一は入っていった。
「アマギさんはいらっしゃいますか」
「今日は誰もいないよ」
三十代の店のマスターに促されて、カウンターのスツールに腰を下ろす。
星一はコーヒーを頼んだ。
カッシーニは、土星の環の隙間を発見した人だ。カッシーニの間隙、あるいはカッシーニの隙間という。
大小の氷の粒で構成された土星の環には、A環とB環のあいだに隙間がある。天体望遠鏡を使うと、土星の環の中央付近で環がふたつに分かれているように見える。
星一はそのことを、子供のころに読んだ和之の小説で覚えた。『カッシーニの隙間』というその小説は、主人公の男女が恋をするが、結ばれずに別れていくという、父親が繰り返し書いている悲恋の話だった。
コーヒーが目の前に置かれる。
和之は失恋の話が好きだった。文芸誌に投稿している小説も、失恋の話を軸にそれを幾度も変奏したものばかりだった。
学生結婚を貫き通した父のどこにそんな衝動があるのだろう。人は自分が持ち得ない経験に憧れを抱くということだろうか。
(カッシーニの隙間に指を入れて引き裂き、永遠に交わらないふたつの環を捻り合わせたい)
和之の小説の一節を思い出す。土星の環が捻り上げられるさまを想像して、当時の自分はキャンディのようだと考えた。宇宙の神秘よりも食べ物を連想する自分の子供っぽさがおかしかった。
星一はコーヒーを飲んだ。そのぬるさから、星一は時間が過ぎても相手が来ないことにようやく気づいた。
星一がコーヒーを飲み終わるころ、店のドアが開いた。
「いやー、ごめんね。君がセイくん? 遅れちゃって」
ドアのベルの音とともに賑やかに入ってきた男を見て、星一は立ち上がった。
「はじめまして。セイです」
男は星一の姿を上から下まで検めるように見た。
男は二十代後半の頬骨の高い、痩せた青年で、くせっ毛を後ろに流していた。背は理月と同じくらいの高さだった。派手な緑色の柄物のシャツに、皮のブルゾンを羽織っている。
「その子、三十分以上待ってたよ」
店の奥からマスターが男に声をかけた。
「馬券買ってたら遅れちゃってさあ」
清算を済ませると、星一は男の後を追って店を出た。
店の外には極端に印象の違うふたりの男が立っていた。ひとりは190センチ以上ある、体格の良い筋肉質の男で、もうひとりは160センチあるかないかの、青白い貧弱な男だった。
「こいつらはでかいほうが内山、ちびがトキイ。まあ、付き添いみたいなもんだ」
アマギが時の井戸と書いて時井と説明する。歳はふたりともアマギと同じくらいに見えた。内山は、一重の切れ長の目と削げた頬、薄い唇の精悍な顔つきの男で、時井は大きな目とその下の隈が目立つ、臆病そうな顔をした男だった。
「俺は雨の木と書いて雨木。よろしくね」
「星で、セイです」
「一番星の星くんね」
軽い口調で雨木は言って、さ、行こうかと星一を促す。雨木の後をついて歩く星一の両隣に、内山と時井が寄り添ってきた。
「星くんは大学生? どこの大学?」
「C 大です」
「頭いいんだね、何年生?」
「二年です」
未成年だと露見しないように、嘘をつく。
雨木は世間話をしながら、狭い路地のホテル街へ入っていった。そして一軒のラブホテルに辿り着くと、そこで足を止めた。
「ここはゲイ専用のラブホテル。たまに男女のカップルも紛れ込んでくるけどね」
雨木は四階建てで地味な外観のホテルを指差した。エントランスに足を踏み入れようとする雨木に、星一が声をかける。
「この人たちも一緒ですか」
ゲイの出会い系サイトでメールを交わした時点では、相手は雨木ひとりだったはずだ。雨木は肩越しに振り返ると星一に笑いかけた。
「こいつらは付き添い。君が嫌だったら、ここで帰らせるけど?」
両側にいる内山と時井は、無表情で星一を見つめている。
星一は身体が持つだろうか、と不安になった。が、嫌がれば無理はしないだろうと思って、雨木に告げた。
「大丈夫です」
「OK。みんなで楽しもう」
弾んだ声で雨木は言うと、星一の肩を押して自動扉へ導いた。
ホテルの部屋は、ベッドが大きいこと以外は普通のホテルと変わらなかった。
「全然緊張してないね」
大人三人を相手にして、と雨木が星一のコートを脱がせる。
「場慣れしてるのか、鈍いのか、どっち?」
クローゼットに黒いコートをしまいながら、雨木は猫のように口元を引き上げた。
「鈍いんだと思います。弟からは、神経がイカ並みだと言われます」
「イカ?」
「イカは神経が一本しかないそうです」
雨木が次々と星一の服を脱がせていく。
「背中に傷がある」
時井の指摘で、雨木は星一の背後に回った。星一の背中の真ん中に、右肩へ斜めに走る引き攣れた傷痕があった。十センチ以上あるそれに、雨木が触れる。
鋭い痛みに襲われた。星一が肩を震わせて息を詰める。
「身体まで鈍いわけじゃなさそうだな」
雨木のひとことで、空気が濃密なものへ変化する。星一を囲みながら、男たちは自分の服を脱いだ。
やはり三人を相手にすることになりそうだ。体力を使いそうだな、と星一は他人事のように考えた。
祭壇に捧げられた羊のようだ。星一は、ベッドで背後から内山に手首を持たれ、腕を広げさせられながら、自分を貪る男ふたりを眺めて、そう思った。
雨木は星一の皮膚の柔らかいいところを攻めていた。二の腕の奥や脇、首筋の奥に、痕を残していく。痕が身体に疼痛を散らし、そこをふたたび指で辿られると、神経にじかに触れられているように甘く疼いた。
男たちの手に煽られて、身体じゅうの神経が空気に晒されたように鋭敏になっていく。
もっと皮膚の裏側を撫でてほしい。身体の深いところを暴かれて、感じやすい皮膚を裏返されたい。
雨木がベッドサイドのテーブルからローションを取り出し、星一の身体を内山から離した。背中を温めていた硬い身体から離れて、星一は背中に冷気を感じる。
前と後ろから身体を弄られて、星一は男たちのされるがままに膝立ちで揺れていた。
「よく練れてるな。いい身体だ」
「大事にされていたんです」
星一が焦点の合わない目を雨木に向けて、微笑む。
「じゃあ、こっちはひどくしてやろうか」
「……はげしくしてください」
舌足らずな星一の煽りに、雨木が唾を飲んだ。
雨木が身体を進める。頭が熱を帯びて視界が歪んでくる。与えられる快楽が大きすぎて、星一は喉から嬌声をこぼしながら啜り泣いた。
「こいつ、泣きながら笑ってるぜ」
「マゾなんだろ」
時井と雨木が行為の合間に声をあげる。
気持ちいい。ジェットコースターに乗ったときのように、感情が勝手に暴走する。身体と感情の制御がつかないのが愉しい。愉しい。
「がっつくな、こいつ」
「そろそろイかそうか」
時井と雨木が相談する。星一は口元をつたう汗を指で拭った。
「大丈夫か?」
雨木が軽く星一の頬を叩く。その感触が骨の奥に響いて、星一は背中をぞくぞくと震わせると満足げに口元を吊り上げた。
「あと、ふたり?」
「内山が見てるだけだったから、先に内山にやってもらおうな」
子供に言い聞かせるように、雨木が優しく呟くと星一の頭を撫でた。
三人も相手にすると、さすがに起きる気力がなくなった。
男たちがユニットバスでシャワーを浴びているあいだ、星一は乱れたベッドで眠りかけていた。腹には男たちの残滓がこびりついている。星一はそれを拭う気にもなれなかった。
行為の最中は、感情の制御もつかないほど精神が昂っていたのに、行為が終わると、身体に閉じ込められた黒い沼は夜の闇のように静まり返ってしまう。
人間に近い生き物になることができたのは一瞬だけだった。また清浄な真空の世界に取り残されてしまった、と星一は思った。
シャワーを浴びた雨木が、星一の姿を見て口の端を捻じ曲げた。
「公衆便所みたいだなあ」
首を起こして自分の腹を見ると、星一がうっすらと笑みを浮かべた。
「似てますね」
「お前はアホか」
「そうですか?」
「いきなり三人来ても怖がりもしねえし、やっぱりどこか鈍いんじゃねえの?」
雨木がつまらなそうな顔をする。無表情で自分の両側へついてきたふたりは、やはり星一に威圧感を与えるための存在だったらしい。
「内山、風呂入れてやれ」
内山がバスタオルを一枚腰に巻いた姿で、星一を促して立ち上がらせた。足の奥が熱を持って疼いている。
内山の手は、見かけに反して優しかった。星一を抱いたときも、他のふたりよりは控えめに扱ってくれた。少し物足りないと思えるほど……自分の強欲さに、星一は苦笑した。
「雨木には近づかないほうがいい」
タオルで背中を拭っていた内山が、ぽつりと星一に言った。
「これに懲りたら、二度と出会い系サイトなんかに来ないことだ」
「そんなにひどい扱いは受けなかったです」
星一の言葉に内山は一瞬手を止めたが、ふたたび星一の身体をタオルで拭き始めた。
「雨木は君みたいな真面目な子には付き合うに値しない奴だ」
「それでも、あなたは付き合ってるんですね」
「ガキのころからの腐れ縁だからな」
内山がため息をついて肩をすくめる。
「外で服を着ろ」
内山は星一の肩に手を置くと、ユニットバスのドアを開けた。
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