兄の番人 09
9
早朝の暗いうちに、おれは父親の車で学校へ送ってもらった。
正門のわきに車を止めた松島の父親にあいさつをする。松島の父親は派手なスキーウェアを着ていた。松島は赤、父親は紫。松島の父親は髭を生やした渋いおじさんだった。
「茅場来ないな」
「寝坊してるのかもよ」
濃紺のダウンジャケットを着た羽島がポータブルゲーム機から顔を上げた。部長の関は眠そうな顔で、まだ時間になってないからな、という。
道の向こうから、茅場があらわれた。黒いボストンバッグをかかえた茅場は、あまり顔色がよくなかった。
おれは最後列におさまった茅場のとなりにすわった。
茅場に挨拶する。茅場はおれをちらっと見ると、おれを無視して窓のそとへ目をやった。きのうの地下工作がバレたらしい。
車が出発した。けやき並木を北上して、市街地の高速道路へ向かう。
ふだんはぼんやりしているが、いちど怒ったら茅場は手に負えない。おれは茅場を避けるように窓の外を眺めつづけた。
スキー場はきれいに晴れ上がっていた。ゲレンデにはスキーヤーやスノーボーダーが滑る姿がみえる。
板やスキーウェアをレンタルすると、おれたちは二手に別れてスキー場へ出ていった。松島親子とおれは板をかついでコースに出て、スキーの経験がないほかの三人は、スクールの時間まで雪遊びで時間を潰す。
上級者コースにいく松島の父親と別れると、おれたちはリフトのほうへいった。貸しブーツがギプスのように固くて滑りにくい。
「おまえどこまで滑れる?」
おれがプルークだったら滑れるというと、松島に初心者だな、と鼻で笑われた。
「滑ったのずっと前だし」
スキーの経験は数回だった。父親の知りあいの別荘に遊びにいったときに、おれたち兄弟は別荘の裏手の坂でスキーを教えてもらった。
松島とふたりでリフトに乗ると、おれはゴーグルを取って足下を眺めた。青空の下に、黒い杉林と白い帯になったコースがみえる。林の青い影が、雪のうえにくっきりと落ちている。
電子音とともにリフトが到着した。おれはゴーグルをはめて松島のあとについて滑り出すと、眼下にひろがったコースをみて愕然とした。
山の中腹をカーブしていくコースでは、こぶがゴロゴロと行く手を阻んでいた。
「おれこぶ滑ったことない……」
コースの端になだらかに削れた一帯があることに気づいた。おれはストックで雪を蹴散らしながらそちらへ歩いていった。
なだらかな一帯をプルークで滑っていく。慣れてないせいか、股が痛くなってくる。
「ケツが出てるぞー」
膝を使ってこぶを飛んでいく松島に、おれはうるさい! と怒鳴りつけた。
雪に尻もちをついてしまった。松島がおれのとなりで止まる。
「この二日で特訓してやるよ」
絶対に滑れるようになってやる。松島の笑みをにらみつけながら、おれは手袋の雪を払って立ち上がった。
地獄のこぶ地帯を抜け出して初心者コースへ行くと、おれは楽に滑ることができるようになった。おれは松島にせがんで初心者用のコースを往復した。
下のロッジで休憩する。おれが缶コーヒーを飲んでいると、松島は茅場と喧嘩したのか、ときいた。
「いいかげん親離れしたほうがいいだろう、あいつも」
なんで松島が茅場のおばさんのことを知っているんだろう。疑いの目を向けるおれに、松島は、
「お前だよ、お前」
と顎をしゃくってみせた。
「あいつが俺を嫌うのはお前のせいだからな」
「茅場は身体がでかい奴は無条件で嫌いだから」
「違うって。あいつはお前に寄ってくる奴はだれでも嫌なんだよ」
まさか、とつぶやく声に、十二時のチャイムの音が重なる。
「飯食いにいこうぜ」
おれたちはゴミを捨ててスキー板をかつぐと、ラウンジの食堂へむけて歩きだした。
午後になると、おれはだんだん調子が悪くなってきた。息があがって、インナーのTシャツが汗ではりついてくる。
「もうダウンかよ」
慣れない運動に身体が痛みはじめていた。ゴーグルを押し上げてきく松島に、平気、と手をあげてみせる。
「ゴーグル取れよ」
ゴーグルを取る。ひやりとした空気とともに、汗が額からつたってくる。
「おまえ、熱があるんじゃないか?」
「うそ……」
松島にいわれたとたん、白い地面が揺れだした。おれはその場に座り込んだ。松島がおれのストックを引っ張っておれをコースのすみまで引きずっていく。
「だから俺が倒れるなって言っただろ?」
「好きで倒れてるんじゃねえよ」
ここ数日あまり物を食べていない。寒中水泳もやったしな、と思うと、おれは汗をかいていた身体が急に冷えていくのを感じた。
松島はスマートフォンで松島の父親と連絡をとっていた。
松島の父親の紫色のウェアが頂上からみえてくる。
「大丈夫か? 君」
松島の車に帰ることにする。おれは松島親子に付き添われてコースを降りた。
貸しスキーを松島に託すと、おれは暖房をきかせた車の後部座席で横になった。
つぎに目がさめたときには、車はホテルの地下駐車場へ入っていた。松島に支えられて、おれはホテルの自分の部屋へあがっていった。
部屋はあたたまっていた。あっさりしたクリーム色の部屋に、おなじ色のベッドカバーがかかったふたつのベッド、小さな机と椅子、クローゼットが置かれている。
おれはベッドに倒れ込むと布団に入った。夕飯が食べられそうかと聞いてから、松島は部屋を出ていった。
――なんで茅場が車を出さないんだ?
小学校六年生のときの記憶だ。夕方の校庭のバスケットコートでのことだった。ミーティングが終わったあとで、茅場は部員たちに囲まれていた。
――なんで茅場の当番のときに皆川が車出してんだよ。あいつかわいそうじゃねえか。
茅場はじっと黙り込んでいた。おれはそのときボールの片づけをしていた。自分の名前が呼ばれたことに気づいたが、会話には入らなかった。
――おまえん家の親、リコンしてるんだろ。
――してない。
――じゃ、なんでおまえん家の車使わないの? ボロすぎて人を乗せられないのか?
笑い声が湧いた。坂の下の家の子供は、どことなく軽蔑されている。不透明な町の空気は、子供にもしっかりと伝わっている。
――車出せないんだったら最初から言えばいいんだよ。
――理由を言ってお前が謝れば許してやったのに。
そういった奴に、茅場は飛びかかった。茅場が地面に倒れた奴の腹に拳を叩きこんでいる。
数人の手が伸びて、茅場はそいつから引きはがされた。からむ腕を払い落とすと、茅場は無言で校庭を走り去っていった。
口々に茅場をののしる集団から抜け出して、おれはボールを入れたかごを体育倉庫へしまいに行った。
これ以上茅場をかばうことはできない。そう思った。
昔の夢をみていた。時計をみる。時計の針は六時半を回っている。
ドアをノックする音がした。盆とシーツを手にした松島が入ってくる。
「生きてるか」
おう、と手をあげる。松島はベッドのわきのテーブルにお粥の碗と薬をのせた盆を置いた。
食事をしているあいだに、松島は汗でしめったシーツを取り替えてくれた。薬を飲んで寝ろというと、松島は部屋を出ていった。
茅場の絶対的な信頼が怖かった。茅場の母親と同様に、茅場はおれの悪口も絶対にいわない。おれが茅場を裏切っていたことを知ったら、あいつはどう思うだろう。
薬が効いて眠くなってきた。おれはゆっくりと目を閉じた。
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