熱病 06
6
晴也が自分の部屋で制服を脱いでいると、ドアをノックする音がした。
「誰?」
ドアの外で星一の声がする。晴也は太い眉をひそめたが、手早くグレーのスウェットの上下に着替えるとドアを開けた。
星一は、どことなく嬉しそうな表情でマグカップをふたつ持って部屋へ入ってくる。
「コーヒー淹れたよ」
星一は晴也の青のマグカップを手渡した。薄めのブラックコーヒーが、蛍光灯の光を弾いている。晴也は口ごもりながら礼を言うと、ベッドの上に腰を下ろした。
「どうしたの?」
「俺が本当は笑ってないって、気づいてくれた」
星一は機嫌良さそうに言って、勉強机の椅子に座った。自分の緑のマグカップを机に置く。星一のコーヒーの趣味は濃いめのブラックだ。
先日、茅場に自分が笑っているのに気づいたのは晴也だけだったと言われた。今度は星一が逆のことで晴也に感謝している。晴也は妙な気分になった。
「じゃ、何で今あんたは笑ってるんだよ」
「惰性で演技しているだけだよ」
「あんたは人前ではずっと演技をしているのか」
星一は長めの前髪を揺らして頷く。
「今まで、わかっていたのは理月だけだった」
あの子も人前では演技をしていたから、と星一はコーヒーを飲みながら続けた。
「俺は笑って機嫌よくしているのが得意で、理月は怒って機嫌を悪くしているほうが得意だった。でも、同じコインの裏表みたいなもので、本質は一緒だ」
「本質って何だよ」
「感情がない」
星一がゆっくりと瞼を落とした。
「心の底から笑ったり、怒ったりした経験がない」
目を開けると、だから俺たちは規格外品なんだ、と星一は無表情で告げた。
「俺たちは赤ちゃんを見てなぜ皆が笑うのかわからない」
子猫がかわいいって、どんなことなのかもわからない、と星一は湯気の立つマグカップを手で包んで続けた。
「人間は小さくて丸くて目が大きいものに好意を持つ、って学習してようやく、俺たちは赤ちゃんに笑うことができる。みんなが自然にやっている動作を、いちいち分解して考えないとわからないんだ」
「面倒くさい考えだね」
「晴也は俺たちよりずっと立派だと思っていたよ。晴也から出てくる感情はいつも正しい」
晴也は手を付けていなかったコーヒーを一口飲んだ。星一の話を聞いていたせいか、味があまりしなかった。
「兄貴も病院に行ったほうがいい。その、わけのわからないところを一度専門家に診てもらえばいいんじゃないか?」
カップを両手で抱えながら、星一はしばらく思いに沈むような表情をしていた。
「医者は正常な心がおかしくなったのを治す。初めからおかしいものを正常にはできないんじゃないかな」
それに、俺は今何も困ってないし、とコーヒーを飲みながら星一が続ける。
「理月がきちんと眠れるようになれば、俺はそれで構わない」
「そのために自殺までするのか?」
「生きている意味がわからないから」
「だからって死ぬこともないじゃないか」
やはり星一は変だ、と晴也は大きな目を眇めて思った。星一は、心の大事な部分が抜け落ちている。
――お前は星一のことを何も知らないだろ?
理月の言葉を思い出す。理月の言う通りだった。いつもひとりで満足していると思っていた星一の心には、こんな空白があったのだ。
「晴也は映画のピノキオの話、覚えてる?」
星一が唐突に話題を変えた。
「子供のころ観たけど、覚えてない」
「ピノキオは木の人形に人間の心を入れられた。いい子にしていれば身体もいつか人間になれるって、妖精に言われるんだけど、人間の心が入ってるんだから、ピノキオは最初から木でできた人間だったんじゃないかな?」
なぜ身体も人間になることがハッピーエンドなのかわからない、と星一は視線を天井にさまよわせた。
「どうして人間でできたものしか人間だと認めないんだろう。じゃ、人間でできたものは無条件に人間なのかな、人間の心を持たなくても?」
「それが自分たちだってこと?」
「そう」
理月が自分を馬鹿にするとき、晴也にはそれが演技だとは到底思えなかった。
星一の笑顔も演技には見えなかった。ならば、自分に心がないと思っている星一自身に何らかの問題があるのではないだろうか。
「やっぱり病院に行けとしか、おれには言えないよ」
ぬるくなったコーヒーを飲み干して、勉強机に置く。星一のマグカップも空になっていた。
「『ピノキオ』の映画を観ないか? レンタルショップで借りてくるから」
以前星一と一緒にリビングで映画を観ていたのは理月だった。星一の心を知る手がかりになるだろう、と思って、晴也は頷いた。
星一はマグカップを持って部屋を出ていった。
「おやすみ、晴也」
星一はいつもあいさつの言葉を欠かさない。
しかし、それらもすべて演技だというのだろうか。
晴也は複雑な思いで、星一が消えたドアを眺めていた。
「映画?」
「そう。だから今日は駄目」
部活が終わった帰り道、晴也の家に行きたいといった茅場に、晴也は即座に断っていた。
「兄貴とふたりで観たいから、今日は家には来ないでくれ」
「何で? いいじゃん。何の映画?」
「『ピノキオ』」
冬枯れの、電飾が目立つけやき並木を、冷たい風に煽られながらマウンテンバイクを曳いて下っていく。坂の下の幹線道路沿いのコンビニエンスストアに着くまで、茅場は不満げに紺のマフラーに顔を半分埋めていた。
コンビニエンスストアの前で茅場と別れる。茅場は晴也を無視して茅場の家の方角へ歩いていった。
誰も自分の手に負えない。ひとつため息をつきながら、晴也は自分の家の方角へマウンテンバイクを漕ぎ出した。
晴也が家に着いた。星一はリビングでお茶を飲んでいた。リビングのテーブルにはおかきの入った菓子櫃が並べられている。
星一に手を挙げて二階へ上がっていく。晴也がふたたびリビングへ戻ってくると、星一はすでに映画の予告編を観ていた。
星一がキッチンへ行くと、ふたり分のお茶を淹れてきた。
「短い映画だよ」
礼を言ってお茶を受け取る。晴也は緑色のソファの星一のとなりへ腰を下ろした。
映画が始まったときに、玄関のチャイムが鳴った。
星一が玄関へ行く。晴也は映画の再生を止めて、星一が帰ってくるのを待った。
星一がリビングへ戻ってくる。背後に制服姿でダッフルコートを手にした茅場を伴っていた。
「……お邪魔します」
本当に邪魔だよ、と晴也の喉から言葉が出かかる。今から映画を観るところだったんだ、と星一はにこやかに茅場を晴也のとなりへ案内した。
「コンビニでおにぎり買ってきたんで、夕食は気にしないでください」
「気を遣ってくれてありがとう」
茅場は晴也を無視して星一と会話している。晴也は茅場の態度に苛立ったが、星一が部屋に通してしまったものは仕方ないと思った。
映画を再生する。星一が茅場のお茶を淹れてくると、テーブルへ置いた。
映画が始まった。「星に願いを」が流れ出す。
三人は映画を終始無言で観た。
「いい映画だったね」
茅場が言うと、星一と晴也は顔を見合わせた。
「いい子にならなければ、人間にはなれないんだね」
おかきに手を伸ばしながら、晴也は星一に語りかける。
「良心がなければ、木の人形のままなんだ。だから、木の人形でいる時点では、完全な人間じゃない」
晴也は自分の解釈を星一に説明する。そして、おかきを奥歯で噛み砕いた。
「普通の子供だってそうじゃないか。子供は悪いことをしながら、善悪の判断を学んでいく」
だから最初からピノキオは人間の子供だったのではないか、と星一は首を傾けた。
「木でできたピノキオを人間だと認めないのは、心が狭いからじゃないのかな」
「やっぱり良心がなければ、人間じゃないんだよ」
「何の話をしているの?」
唐突に始まったふたりのやりとりに、茅場が驚いている。
「茅場には関係ないことだよ」
晴也に突き放されて、茅場は顔を真っ赤に染めた。
「だから今日は来るなって言ったのに」
「何だよそれ。俺だって一緒に映画観てもいいじゃん」
「お前にはわからないことなんだよ」
茅場は帰る! と叫ぶと荒い足取りで部屋を出ていこうとした。
「待って、突然変な話をしてごめんね」
「変な話じゃねえよ、真剣な話だ」
「でも茅場くんは俺たちのやりとりを知らないから」
「断ったのに勝手に人の家へ上がり込むほうが悪い」
「晴也、言い過ぎだ」
晴也は星一を無視して頬杖をついている。
「お邪魔しました」
ダッフルコートを着込むと、茅場は早足でリビングを去っていった。
「何でそんなに茅場くんにきつく当たるんだ」
「あいつはおれに甘えすぎなんだよ。自分の言うことなら何でも聞いてくれると思われるのは迷惑だ」
少しでも逆らうと今のように過剰に反応する。茅場の極端な性格に晴也はうんざりしていた。
「茅場はおれが好きなんだってさ」
それは心からの好意ではないと晴也は思う。
「おれも茅場の言うことを聞きすぎた。だから今、後悔してるんだ」
晴也は立ち上がると、星一を残して二階への階段を上っていった。
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