熱病 02
2
手前の理月の部屋は、去年の年末に理月をウィークリーマンションに隔離したときに荷物をまとめて持ち出したせいか、閑散としていた。
正月休みが明けて、ようやく仕事を休めるようになった。仕事と正月の支度に忙殺されたせいで、ふたりの息子のことを深く考える余裕がなかった。
理月は、星一を強姦していたと両親に告白した。会社の休みを取った夫の
今日から三男の晴也の新学期が始まった。四月から、晴也と理月は受験生になる。晴也は高校、理月は大学受験だ。重要なこの時期に、理月をひとりにしなければならないのが心苦しかった。
離人症が治って以降、理月が精神科の門を叩くことはなかった。心理検査の結果は軽度の鬱だった。薬は処方されず、精神分析の医師を紹介された。週に一度、カウンセリングに通う手筈になっている。
医師は、星一への虐待が継続して行われた可能性があると言い、星一も診療を受けるよう勧めた。が、星一のようすが落ち着いていたので、病院に行く必要はないということになった。
保険の対象とならない精神分析は、一ヶ月でアパートの家賃ほどの費用がかかる。自分の給料だけでは理月の生活費を賄いきれなかった。
段ボールを組み立て、箪笥に残っている理月の夏物の衣類を詰めていく。
理月の衣服の整理を夫に頼まれていた。理月は自分には顔を合わせたくないという。
理月はむずかしい子供だった。身体の弱い子供だった。以前は学校で倒れて再三呼び出しを受けたが、それでもあの子を疎ましいと思ったことはなかった。
星一は手のかからない子供だった。静かに本を読みひとりで遊んでいる。
小説家志望の夫と、読書家の息子。星一は、皆川の家の高踏的な顔立ちをしていた。いつも足元に涼風が吹いているような雰囲気を持っていた。
それは今でもまったく変わっていない。
理月の話が妄想ではないかと疑いたくなるほどに。
一杯になった段ボールをガムテープで封じ、もうひとつの段ボールを組み立てる。
理月の転校を決めたのは夫の独断だった。理月が暴力でしか自分の意志を伝えられないのであれば、今近くにいなければならないのは私たちではないだろうか。睦美の言葉を夫は聞かなかった。
人を人とも思わぬ子供。夫は理月のことをそう言った。
星一を下宿させるという睦美の考えは夫に反対された。ふたりが同じ市内の学校に通っていれば、どこで出くわすかわからないという理由からだった。
――俺が生まれなければよかったと思っているだろう。
理月はまっすぐに自分を見ていた。
自分だけを見ていた。
学校から帰ってきた皆川晴也は、兄の部屋から出てきた母親を見て太い眉をひそめた。
「仕事は?」
「今日はお休み」
段ボールを抱えた母親は足を引きずるようにして階段を下りていく。
自分とよく似た丸顔の頬がやつれている。晴也は大きな目を細めて母の背中を見送ると、長めのくせっ毛を掻き回した。
あの日から皆おかしくなっている。
一番おかしいのは星一だった。理月が消えてしまっても、星一はまったく変わらなかった。初めから弟がひとりしかいないような顔をしていた。
晴也は兄の部屋へ入っていった。理月の部屋の真ん中にいくつかの段ボールが置かれている。理月の机と本棚には、白い布が被せられている。
理月が死んでしまったようだと晴也は思った。
星一は理月を特別に好きではなかったのだろう。だからあっさりと理月を見放した。
――もう、たくさんだ。
教会のコンサートの後で、理月はそう言った。
理月は自分の強姦を親に自白して、星一から引き離された。
星一は本当に強姦されていたのだろうか。
もし星一が嫌がっていなかったとしても、理月だけが悪いと言えるのだろうか。
あんなものを尻にねじ込まれたら、プライドがズタズタになるだろう。親友の顔を思い出す。冬休みが明けてから、茅場正の態度もおかしくなっている。
茅場がどう思っていようと自分は茅場の女にはなれない。茅場を女と同じように見ることもできなかった。
星一は苦しいとも辛いとも言わなかった。理月とのセックスが好きだとまで、言った。
星一は怒らない。いつも人を気にして、すべてを許している。
しかしそれは、何も許していないのと同じではないだろうか。
ドアが開く音がする。沈んだ顔の母親が部屋へ入ってくる。
「塾がないとき、茅場を家に呼んでもいい?」
「どうして?」
「あいつん家のおばさん、仕事があるから家にいないんだよ。おれの家に茅場がいれば、おばさんも安心するし」
「今までもいなかったんでしょう?」
幼稚園のころから付き合っているせいか、茅場の家の事情は母親もわかっている。
「茅場が淋しいみたいだから」
晴也は母親がそのまま断ってくれないかと思っていた。母親が兄たちの件で疲れ切っているのを知っていて、自分は母親を裏切るようなことをしている。
「最近遅かったのは、茅場さんの家に行ってたせいなのね」
母親は天井に目をさまよわせていた。
「茅場さんに聞いてみる」
空ろな顔で呟くと、母親は段ボールを手に部屋を出ていった。
皆川星一がアルバイトから帰ってきたころには、家人は皆寝静まっていた。
風呂に入った後、洗面台で自分の姿を確かめる。前髪だけが少し長めのストレートの黒髪と、白く細い顔。鼻筋の高い顔立ちは父親譲りだった。自分は常にぼんやりしているだけなのだが、周囲は考え深い人間だと思ってくれるようだった。いつも本を抱えていると、雰囲気で得をするらしい。
自分の部屋へ戻ってくる。明かりを点けると、星一は本棚と机に埃よけの白い布がかけられていることに気づいた。母親が理月の部屋を片づけていったらしい。
本棚の白い布を取る。点々と空いた本棚には、雑誌や中学校のアルバムなどが収まっている。
斜めに崩れ落ちた雑誌の一角から、星一は写真の束を引き出した。DPE の袋からネガと紙焼きを取り出す。
理月の高校の文化祭の写真だった。星一も同じ高校に通っていたので、講堂や教室は馴染みの風景だった。自分の部屋に入って、ベッドの上に写真を広げる。自分と同じ制服を着て、友人と並んでいる理月。同級生の女の子とふたりで写っている写真もあった。
自分の半身を引き裂かれたら、どんな気持ちになるだろう。脱いだコートをクローゼットにかけながら、星一はかすかに首をかしげた。
理月は自分の半身だった。
何も感じず、何も愛さない、もうひとりの自分だった。
いつから理月は苦しむようになったのだろう。
仮病が本当の病気になってしまったように、いつから理月は苦しむことを覚えたのだろう。
一枚の写真に目が留まる。
驚いたように振り返る制服姿の少女が映っていた。猫のように吊り上がった目と、茶髪を後ろで束ねた髪形に見覚えがあった。それは、去年のクリスマスに教会で歌を歌った少女だった。
現在の弟の居場所は不明だった。弟と自分のスマートフォンも番号を変えられていた。
彼女に聞けば何かわかるかもしれない。
星一は写真を撮ると、コートのポケットに滑り込ませた。
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