兄の番人 10(最終)
10
目をあける。茅場はとなりのベッドで音量を絞ってTVを観ていた。
険のある表情で、茅場がおれをふりかえる。
「お母さんはあいつと別れるって」
茅場はおれのベッドに飛び上がると、おれの胸元をつかんだ。
「なんであんなことしたんだよ! 今度はうまくいくと思ったのに、おまえのせいで」
茅場はおれの首に腕をまわして抱きついてきた。頭を揺さぶられて目が回る。
茅場の振動が骨にひびいてくる。低くおしころした泣き声も。バスで泣いていた茅場を思い出す。茅場が父親のことを諦めたのはいつだったのだろう。そしていま茅場は、母親が誰かといっしょになってほしいと願っている。
「おれがいつも邪魔なんだよ」
目を赤くした茅場が顔を上げる。痛みをこらえるような顔で、茅場は泣いていた。
「いつもいいとこまでいくのに、おれがいるから……いつもだめで」
茅場の熱が頬に伝わってくる。しめった肌から石鹸の匂いがする。
「いつも子供が邪魔だって、相手のやつは思うんだ。言わなくてもわかるじゃん、そういうの」
そういう奴は、茅場のおばさんと真面目につきあっていないのではないだろうか。
「早く大人になりたい」
茅場は鼻声でぽつりといった。
「中学を出たらすぐに働くよ」
茅場の母親は茅場を本当に大事にしているんだろう。そうでなければ、茅場がここまで思いつめることはない。
馬鹿なやつだ。人のことばかりみて、自分のことはなにもみない。自分がなにを考えてるのか、なにをしたいのかもわからずに、淡いからっぽな目でおれを見ている。
星一とおなじ目をしている。
人のことはわからないと星一はいう。だけど、理月が星一を好きだということくらいはわかっているのだろう。そうでなければ、理月とあんなに静かなキスをすることはできない。自分が消えてなくなりそうなほど理月を愛することはできない。
ふたりはこんなふうにしか生きていけないんだろうか。胸が引き絞られるように痛くなる。視界がゆがんで、涙がじわりとあふれてくる。
「茅場のお母さんと話せよ」
おれはかすれた声でいった。
「おばさんは茅場のことを大事に思っているから。茅場のおばさんがそうしたいなら、させてやれよ」
「でもそれじゃ……お母さんが幸せにならない」
口元を曲げて茅場がうつむく。
「茅場の幸せがおばさんの幸せってこともあるだろ?」
茅場は不満そうに眉間にしわを寄せている。
「茅場が大人になることがおばさんの幸せなんじゃないの」
茅場は誰よりもふつうの家庭に憧れている。同じ名前の子供を作り直すこともなく、次々と恋人を作ることもない、どこにでもあるふつうの生活がこいつには似合っている。
「晴也がまともなこといってる……」
「風邪で頭がおかしくなってるからな」
朝になったら忘れてくれというと、茅場はくすぐったそうにわらった。
「俺もいま頭がおかしくなっているから、朝になったら忘れてよ」
茅場は自分の胸におれの頭を押しつけると、かすれた声でおれにいった。
「晴也のこと好き」
声の振動が額から伝わってくる。
「ごめん」
茅場がキスをする。子供が必死ですがりついてくるようなキスだった。
ぬるっとした舌が入ってくる。このままおれを食わせればこいつは満足するのだろうか。
食ってもいいよ。食われても、おれはたぶん星一みたいに消えてなくなりはしないから。
茅場はおずおずとおれから身体をはなした。
「ごめんね」
おれと目を合わせられずに、茅場はまた泣きだした。茅場に乗られた足が痺れてくる。おれは茅場にベッドから立ち上がるようにいった。
毛布をめくってベッドのシーツを叩く。おびえた表情の茅場が毛布に入ってくる。身体を硬くしておれに触らないようにする茅場を引きよせて抱きしめる。
「小学生のころ、おまえがいじめられたの覚えてる?」
茅場は毛布から顔を半分だしてうなずいた。
「先生に言いつけたのはおれじゃないんだ」
茅場がおれの腕から身体を抜いて、となりに横たわる。
「あのとき、茅場のことが邪魔だったから――このまま無視すれば、おまえから離れられると思った」
茅場が痛みをこらえるような顔でうつむいた。茅場はおれが絶対に茅場を裏切らないと思っている。その信頼が怖かった。
「おれは茅場が思ってるほどいい奴じゃないよ」
あのとき、茅場がいじめられていることを顧問に言った奴がいた。
茅場の家の事情を知っていた顧問は、部活のミーティングでそのことを取り上げるとクラブの全員を叱りつけた。その腹いせに、クラブの奴らはおれを密告の犯人に仕立て上げた。おれはしばらくクラブのだれからも相手にされなかった。だからしかたなく、茅場といっしょに組むようになったのだ。
「なんで黙っていじめられてたの?」
「茅場を庇わなかった罰だと思った」
おれは茅場を突き放すこともできなかったし、クラブの奴等に無視されるのもいやだった。水たまりに捨てられた茅場のバッシュを拾うこともなく、茅場が体育倉庫でボールをぶつけられているときも知らないふりをした。茅場をかばっていじめられるのが嫌だったからだ。
「だったらいいよ」
茅場は目を閉じていった。毛布を口元へひきあげて、おれに首をかしげる。
「でも星一さんが溺れてたときはまっさきに飛び込んでいったよね」
「そりゃ当然だろ?」
目の前で溺れかけているんだから。おれがそういうと、茅場は満足したように笑った。
「だからいいよ」
肩口に額をすりつけられる。これからよけいに茅場にくっつかれそうな気がする。松島の怒る顔が目に浮かんだ。
「おまえ、もうすこしほかの奴ともつきあえよ」
茅場は心細そうな目でおれを見上げてくる。
「もうちょっとわかりやすければ、おまえっていい奴なんだけどな」
「おれわかりにくいの?」
やっぱり自覚症状がなかったんだな……わけのわからない突発的発言とか。
「おばさんに心配かけたくないんだったら、夜中はおれの家に来ればいいし」
茅場のすこし冷えた身体を抱いて、キスをする。茅場は気持ちよさそうに目を閉じると、おれの額に額をすりつけた。
その日は茅場とおなじベッドで眠った。すこしだるさがのこっていたけれど、次の朝には熱はおさまっていた。
二日目もスキー場は快晴だった。おれは、スクールを終えた茅場たちといっしょに初心者コースを滑った。
茅場は関や羽島と騒ぎながら滑っていた。おれ以外の奴ともつきあっていくつもりらしい。馬鹿正直なやつだ。でも、茅場がそばにいないのもなんだかさびしい。
松島はゴーグルを光らせて笑みをうかべると、
「きのうのぶんを取り返すぞ」
といっておれを中級者コースのリフトへ引きずっていった。松島はおれに帰ってから倒れろという。
まだ行ってないコースを時間ぎりぎりまで制覇すると、おれたちはぐったりとして家に帰った。松島の父親は、全員車のなかで眠りどおしだったとわらった。
松島の車で家へかえってきた。家の扉を開ける。玄関には星一の靴だけがあった。六時を回っている。母親がパートから帰ってくる時間だった。
星一が自分の部屋から顔をのぞかせた。
「おかえり」
いつもと変わらない星一だった。おれはホッとして笑みを浮かべた。鏡像のように星一がわらいかえす。
「風邪はもうだいじょうぶ?」
星一はおれがスキー場で倒れたことを聞いていたらしい。
「いまは平気。滑りまくって汗ダラダラだけど」
おれが二階の廊下で星一と話していると、玄関のドアがひらく音がした。
「晴也?」
母親が玄関から硬い声でおれを呼んだ。
「ちょっと降りていらっしゃい」
母親はおれを一階の和室へ連れていった。タンスがふたつおかれた親の寝室だ。暖房の効いていない部屋の空気がつめたい。おれはいやな予感を押し殺しながら、正座した母親のまえに坐った。
母親の顔つきは一晩で変わっていた。頬がげっそりと削げたようになって、丸い目のふちには濃い隈が浮かんでいる。喪服のような黒いセーターとスカートで、母親の身体がいっそう小さくみえる。
「あなた、星一と理月のことを知っていたの?」
血液がザッと足元へ降りていくような感じがした。母親は、突き刺すような目でおれを見ると、おれのほうへにじり寄ってきた。
「――つい、最近」
「どうして言ってくれなかったの?」
「言って信じるようなこと?」
おれだって、実際に目の前で見てもなかなか信じられなかったのに。
「今日はお父さんが会社を休んで理月を病院へ連れていった。お父さんは理月を県外の高校に転校させるって言ってるわ」
「――理月は……なんて?」
耳元でドクドクと脈が鳴る。冷気に吸い取られるように、背中から力が抜けていく。
「星一をずっと……してました、って」
母親がむせるように呻いて涙を流した。
「そのせいで星一は自殺しようとしたんでしょう? どうしてお母さんたちになにも言ってくれなかったの?」
理月がそんなことをいったのだろうか。自分の過ちを一度も認めようとしなかった理月が。
星一は理月とのセックスが好きだといっていた。それが星一の自殺未遂とどうつながるのか、おれにはわからなかった。だから星一ともう一度話をするまで、おれは両親にはこのことを伏せておくつもりでいた。自分の疑問が解決するまでは。
「兄貴はなんて、いってる……?」
喉に力が入りすぎて、うまく声が出ない。母親は手の甲で涙をぬぐうと、顎をふるわせて嗚咽をもらした。
「理月の、言うとおりだ……って……」
反射的に立ち上がっていた。和室を出て、二階の階段を駆け上がっていく。
「兄貴!」
ふたりの部屋のドアをひらく。星一は理月のベッドに足を組んですわって文庫本を読んでいた。
「理月が出ていったのか?」
星一は文庫本をおくと、ゆったりとした動作でうなずいた。黒いタートルネックのセーターに、ストレートのジーンズ。これも理月からのお下がりだ。
「本当に強姦されてたのか?」
「理月がそういったから」
星一は虚空を淡い目でみつめてうなずいた。
「だから強姦されたって認めたのか?」
「理月がそうしろって」
星一は組んでいた足をそろえると、文庫本をベッドへ置いた。
「あの子は俺から離れたがっていたから」
「あんたは理月のいうことならなんでも従うのかよ!」
激しい口調で怒鳴りつけると、おれは星一の胸ぐらをつかみあげた。
星一は深い水をたたえたような目でおれを見返していた。黒い月が、みどりがかった茶色の目の奥に宿っている。瞳の焦点は揺らがない。星一はおれの言葉をなんとも思っていない。
足元が砂になって崩れ落ちていくような気がした。
おれは、ふたりの兄のことをなにもわかっていなかったのだ。
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