熱病 04

4


 レポートの文献を探しに、星一は大学の図書館を訪れた。

 古い飴色の木と煉瓦で覆われた図書館のロビーでは、数人の学生が閉架検索用のパソコンの前を占拠していた。

 学生の背後に立ち、パソコンが空くのを待つ。星一は入り口から入ってきた須賀すが教授に頭を下げた。六十歳を過ぎた、一般教養の社会学の教授である。

「開きそうにないね」

 須賀は星一を手招きした。星一を引き連れて受付に行くと、須賀は、

「閉架お願いね」

 と受付の学生に手を挙げてカウンターの奥の閉架の部屋へ入ろうとした。

「先生、学部生の方は閉架には……」

「この子は荷物持ち」

 カウンターの奥から引き返そうとする星一の腕を掴むと、須賀は星一の背中を押して閉架の部屋へ入っていった。

「家の学校はケチだからね。開架にロクな本がないでしょ? 学生に勉強するなって言ってるようなものよね」

 須賀の行動はレジスタンスのようなものであるらしい。

「君は岸田睦美きしだむつみくんの息子さんだそうだね」

 岸田というのは母親の旧姓だった。

「母をご存知ですか」

「知ってるのは岸田先生のほう。お元気にしていらっしゃる?」

 星一が岸田先生を知らないと告げると、須賀はふうん、と鼻から抜けるため息をついた。

「ここの社会学の名誉教授で、睦美くんの養父だった方だよ。睦美くんが退学した直後は、ずいぶん気落ちされて、ああ、あった」

 須賀は古びた本を抜き取ると、向かいの書棚を振り返った。

「母方の親戚とは付き合いがないので」

「ああ、そうなの」

 須賀の興味はすでに本へ移っているようだった。星一は、須賀から離れると目当ての書棚を探した。

 母の生い立ちが複雑であることを、星一は父から聞いていた。母は、養父の家から大学へ通っていたが、星一を身ごもり大学を退学して結婚したせいで、養父の家とは疎遠になってしまったようだった。

 見知らぬ母の面影を星一はかすかに首を振って忘れた。


 須賀と図書館の前で別れると、星一は大学から電車で二駅の位置にある県立図書館へ向かった。

 図書館へ至る住宅地の街路を歩きながら、空を見上げる。空を覆う分厚い雲から、午後の金色の光が透けて見える。雨が降る直前の、危うい均衡を保った空だった。

 家庭教師のアルバイトがない日は図書館で時間を潰すようになった。家人とは顔を合わせないほうがいいような気がしたからだ。

 目が合うのは、末弟の晴也だけだった。星一は苦笑した。

 自分を咎めるような晴也の目が、ストレートで微笑ましかった。

 晴也はいつもそうだった。正しく笑い、正しく泣く。正しく怒る小さな晴也は、精巧な機械仕掛けの人形のようだった。

 陽光が透ける空から雨が降り出した。金色の柔らかい霧雨が、空気に満ちる。街路の花壇には、紫やオレンジ色のビオラが星を撒いたように光を放っていた。理月に見せたい、優しい風景だった。

 理月は何をしているのだろう。

 金色の空を見上げる。細かい雨の粒が頬を叩く。

 高校の授業を受けている。

 下校して理月の新しい家へ向かっている。

 路上で歌を歌っている。

 自分の死を願っている。


 同じ空のもとで、違う雨のなかにいる。

 同じ空のもとで、同じ陽光のなかにいる。

 同じ星に、同じ太陽のもとに弟が住んでいる、その波動を、星一は息を潜めて辿った。

 柔らかい霧雨に目を覆われる。世界は金色に溶解して消える。


 弟が生きているこの世界は何て美しいのだろう。


 図書館の自動扉の前で、星一は制服姿の夏目歌穂とすれ違った。

「こんにちは」

 星一が軽く一礼する。歌穂は星一を無視して図書館を出ていった。

 後ろでまとめた茶髪が穂先のように跳ねている。人形のようだと思って、星一は首をかしげた。

 彼らを人形のようだと思うことは間違っている。自分や理月のほうがはるかに人形に近かった。

 願うこと、好きになること、嫌いになること。教えられなくても、人は自然にそれを知っている。

 なぜ知っているのだろう。星一はひっそりと瞼を落とした。

 どうして自分たちは知らなかったのだろう。


 最後にセックスをしたとき、二の腕の奥に無数の噛み痕を付けられた。

 弟にひどく揺さぶられていたせいか、星一はそのことに気づいていなかった。

 理月は両親の前で噛み跡を見せた。

 兄を強姦した証拠を示すために。


 理月と最後に会った日を思い出す。

 リビングの緑色のソファに並んで座って、両親は凍りついていた。その脇の一人掛けのソファに座っていた理月が、階段の近くに立っていた自分のもとまで近づいてくる。

 理月は淡々と事実を告げ、星一の服のボタンを外すと、青黒く充血した噛み痕を両親へ見せた。

「それは、本当なの? 星一」

 丸い目を一杯に見開いて、母親は聞いた。黒目の光点が不自然に揺らいでいる。星一は頷いた。

 理月が座っていたソファへ戻っていく。

「イブの日に海へ落ちたっていうのは、嘘なのね?」

「何だそれは」

 父親が神経質そうな目をさらに細めた。午後の柔らかい陽光に照らされた部屋に、鋭角的に削げた父親の顔が浮かび上がる。

 星一は理月の向かいの一人掛けのソファへ座った。

「星一……自分で死のうとしたの?」

「はい」

「理月とのことが辛かったから?」

 理月の思念を辿った。理月は星一とのセックスを「強姦」と呼んだ。ならばこの答えは「イエス」だ。

「はい」

「どうしてお母さんたちに言わなかったの?」

 怒りを押し殺したような理月の顔に、母親は零れ出しそうな目を向けている。

 星一は重圧に耐えられないとでもいうように頭を下げた。

 いつもなぜ自分のために人が「泣く」のか、不思議だった。

 母親から、自分は以前はよく泣く子供だったと聞いたことがある。が、今は「泣く」動作を思い出せなかった。

「どうしてこんなことをしたんだ」

 父親の言葉は自分に向けられていた。それを遮るように、理月が身を乗り出した。

「理由なんかねえよ。一緒の部屋にいれば、猫だってサカるだろ」

「そんな言い草があるか」

「じゃ、お前らは何でセックスするんだよ。ガキとか愛情とか。違うだろ。やりたいからやってるだけだろ?」

 理月は本当に怒りを抑えているようだった。演技に取り憑かれて現実と虚構の区別がつかなくなった役者のように。

「ごめんなさい」

 先刻からティッシュで涙を拭いていた母親が身を乗り出して、星一の手首を掴んだ。

「……何にも気づかないで……」

 母親は、星一の手首を引き寄せると、力尽きたように顔を膝に埋めた。

 怒りに歪んでいく理月の顔に、午後の淡い飴色の光が射す。

「お前は最初から俺が邪魔だっただろう」

 冷ややかな目で、理月はうなだれた母親を見ている。

「俺が生まれなければよかったと思ってるだろう」

「そんなこと思うわけない」

 母親が顔を上げ、星一の手首から手を離す。

「あなたの考えが歪んでいるの。罪悪感があるから、そうやって自分で自分を苦しめて」

「俺のことはどうでもいい。俺が問題にしてるのはお前だよ」

「あなたがやったことでしょう!」

「お母さん」

 淡々とした低い父親の声に、母は身体をしぼませた。白髪交じりの髪を何度も撫でつけて、父親は星一のほうへ向き直った。

「星一はどう思ってるんだ?」

 父親の行動は自分のそれに似ている。父親はどこか遠いところから物事を俯瞰している。

 いくら偽装しても、人は自分たちが本当の人間ではないことに気づいている。屋根から飛び降りたときに腕の奥についた理月の傷、自分の背中の引き攣れた傷痕は、規格外品に押された烙印のようだった。いつか規格外品は狩られてしまうのだろう。人は自分に理解できないものを赦しはしない。

「俺は」

 言葉が途切れた。その先を、いくら考えても思いつかなかった。

「嫌だったんだろ」

 理月がぽつりと答えをくれる。

「嫌だと感じることができないくらい」

 理月の言葉だけが、胸に落ちてくる。自分と同じ場所で話されている言葉だった。

 だから嘘をつくしかなかった。理月の言葉を、鸚鵡のように繰り返すしかなかった。

「――たぶん……嫌だったと思います」

「星一とは後で話そう」

 父親が深いため息をつきながら言った。

「先に部屋へ戻っていなさい」

 星一はリビングの端の階段を上ると、自分の部屋へ入っていった。

 そのままベッドへ横になる。人間の感情を忖度するのは、ひどく疲れる。重い空気の塊にのしかかられているような感じがする。

 あのときも自分は何も感じなかった。

 星一は目を閉じた。自分に向けられる感情を処理できない。疲労感だけが溜まっていく。


 背中に引き攣れた傷痕がある。幼稚園の帰りに、近所をうろついていた土佐犬に噛まれたときのものだ。

 低い唸り声を発して、犬は自分を押し倒すと身体の上に乗り上げた。

 実際にどのように噛まれたかは思い出せない。

 次に気づいたときは病院のベッドの上にいた。十数針を縫う大怪我だった。土佐犬の飼い主とその子供がベッドの傍らでうなだれていた。

 目が合ったさいの飼い主の視線を今でも覚えている。

 泣き出す寸前の表情に、希望の光が射した瞬間を。

 その光の所在が不思議だった。この人が犬に噛まれたわけではないのに。そう思った。

 後日、土佐犬は遠くへ貰われていったと星一は両親から聞いた。

 犬がすでにこの世にいないことを自分は知っていた。


 星一は、自分が何か狡いことをしたのではないかと思った。が、それを人に話しはしなかった。

 死んでいたのは自分であったはずなのに。

 しかし、運命とはそういうものだと気づくのに、さして時間はかからなかった。

 殺されていく不条理さに答えを出した者はいない。


 あの犬と同じように、理月は自分の目の前から消えてしまった。

 自分は理月を殺してしまったのだろうか。その問いに答えを出す者はいない。

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