熱病 03

3


 リングに放たれたボールは、ネットをかすめて体育館の床にバウンドした。

 太い眉を歪めると、晴也はバスケットボールを拾ってシュート待ちの列へ戻っていった。

 列の前方では茅場正と羽島敬吾がボールを片手に笑っている。カエルのような幼なじみの顔を、晴也は横目で睨みつけた。

 確かに晴也は茅場にほかの人間とも付き合うように言ったが、自分を無視しろとまでは言わなかった。

 そして部活が終わってふたりきりになると、茅場はベタベタと晴也にまとわりついてくる。このギャップがたまらない。

 冬休みに起きた事件は、三学期に入ってから一切家族の話題に上がらなかった。

 長男の星一を次男の理月が強姦しつづけていたことは、理月の口から両親へ知らされた。理月は星一から引き離されて県外の高校へ行き、星一はあいかわらず家から大学へ通いつづけている。

 理月はただ星一とやりたかっただけだと言った。

 ただやりたかっただけなら、やめるのも簡単だったはずだ。

 それではなぜ、理月は親にあんなことを言ったのか。

 何も解決していないのに、家では皆何事もなかったような顔をしている。

 ――気持ち悪い。

 まとわりついてくる茅場の体温が、あの日の記憶に重なる。

 脇腹の肉を捻り潰される。晴也は脇腹を押さえて後ずさった。

 背後に忍び寄っていた松島清之介が太った身体を震わせて笑った。

「茅場に振られてむかついてんだろ」

「違うって」

「自分のパシリを羽島に取られたのがヤなんだろ?」

「違うっつうの」

 不敵な笑みを浮かべると、松島は晴也から離れていった。


「頼んでくれたんだ」

 学校からの帰り道、徒歩の茅場に合わせてマウンテンバイクを曳いていた晴也は、茅場の微妙に甘えた口調に顔をしかめた。

「晴也のおばさんが、家に来ていいって」

 日の暮れたバス通りには、クリスマスの名残の電飾がけやきの並木に連なっていた。冷たい風に、肩をすくめる。晴也は今日の朝、母親が何も言わなかったのにと訝しんだ。

「今日は塾だから駄目」

「明日は?」

「空いてる」

「ご飯を食べないで来てって晴也のおばさんが言ってた。悪いかな」

「平気だろ」

「おじさんと星一さんも一緒?」

「ふたりともいねーよ。仕事してるから」

「おじさんって相変わらず小説家なの?」

「パソコンに向かって何かやってるけど、知らない」

 父親と星一は、顔だけではなくひとりで行動してひとりで満足しているところが似ている。

 他人がわりこむ隙間がないようなところが。

 茅場と別れる角に差しかかった。じゃ、と手を挙げてマウンテンバイクへまたがろうとした晴也に、茅場は手を伸ばしてきた。

 晴也が身を躱す。茅場の手が空を握る。

「誰が見てるかわかんないだろ?」

 晴也が笑いながら諭すと、茅場は頬を赤くして肩をすくめた。

「じゃ、また」

 目元が赤い茅場の顔に、晴也は口元に笑みを作って手を振った。

 マウンテンバイクに乱暴にまたがって、上り坂に向かってペダルをこぐ。

 男同士のキス。やつれていく母親。澱んだ空気と、何も言えない不穏な家族。

 自分の精液の匂いでさえ吐き気がするというのに。

 ――誰が男なんかに触りたいと思うかよ。

 兄がもうひとりの兄に強姦されて、家族が無茶苦茶になっているときに。

 ――そのくらいわかれよ、馬鹿。

 苛々とペダルを踏み込む。ちぎれるように景色が流れていく。


 茅場が晴也の後をついて離れない。それは、幼稚園の年長組のころのことだった。

 幼稚園の先生に言われた言葉を思い出す。

 ――正くんは三月生まれだから、晴也くんのほうがお兄ちゃんなのよ。だから正くんを見てあげてね。

 茅場は不器用な子供だった。食べるのも遅かったし、遊ぶときも晴也の後ろから離れなかった。それでも晴也が一度も茅場を怒らなかったのは、幼稚園の先生の言葉が頭に残っていたからだ。

 兄とはそういうものだと思っていたから。

 星一が世間一般の兄とはかけ離れた存在であることに気づいていなかったから。

 あのころの晴也を茅場は未だに引きずっている。しかし茅場が考えている晴也は虚構でしかない。晴也は星一のように寛容な性格にはなれない。

 そのことを茅場はわかっているだろうか。

 塾までの道のりを全力疾走しながら、晴也は深いため息をついた。


 大学の講義が終わった後で、星一は理月の高校へ向かった。

 一年前までは自分も通っていた学校のゆるい坂道を上っていく。午後の閑散とした住宅街はほとんど変わっていなかった。通りすぎていく学生を振り返る。自分がもうあのころへ戻ることはない。

 時間がなぜ流れるのか不思議だった。

 子供のころにはもっとさまざまな疑問があった。なぜ他人のために人は泣くのか、なぜ赤ちゃんを見ると笑うのか。わからない自分がおかしいのだと気づいたのは、四歳くらいのときだった。

 人には感情がある。それは大人が教えなくてもあらかじめ備わっているものだった。

 それが自分にはなかった。だから、自分がどのような反応をすればいいか、子供のころから常に考えていなければならなかった。

 最近はずいぶん楽になった。惰性で感情を演じられるようになった。だから、疑問を感じないことにすっかり慣れたような気がする。

 考えないことに慣れたような気がする。

 校門が見えてきた。捻れた楠の枝の下に立って、星一は暮れかけた空を見上げていた。


 星一が写真の少女に気づいたのは、二十分ほど過ぎたころだった。

 三人連れの女生徒の真ん中の少女に、星一はすみません、と声をかけた。

「皆川理月の身内の者ですが」

 小柄な少女は驚いたように星一を見上げた。

「弟の件で聞きたいことがあるのですが」

 吊り上がった丸い目と、くっきりと描かれた細い眉。少女は、左右の友人に小声で何か呟いて手を振ると星一のとなりへ並んだ。

「どうして私を知ってるんですか?」

「去年のクリスマスのコンサートでお会いしたので」

 駅の方角へゆるい坂を下りていく。星一が自己紹介すると、少女は夏目歌穂なつめかほと名乗った。

「あの日以来、サークルの誰も連絡が取れないんですよ」

 携帯の番号は変わっているようだし、と紺のチェックのプリーツスカートからスマートフォンを取り出した。

「新しい携帯の番号を知りませんか?」

「それを俺も聞きにきたんです」

「家の人に聞けばいいじゃないですか」

 不審そうに声を尖らせる歌穂に、星一は理月と喧嘩したと説明した。

「家族は理月が俺と連絡を取るのをよく思っていないので」

「どういうこと?」

 詳しくは話せませんが、と星一は語尾を笑みで濁した。

「皆川から電話が来たら皆川に聞きます。それでいいですか?」

「お願いします」

 駅前のロータリーに辿り着くと、ふたりは切符売り場の前で電話番号を交換した。

「期待しないほうがいいですよ」

 歌穂はそっけなく言い残して立ち去っていった。

 星一は改札を通って、プラットホームに停車していた電車に乗る。

 電車が動き始めた。藍色に染まった空に、高校の校舎の稜線が見える。

 クリスマスイブの前の晩、ベッドに両手を組んで腰掛けた理月の言葉を思い出す。

 ――俺を楽にしたいのか。

 ――だったら海で死んでこい。

 星一はゆっくりと目を閉じた。

 あのとき、理月は自分の目覚めが来ないことを願っていた。

 永遠に。

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