熱病
熱病 01
※この章には性的な描写があります。苦手な方はお気を付けください。
1
主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
創世記4・10-11
雪原にふたつの足跡が残っていた。
ひとつめの足跡は、ゆるい勾配の坂を横切って雪に沈んだ灌木の森へ続いていた。
もうひとつの足跡は、手前の納屋から斜めに伸びて、ひとつめの足跡へ重なって途切れていた。
ひとりの人間が空へ飛び立ってしまったように。あるいは、もうひとりの人間に狩られてしまったように。
よく見る夢のひとつだった。
その年のクリスマスには、ひっそりと粉雪が降った。
深夜に一瞬空を覆いつくした粉雪は、澱んだ雲とともに海へ流されていった。雪は積もることなく地面に吸い込まれて消えた。
だからその日に雪が降ったことを自分のほかには誰も知らない。
星一が暗い自分の部屋へ戻ってくると、同室の弟はすでに眠っていた。
ベッドへ歩み寄り、規則正しい呼吸の音を聞く。手をかざしてみる。あたたかい吐息が指の先に触れた。
自分のベッドに戻って、着替えをする。カーテンの引かれていない窓から冷気が洩れていた。
ベッドから毛布を引き出すと、それをかぶって窓の外を眺めた。黒い杉林の鋭角的な陰と、カエデの枯れ枝、右手になだらかに海へ落ちていく山の稜線と、光を放つ灯台の灯が見える。
もともとあまり眠る性分ではない。規則正しい呼吸の音に耳をすます。メトロノームのようにその音を永遠に鳴らしてくれる装置があれば、少しは眠れるようになるかもしれない。
眠れない自分のために、弟がCDを買ってくれた。ヒーリング系の、優しい音楽。深海のソナー。効果音の波の音。ブライアン・イーノの「Apollo」。
母親の心音のCDもくれた。身体の内側から響く心臓の音だった。赤ちゃんがそれを聴くと安心して眠るようになるらしい。
葉擦れの音のような、雨音のような、波の音のような、そんな音だった。
ふたりで眠るときは、耳元で歌を歌ってくれた。歌が途切れると、眠る弟の呼吸の音を聞いた。最近弟はよくうなされていた。届かない夢を案じて、何度も髪を撫でた。
もう弟がうなされることはないだろう。
淡い雪のように、弟は消えていった。
明かりを消して、眠る瞬間を待つ。眠れない夜が続く。瞼が重くなり、鈍い頭痛がする。それだけのことだ。何程のこともない。
身体が弟を呼ぶ。
弟の部屋へ行くと、空のベッドから弟の枕を取り出した。自分のベッドへ戻って、弟の枕に頭を沈める。弟の匂いがする。
自分の枕を弟のベッドに戻すと、窓の外を眺めた。
漁火が揺らいでいる。弟の匂いに、喉が渇いてくる。
下着に手を差し込んで、性器に触れた。弟の手つきを反芻する。軽く爪の先で引っ掻いて、くびれを痛めつける。電流が走ったように身体が跳ねた。
身体の奥の真空が震える。繋がる感触を思い出す。爪先が丸くなる。
押さえつけられてひらかれる。悦ぶように性器が跳ねた。
液体が指に滴る。生ぬるい精液が指先で冷えていく。
精液を零さないように、そっと下着から手を抜いた。自慰には慣れていなかった。自分に触れるのはずっと弟の手だと思っていたからだ。
手のひらに注がれた精液に顔を寄せる。ツンとする、青臭い匂い。弟の匂いがした。舌先で唾液を混ぜながら、精液を舐めた。
精液は海水の味に似ている。潮の匂いと弟の匂いが重なる。身体が熱くなってくる。
あの指がこの身体に触れる機会はもうないけれど。
濡れた手をティッシュペーパーで拭った。布団を被って、柔らかい感触に唇を寄せる。
弟の身体の熱、汗の匂い、髪の感触、精液の味。弟の記憶は、枕から匂いが薄れていくように消えることはないだろう。しかしそれだけだ。何程のこともない。
弟が静かに眠れるようになることだけが、今の自分の望みだった。
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