熱病 07
7
バスケットの部活が終わった後、それまで晴也を無視していた茅場が近づいてきた。
「昨日はごめん。一緒に帰ろう」
茅場は話があると言って、晴也を公園に誘おうとした。
「人がいないところのほうがいいんだけど」
周囲には下校中の学生たちが数人歩いていた。晴也は茅場とふたりきりになりたくなかった。
「ヤバい話は小声で話そう」
角を左に曲がると、ふたりはけやき並木の通りに出た。暗くなった空には星が瞬いている。
「星一さん、なんかおかしいよ」
茅場は白い息を吐きながら眉間に皺を寄せていた。
「あんなことをしていたのに、前と何も変わらないなんておかしいよ」
「兄貴は理月とするのが嫌じゃなかったから」
だから星一には、自分がひどいことをされたという自覚がないのだろう。
自分では感情がないと言っているが、星一には確かにマイナスの感情が麻痺しているようなところがあった。
「星一さんは嫌がってなかったんだ?」
茅場の声が咎めるような響きを帯びる。
「じゃ、悪いことをすべて理月さんに押し付けただけじゃないか」
「兄貴にそんな悪意はもともとないんだ」
「悪意がないならもっと悪いよ」
気づいてないんだから、と茅場は大きな目を細めてため息をつく。
「強姦されてたのは本当の話なんじゃないか? 兄貴が嫌がらないから和姦になっただけで」
以前理月と交わした会話を思い出す。理月は星一を強姦したことを自分で認めていた。
「それじゃ理月さんが離れる理由がない」
「理月のほうがやめたかったんじゃないか。でも、そばにいたら自分ではやめられなかった……」
向かいの歩道に人が通りかかって、晴也は声を低める。
「……麻薬みたいに。だから親に告白してまで星一から離れた」
飽きたらやめるさ、と理月は言っていた。なのに、なぜここまで自分で事を大きくしたのだろう。
「でも、兄貴は理月も感情がない人間だって言うんだよな。もし本当に理月に感情がないなら、兄貴と離れたいとも思わないはずだ。そこがよくわからない」
強い風が耳元で鳴る。茅場は、風に目を細めながら大きな口を引き結んだ。
「このままじゃ理月さんがかわいそうだ。おばさんたちにそのことを相談したほうがいいよ」
「これは家の問題だから、口を挟むなよ」
そう言ってから、ここまで深く話してしまったのは自分だということに気づいた。
晴也は、兄たちの性的な嗜好を親と話す気にはなれなかった。
少なくとも自分は、親に茅場との関係を詮索されたくない。個人の性癖に親が介入するのは、星一たちも嫌なのではないだろうか。
「これ以上晴也の家族がバラバラになるのを見たくない。晴也だって苦しいんだろう? 話をしなきゃ駄目だ」
「おれだって努力してるよ。たぶん、親も兄貴も」
――理月も。
理月は今何をしているのだろう。父の話では、理月は通院の関係で県外に下宿しているとのことだった。週末に父が理月のアパートに通うのだという。
理月は、星一の「愛のようなもの」に苦しんでいる人間であるように見えた。茅場も同類だ。だから茅場は理月に同情するのだろう。
自分のすべてを赦すような、都合のいい愛情なんてどこにもありはしないのだ。
会話が途切れた。坂の底に着くまで、ふたりは黙々と下り坂を歩いた。
今日も満足に眠れなかった。
星一は熱を持つ額に手をやりながら、大学の大教室へ入っていった。
一年生の一般教養の授業は、たいてい大教室で行われる。星一が定位置にしている窓際の手前の席へ座ると、同じクラスの
「おはよう。辛そうだけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ。おはよう」
教科書を鞄から出しながら、手を上げる。不眠症とは中学生のときからの付き合いだ。夜が明けるころに少し眠れたので、体調はそれほど悪くない。
「皆川くんって、最近付き合ってる人と別れた?」
星一が目を見開く。女性はときどき、おそろしく勘が鋭い。
「何でそう思ったの?」
「急に服の趣味がその……変わったっていうか」
やはり自分の服の趣味が悪いのだろう、と星一は思った。
理月がいなくなってから、星一は服の選び方がちぐはぐになった。どの服を合わせればいいかを理月に任せていたので、服の着方がわからないのだ。
「最近別れたんだよ。よく気がついたね」
「じゃ、今はひとり?」
「別れた人のことを忘れられないから」
面倒事を避けるために、さらりと嘘をつく。美和は星一に礼を言って席を離れていった。
大教室には人の話し声が細波のように溢れていた。その猥雑さが、星一には好ましく感じられる。
チャイムが鳴って、憲法学の教授が大教室へ入ってくる。目を細めていた星一は、体勢を立て直すと教授のほうへ意識を向けた。
晴也が塾から家に帰ると、母親はリビングで電話をしていた。
睦美は、晴也の姿を見ると携帯電話の通話を打ち切った。
「茅場くんから電話が来たよ」
昨日話したことだ、と晴也は身を固くした。
「あなた、茅場くんにふたりの話をしたの?」
睦美の黒目がちな目が不信感で揺らいでいる。
「理月は星一を強姦していないって、言ったそうね。本当なの?」
茅場とは確かにそう話したが、確証があるわけではない。晴也は答えられずに言い淀んだ。
「理月はどこかで無理をしているような気がするのよ」
睦美は自分の肘に手をかけて、リビングの床へ目を落とした。
「星一は何を考えているのか……」
「兄貴は最初から何も考えてないよ」
それを睦美たちが理解していないのが、晴也には不思議だった。
「昔は親や先生の言いなりで、最近は理月の言いなりだった。だから兄貴は、理月の言う通りに動いただけだ」
星一は自分が感情のない、不完全な人間だと思っている。だから、周りの人間たちの言うがままにふるまうのが、星一にとっては一番自然なことだった。
そして理月の言うことを聞いて、理月が自分から離れていくのをおとなしく受け入れた。
そこに星一の意思が入る余地はない。
「兄貴には自分の欲望がないんだ。いつも他人の希望だけを叶えて生きてきた。大人にとっては理想の子供だっただろう。兄貴はずっと、そうなるように努力してきたから」
努力した結果が、現在の星一だ。自分が強姦されていても、ただ黙ってそれを受け入れる――
「星一はそれが辛かったのかな。だからこんなことになったのかな」
「辛いとか悲しいとか、そういう感情もないんだよ」
睦美は晴也の話を黙然と聞いていたが、ひとつ大きなため息をついた。
「茅場くんに家の恥を晒すのはやめてちょうだい」
言葉に斬りかかられたような気がした。
星一がクローゼットから洋服を出してベッドへ並べていると、ドアを開ける音がした。
「星一? そっちに行っていいか?」
「どうぞ、散らかってますが」
和之は本棚で区切られた星一の部屋へ入ってきた。白いシャツに灰色のセーター、黒いスラックスを着た父親は、ローテーブルの前に腰を下ろした。
「星一に頼みがあるんだ」
和之がじっと星一の目を覗き込んだ。
「来年度から奨学金を受けてくれないか。今の星一の成績だったら、利息なしの奨学金が受けられるだろう」
和之は口元を手で覆うと、大きなため息をついた。
「理月の今回の話で、予想以上に負担がかかることになってね」
「俺がバイトを増やしましょうか?」
星一は週三回高校生の家庭教師をしている。和之は首を横に振った。
「大学にいるあいだはなるべく学業に専念してほしい。僕たちが中途半端になってしまったからね」
和之と睦美は星一と同じ大学に通っていたが、学生のうちに結婚したため大学を中途退学していた。親と同じ轍を踏ませたくないと父親は強く思っているのだろう。
「いつもお前には気を遣わせてしまってすまない。本当はもっと上の大学に行けたのに、地元に残ってくれて……」
和之は言葉を濁すと、星一の表情を窺った。
「お前は本当に理月に強姦されていたのか?」
ふいに核心を衝かれた。
「改めてお前の口から聞きたい」
理月が強姦だと言っていたのだから、理月の意志を尊重しなければならない。星一は沈痛な面持ちで頷いた。
「理月はお前を性欲のはけ口にしていたと言っているが、お前はどうなんだ?」
和之の眉間の皺が、さらに深くなる。星一は自分を追い詰めようとする気配を感じた。
「君は同性が好きなのか?」
即答できる問いだった。しかし、それがこの場にふさわしい答えなのかと考えを巡らせる。
「理月はそうではないと言った。自分の性欲を我慢できなかった、それが間違いのもとだと」
理月はそんなことを考えていたのか、と星一は意外に思った。理月と話す機会がない以上、理月の考えは父親から聞くしか理解するすべがない。
「君は同性が好きだということで苦しんでいるのか?」
「今のところは……」
「苦しんでいないのか」
和之は親としての覚悟を持って星一の心に踏み込んでいる。それがわかっても、星一の心は何の反応も示さなかった。
自分の心のなかに、タールが澱んでいるような黒い沼がある。両親がどんなに星一のことを思っていようと、波風も立たず、何も反応を返さない、黒い沼が。
「理月が俺から離れたかったのなら、それでいいんです」
それが唯一の自分の願いであり、誠実な答えだった。
「じゃあ、お前は? 理月とはどういうつもりで付き合っていたんだ?」
自分と同じだと思っていた、唯一の存在だった。
誰も愛することのないかわりに、誰も憎むこともない。
人間の心を持つことのない、ただひとりの存在だった。
「答えられないのか」
沈黙が重く部屋に沈んでいった。星一はローテーブルの木目を眺め、それから顔を上げた。和之は反応を示さない星一を厳しい目で見つめている。
「お父さんはお前も心療内科に行ったほうがいいと思う。俺にとっては、理月よりもお前の気持ちのほうがわからない」
以前晴也にも同じことを言われたな、と星一は目の焦点を遠くした。
「平静を保ってはいるが、ほんとうは、お前のほうが深い病根のようなものを抱えているんじゃないのか」
病院に行けば、自分は規格外品の烙印を永遠に押されてしまうのだろうか。
「奨学金の話、どうする?」
和之が厳しい表情を崩して聞いた。
「お父さんたちのいいように、話を進めてください」
「こんなときでもお前は人の言うことを聞くんだな」
和之は膝を折って立ち上がりながら、憐れむような表情で星一を見下ろした。
「お前がお父さんたちに反抗するのは、いつになるのかな」
和之がふっと息をついて笑った。泣き笑いのような表情だった。
「奨学金のこと、ありがとう」
和之は星一におやすみ、と手を挙げて部屋を出ていった。
肩から力が抜けた。身体が硬くなっていた。
父親が絞首台の刑吏のように見えた。父親が灰色のセーターに黒のスラックス姿だったからだろうか、それとも、自分が向かい合いたくないものに向き合わされたからなのか。
星一はあることに気づいた。
理月が選ぶ服はシンプルなものだった。服の趣味が悪く見えるのは、色合わせができないからだ。
星一はベッドに広げた服を取り上げると、モノトーンの服だけをクローゼットに戻した。
感情のない自分には、色のある服はふさわしくない。
星一は階下のキッチンへ市のゴミ袋を取りに行った。そして、残った服をゴミ袋にまとめて捨てた。
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