兄の番人 08

8


 おれは、親にきのうのことを話したほうがいいか、本気で迷っていた。

 星一の自殺未遂を親が知ったら、星一と理月の関係もいずれバレてしまうだろう。

 星一と理月がセックスをしているのは、ふたりのあいだに愛情があるからか。欲望しかないのか。理月がいうように、ほんとうに飽きたらやめるつもりなんだろうか。

 星一の自殺未遂の理由は何なのか。

 一晩では考えきれず、おれは頭がパンクしそうだった。


 おれは朝食を食べおわると、バスケットの朝練には行かずにふたりの部屋へあがっていった。

 理月はまだベッドで眠っていた。小声でおれの部屋に来てというと、睨みつけてくる理月を無視して部屋を出ていく。

 自分の部屋に戻る。すぐに理月が髪をかきあげながら部屋へ入ってくる。

「星一が自殺しようとしたのは、あんたのせいか?」

「何だって?」

「海で溺れようとした」

 理月はおれのベッドにもたれて腰をおろすと、両手を床にひろげて憎々しげに吐き捨てた。

「死ねばよかったのに」

 おれは理月の肩を蹴りつけた。理月が床に倒れ込んで、射るようなまなざしでおれを見上げる。

「兄貴をやり殺すつもりか? それでまたべつの奴をやり殺すのか? いいかげんにしろよ」

 肩をさすりながら、理月がのろのろと身体を起こす。

「おまえは何も知らねえんだよ。自分が正しければ何を言ってもいいと思ってやがる。自分で知ろうともしなかったくせにな」

「知られたらヤバいのはおまえだろ? 兄貴が死んだら、おれはあんたを強姦殺人で訴えてやる」

「やれよ。間違ってはいないからな」

 理月が自分で強姦を認めたのははじめてだった。

「おまえは自分の兄貴のことをすこしは知っているかもしれない。でも星一のことは知らないし知ろうともしなかった。それが昨日ようやくわかったんだろ? わかっても無駄かもしれないけどな」

 理月は、星一を連れてくるといって部屋を出ていった。

 背後に星一をともなっておれの部屋へはいってくると、理月は星一の顎をもちあげた。星一の前髪がゆれる。

 理月がキスをすると、星一はゆっくりとまぶたを落とした。

 おれの存在など目に入っていないように。

「死ななくていい」

 言葉を口移しにする。ちいさな水音とともに、ふたりの顔がはなれた。

 星一は目に陰をおとしてひっそりとわらった。

「わかった」

「これでいいだろ?」

 おれに放りだすようにいうと、理月は部屋を出ていった。はじめておれに気づいたように、星一がまばたきをする。

「おはよう」

「――はよ」

 ふたりのキスシーンをみたのは二度目だった。一回目は嫌がらせのキスだったが、今回は淡々とした日常のキスだった。おれに見られてもなんとも思っていないようだ。こいつらの神経はいったいどうなっているのだろう。

「兄貴は理月のことが好きなの?」

「好きってどういうこと?」

「理月のことをいつも考えてるとか、セックスするのがたのしいとか――」

「俺はなにも考えていないけど」

 星一はシンプルにいった。

「理月とセックスをするのは好きだよ」


 終業式のあとで通信簿をもらうと、午前中で授業が終わった。

 午後のバスケットの練習にも熱が入らなかった。寝ていないせいか、連続でダッシュすると頭がフラフラする。

「あれからどうなった?」

 ゾーンディフェンスの練習のあとで、茅場にきかれた。茅場に朝のことを説明する。

「茅場のおばさんのスナックってどこ?」

 唐突な質問に、茅場はきょとんとしながら答えた。

「宿木のSAGA WORLD のとなりだけど」

 SAGA WORLD はゲームセンターだ。そこならおれも知っていた。おれはひとりでスナックへ行くつもりでいた。

 きのうの茅場のことも、落ち込む原因のひとつだった。ギリギリまで追いつめられなければ、茅場は自分が悩んでいるということに気づかない。だから、気づいたときにはいつも手遅れになってしまう。

 なぜおれのまわりにはそんな人間しかいないのだろう。おれは、そのことが歯がゆくてならなかった。


 夕食のときに家にかえっていたのは、母親だけだった。おれは食事をなんとか腹に押し込んだ。

「晴也、コートどうしたの?」

 夕食の後片づけをしながら母親がきく。

「きのう兄貴と海に落ちて、兄貴がクリーニングに出してる」

 母親は皿を洗う手をとめて、おどろいた顔でおれをふりかえった。

「兄貴をまきこんでコケちゃってさ」

「なにやってるの。風邪引いてない?」

「おれは平気だけど、兄貴は調子悪そうだから、よくみてて」

 いまのおれにはこれしかいえなかった。星一が約束を守ってくれることを信じるしかなかった。


 夕食後、おれは家を出ると茅場の母親のスナックへ行った。

 三階建てのビルの一階に、茅場のいっていたスナックがあった。紫色のプラスチックの看板に、黒いゴテゴテした木の扉がひとつ。おれはドアをあけると、ベルの音とともに店内へ入っていった。

 茅場のおばさんはカウンターのいちばん奥の席で雑誌をひらいていた。

「こんばんわ。きのうは大変だったわね」

 大きな口をあけて、茅場のおばさんは白い歯をみせた。おおきな目に、青っぽい灰色のコンタクトがはまっている。

「いつも正が晴ちゃんの家にお世話になってて、ごめんなさいね。いつも晴ちゃんのママにはご挨拶しなきゃ、と思ってるんだけどねぇ」

「茅場うちには来てませんよ」

 おばさんが目をみひらいた。コンタクトが、金属のようなするどい光をはじく。

「あいつおれの家にはあまり来ないんですよ。あんまり好きじゃないらしくて」

 茅場がおれの家をきらうのは、茅場とおれの家の位置関係が原因だった。

 このあたりは、坂の上の海が見わたせる区域が一等地になっている。だから、ここに住む人間は、坂の下の団地の住人を微妙に差別している。おれは母親に、そういうことは住んでいる人間とは関係ないのだといわれている。

「じゃ、あの子どこ行ってんの?」

「おれもよく知らないです」

 やはり、茅場のおばさんが茅場を追い出しているわけではなく、茅場が自分で家を出ているらしい。

「夜中にひとりでほっとく、っていうのも不用心だとは思ってたんだよねぇ。だから、晴ちゃん家に行ってるって聞いて安心してたんだけど」

「あいつはおれにそういうこと言わないんで、わからないんですよ」

「正に気を遣わせたかもしれないな」

 茅場のおばさんは棚の奥のシンクにもたれながら、口元をひきむすんでわらった。

「わかった。晴ちゃんも、気を遣ってくれてありがとうね」

「あいつにおれが来たことを知らせないでください。あいつ、おれにそういうところを見せないから」

「武士の情けだねぇ」

 茅場のおばさんは白い歯をみせてわらった。


 星一はリビングで母親といっしょにTVを観ていた。

 星一を手招きしておれの部屋へあがる。星一は、壁にかかっている父親のスキーウェアをみると、旅行の準備はどう、ときいた。

「あとは兄貴のことだけだよ」

 星一はおれのベッドへ腰を下ろすと、もうしないよ、とゆったりとわらった。

「理月がしなくていいっていったからか?」

「そうだね」

「そういうの自分でおかしいって思わないの?」

 星一は口元を覆って言いよどむと、もともと自分にはあまり人間の常識がないのだといった。

「あんたはおれが知ってるなかでいちばん常識的な人間だけど?」

「偽装するのは得意なんだ」

「じゃ、あんたはずっと嘘をついてるのか」

「人間が考えていることはよくわからないから」

 おれをまっすぐに見上げるやさしげな顔が、昆虫のようにみえてくる。おれはくせっ毛をかきまわしながら学習机の椅子にすわると足を組んだ。

「とにかくおれは、兄貴が二日間死なないでいてくれれば、それでいいよ」

「うん」

「あんたに死にたくなるほど辛いことや悲しいことがなければいいよ」

「うん」

「あんた『うん』しか言えないの?」

 星一はおれの言葉に封印されたように動きを止めた。

「理月のことが好きなの?」

 長めの前髪をはらって、星一はわからない、と首を横に振る。

「じゃ、兄貴にとって理月ってなんだよ」

「もしこの世界に自分ともうひとりの人間しかいないとしたら、晴也はその相手のことをなんて呼ぶ?」

「相手による」

「俺にとってはそれが理月だったし、理月にとってはそれが俺だった。それをどう呼ぶか俺にもわからない」

「じゃ、あんたの世界には人間が理月しかいないのか?」

 いや、と星一は首を横に振った。

「『人間じゃない』人間が、といえばいいかな」

 わからない。茅場以上の電波が入っている。こいつは頭のなかで小人さんでも飼っているのだろうか。

「兄貴がそう思い込んでるだけじゃないの?」

「そうかもしれないね」

「あんたのいうことって信用できない……」

 おれが椅子の背中をだいて脱力する。

「俺もよくわからないんだ」

 星一は軽い笑い声をあげた。

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