存在しない薔薇(番外編)
存在しない薔薇
その子供は離人症だった。小学校の三年生になったというが、新入生にまぎれても気づかないほどきゃしゃな子供だった。ほおやあごの骨が突出した顔立ちのなかで、水飴をかけたような目だけが異様だった。うまれたての雛の痛々しさで、子供は教師の眼前にあった。
自身に付随するイメージを数えてみる。声楽の教師、男、瓶底メガネ、ひげの先生。
その子供から想起したものは、蝋細工の人形だった。蝋に沈めた血管が、脈を刻む。流れ出した鼓動がピアノに繋がり、空気をふるわせる。
伴奏にあわせて、うたいだす。一小節うたって、子供に託す。
――あとについて歌って。
子供は沈黙している。
子供の血管は空気に繋がってはいない。
子供の母親が教師に託した言葉を思い出す。
――歌が好きな子ですから、思う存分歌わせてあげてください。
子供はうたわない。泳がない魚のように。
――すきな歌をうたってごらん。
子供は透ける唇をひらいて、高い声でうたいだした。旋律をつかまえるように空をみあげる。音程は不安定だが、艶のある音だった。
歌をおぼえていないのか、何度もおなじ旋律をくりかえす。声を出すことがたのしいらしい。子供は楽器のように鳴っていた。
教師はむきだしのオルゴールを子供に見せた。
――鳴らしてみよう。
教師はてのひらのうえでオルゴールのねじを巻いた。ライムライトの旋律が、つつましやかに流れだす。
――この箱のなかに入れてみよう。
教師は木の箱をとると、オルゴールを箱に入れた。
音が急に大きくなった。厚みを増した旋律が、部屋にひびきわたる。教師はオルゴールを止めた。子供は残響を目で追っていた。
――ひびくものがなければ、音は鳴らない。
教師は子供の耳に白い巻き貝を近づけた。子供の瞳孔が縮む。首をかたむけて、貝の旋律に耳をすましている。が、焦点はすぐにぼやけて、あいまいな光に滲んでしまう。
子供の血管はぶあつい壁に仕切られたまま、空気の存在を知らない。
――ちょっと散歩しよう。
教師は蝋細工の手を取った。
教師は子供を坂の上の教会へつれていった。
――ほんとうはここに入っちゃいけないんだけどね。牧師さんと知りあいだから、こっそり入れてもらってるんだ。
教師は古い木造の教会の裏手に出ると、緑色のフェンスの扉をあけた。
教会の裏は市の緑化推進区域になっていた。姫沙羅の林が切れると芝生の生えた空地へ出る。仲間からはぐれた桜の木が、ななめに空へそびえている。
晴れた日だった。ひらけた空地からはゆるやかにくだる住宅地がみえる。海際の幹線道路の向こう側には海がひろがっている。
耳元でごうごうと風が鳴る。
――うたってごらん。
子供は海にむかって声をはりあげた。
声は風に吹き流されて消えた。
子供は風にちぎれる歌をまったく気にしていなかった。
教師は子供を教会へつれていった。だれもいない礼拝堂の入口へ立ち、
――うたってごらん。
子供は十字架へむかって声をはりあげた。
子供の高い声は教会に朗々とひびきわたった。
壇上の花瓶の薔薇だけが子供の歌をきいていた。
濡れた薔薇は日差しを浴びて星のようにひかっていた。
子供は唇をとざすと薔薇をじっとみつめた。いつもあいまいな目をしていた子供が、はじめて興味を示したものだった。
――きれいな薔薇だね。
子供はうなずいた。ぶあつい壁に仕切られた血管に、水がながれだす。教師は子供の目を手でおおった。子供の透ける唇がきゅっとゆがむ。
――どんな薔薇だろう。うたってごらん。あかときいろのばら。
教師が節をつけてうたう。
――ことばはなくてもいいよ。
子供の唇がためらうようにふるえた。ことばにならない音を吐きだして、目をおおわれた子供はうたいはじめた。
ばらばらのいきあたりばったりの旋律をかさねては、ちいさなうなり声で止める。
子供は歌を投げ出そうとはしなかった。
空にかかれた楽譜をさがすように、手でおおわれた目を天井へ向けていた。
口をとざして肩を落とす子供から、教師はようやく手をはなした。
――きみの薔薇はあの薔薇じゃない。
壇上の薔薇をゆびさして言う。
――きみの薔薇はぼくにはわからない。
教師は子供の目の高さまでかがむと、子供の頬を両手でつつんだ。
――ぼくの手はほんとうにきみには触れていないかもしれない。
――きみがはなす言葉は、ほんとうにきみがいいたい言葉ではないかもしれない。
――でもきみの薔薇をぼくにつたえてほしいんだ。
――それがきみの歌なんだ。
教師は子供の頬から手をはなした。子供の頬に教師の熱がうつって、頬が真っ赤になっていた。子供はゆるい動作で手をあげると、自分の頬を両手でおおった。
はじめて子供は教師に焦点を合わせていた。
中学を卒業するまで、教師はその子供を見ていた。
子供が高校生になってからは、その子供とは年一回の教会の降誕祭で会うだけになっていた。
子供の離人症は、小学校の四年生のときには症状が消えていた。きゃしゃな蝋細工の人形は、過敏そうな目をしたきれいな子供になっていた。
教師が最後にその子供に会ったとき、子供は赤くふくれた目をしていた。
教会の門からは人影が消え、凍った月が、鉄筋コンクリートの箱と化した教会を照らしていた。
――すばらしかったよ。
教師は子供の歌を褒めた。今日の演目は、自身を楽器のように鳴らしていた歌だった。
子供は陰鬱な目で教師をみていた。いつのまにか目線の高さはおなじになっていた。
――意味がない。ぜんぶ。
子供はゆがむ口元を手でおおった。
――愛しても殺しても救われない。
子供の目から光があふれだした。
子供は、声をおしころして泣いていた。
子供の痛みが、浸透圧の高い水のようにつたわってくる。
その悲しみが何であるかはわからないけれど。
――それでもきみは歌うんだ。
教師は子供のうすい肩に手をおいた。
――そうするしか、ないんだ。
子供は力なく路上にうずくまると、頭を押し潰すようにかかえてふるえだした。
つめたい月の光が落ちる路上で、教師は子供のかたわらにじっと腰を下ろしていた。
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