熱病 05
5
また見ている。
となりの組と合同の体育では、茅場のクラスと一緒になる。二列で走る列の後方から、晴也は太い眉をひそめて茅場を睨みつけた。
茅場は、コーナーに差しかかるたびに後方の自分に何度も視線を向けてくる。
最近茅場は、学校では話しかけてこなくなった。そのくせ、いつも自分を意識している。
話したければ、学校でも話せばいいのに。後ろめたいことをしているような茅場の態度に苛々する。
羽島に茅場と喧嘩しているのかと聞かれたこともある。それほど茅場の態度は露骨だった。
部活からの帰り道はすでに真っ暗になっていた。晴也は茅場に合わせてマウンテンバイクを曳きながら歩いていた。
一月の中旬に入ってから、夜は氷点下まで冷え込む日が多くなった。コートを着ていても、隙間から忍び込んでくる風が背筋を震わせる。
「おれを無視しなくてもいいじゃん」
「晴也が、ほかの奴とも付き合えって言うし」
高い、かすれた声が風に流されて消える。茅場は、最近少し痩せた。間隔の離れた、大きい目が目立ってきている。
「それはいいけど、おれを無視することないだろ? 不自然だよ」
不自然という言葉に、茅場は感電したように飛び上がった。
「ごめん」
自分の家の門が見えてくる。
母親は茅場のために夕食を用意して待っている。茅場と付き合う気はないけれど、今の茅場を突き放すこともできない。自分の優柔不断さに腹が立つ。
マウンテンバイクを倉庫にしまってから、茅場を家へ招き入れた。
「お久しぶりね。いらっしゃい」
濃い赤のセーターに黒のスカート、ベージュの格子のエプロンをした母親は、晴也を見て苦笑した。
「髪が変よ」
風に流されて、髪の毛がそのまま固まったらしい。母親の機嫌がいいのを知って、晴也は安心する。
コートを脱いでリビングへ入ると、茅場はリビングの吹き抜けを見回した。茅場がこの家に来るのは、小学生のとき以来だった。コートと荷物を緑のソファの隅へ置くと、茅場は本棚がないと言った。
晴也は茅場の荷物を持って二階の自室へ行くと、制服をグレーのスウェットの上下に着替えた。
以前、本好きの父親が子供用の本棚をリビングへ置いていた。本棚には絵本や図鑑などがぎっしり詰まっていた。が、文字を読むことが嫌いな晴也にはあまり縁のない代物だった。
茅場も本を読むほうではない。晴也は今更どうして茅場がそんなことを言ったのか、わからなかった。
なごやかな夕食を終えて、晴也は茅場とともに自室へ上がっていった。
四畳半の晴也の部屋には、ベッドと勉強机、箪笥と本棚、ベッドの足元にはTV 台と小さいTV が置かれている。漫画と参考書が詰まった本棚も机の上も雑然としている。
「そっちで自分の宿題やれよ」
茅場はベッドの脇へ来ると、グレーのカーペットの上に腰を下ろした。
「宿題やってあげる」
茅場が英語の教科書と晴也のノートを自分のもとへ引き寄せる。カーペットの床にかがんで問題を解き始めた。
茅場は成績が良く、苦手な数学も全体の一割以内の順位に収まっている。
茅場が英語の宿題を終えるまで、晴也はTV を点けてクイズ番組を観ていた。
茅場はベッドの脇へふたたび腰を下ろすと、ベッドのへりに頭をもたせかけた。晴也が露骨に嫌がるせいか、茅場は晴也の側へ近寄ろうとはしない。
「何でおれのことが好きなの? いつからだよ」
「自覚したのは遅かったけど、ずっと好きだったのかもしれないな……」
ベッドに顔を伏せると、籠もった声で茅場が呟いた。
「子供のころ、俺笑うのが下手だったの」
「下手?」
「顔があんまり動かなかったんだよね。だから、笑っても誰も気がつかなかったの」
それがわかるのって、お母さんと晴也だけだったんだよね、と茅場は顔を起こして晴也へ告げた。
「まあ、昔の理月よりはわかりやすかったかもしれないけど、覚えてねえよ」
みんな忘れちゃうんだよ、と茅場が何度も頷く。
「俺だって忘れてたもん、今まで」
「そのことを?」
「別のこと」
別のことって何だよ、と晴也が唸ると、茅場は笑いながら、それを聞いたら晴也は嫌がるよ、と言った。
翌日は塾がある日だった。軽く夕食を食べようと入ったコンビニエンスストアの店先で、晴也は茅場の母親に声をかけられた。
「昨日はどうもありがとう。今からどこか行くの?」
「塾です」
「ご飯まだ? よかったら店へおいでよ。一回くらいならサボってもいいじゃん」
成り行きで塾は休むことにした。
遼子は付き合っていた恋人と別れたという。晴也は、去年のクリスマスに茅場の家でその恋人と遭遇しかけた。別れるきっかけを作ったのは自分だった。晴也には遼子に負い目があったが、当の本人はまったく気にかけていないらしい。
スナックが見えてきた。店の前にマウンテンバイクを停めて、晴也は店に入っていった。
間接照明に照らされた店内のカウンターへ晴也は腰を落ち着けた。ウーロン茶のグラスを手渡される。
店の奥からエビピラフの皿を二枚持ってきた遼子が、カウンターを出て晴也のとなりへ座った。
「晴ちゃんは正とは別のクラス?」
「となりです」
「あの子、苛められてない?」
ピラフをスプーンですくっていた手が止まる。ピラフを食べている遼子の顔には、歳相応の翳が見える。
「部活では苛められてないです。茅場に何かあったんですか?」
「小学生のころ晴ちゃんに迷惑かけたことあったじゃん」
「――茅場が言ったんですか?」
「正は言わない。ひとり親だからかなぁ、子供のころから大人になりすぎちゃってね」
本人には聞けないんだよ、と、遼子は頬杖をついている。
「そういうときって晴ちゃんべったりになるじゃん、あの子。だから晴ちゃんに迷惑かけてないかと思って」
「迷惑、かけられてないです」
嘘をつくときは言葉がぎこちなくなる。晴也は気まずさを誤魔化すためにウーロン茶を飲み干した。
「クラスの茅場はよく知らないんで、誰かに聞いてみます」
最近茅場と仲がいい羽島は、茅場と同じクラスだったはずだ。遼子はごめんね、と晴也に手をかざしてみせる。
「茅場が笑うのが下手だったって言ってたけど、関係あるのかなあ……」
「話自体しなかったことがあるんだよ。幼稚園に行くと、黙っちゃうんだよね。家だと話をするんだけど」
「そうでしたっけ?」
「晴ちゃんと友達になってから、幼稚園でもうまくいくようになったんだよ」
話をしない子供といえば、兄の理月がそうだった。離人症を患っていた理月は、据え置かれた人形のようだった。
子供のころの茅場には人間らしい雰囲気があった。茅場は理月のように空白が広がっているような感じではなかった。
「私がふがいないから悪いんだけど、晴ちゃんも正を見ててやってくれる?」
遼子は両手を束ねて晴也へ頭を下げた。
晴也が視線を落として口元を引き結んだ。
塾が終わるまでスナックのとなりのゲームセンターで時間を潰してから、晴也は家へ帰った。
家には母親と星一の靴があった。父親はまだ帰ってきていない。
リビングへ行くと、ダイニングで星一が夕食を食べていた。
「おかえり」
箸を止めた星一が手を挙げる。
完全に充足しているような笑顔に晴也は苛立った。笑うのが下手だと言った茅場と、偽装は得意なのだと笑う星一。笑うさいに顔の動かし方なんて考えはしない。表情や声色を気にするのは、嘘をついたときだけだ。
「兄貴ってさあ」
きつい口調に星一がひるむ気配はなかった。
「ほんとは一度も笑ったことないんじゃないの?」
星一は組んだ両手をテーブルに置いて首を傾けた。
「うん。そう」
深い安堵を湛えた、控えめな笑みだった。ようやく理解してもらえたとでもいうような満足感が、穏やかな瞳の色から窺える。
「笑うな」
星一が表情を消した。光に透けてしまいそうな生硬な顔に、黒い髪が落ちている。息をしながら死んでいる男が、真空の目を晒している。
「笑いたくもないのに笑うな」
吐き捨てるように言うと、晴也はリビングを横切って階段を上っていった。
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