兄の番人 07

7


「あれ」

 コンビニのイートインの座席で、茅場は漫画から顔をあげてわらった。

「教会おわったの?」

 茅場は、食べ終わったケーキの銀紙をテーブルにちらかしていた。

 星一はテーブルに二本のお茶のペットボトルをおくと、先に帰るといってコンビニを出ていった。

「茅場、最近夜にどこへ行ってるんだ?」

「星一さんどこか行くの? 宿木のほうにあるいていったけど」

 腹のなかで何かが切れた。家に帰るといったのに、どこに行くつもりなんだよ。

「行くぞ、茅場!」

 おれはケーキの残骸をごみ箱につっこむと茅場の腕をつかんだ。茅場はあたふたとお茶をコートのポケットに押し込んでいる。

「尾行すんのに茶なんかもってくな!」

「もったいないじゃん!」

 おれたちはコンビニを出ると、T字路の横断歩道を渡っていった。

 幹線道路の向かいには、防砂林の松林が植えられている。

 50メートルほどまえに、黒い人影がみえた。星一にまかれないように距離を詰めながら、おれたちは影を追いかけていった。

 人影は防波堤で立ち止まった。影が防波堤の階段に飲み込まれるように消えていく。

 なにか落ちてる、と茅場が歩道の地面をゆびさす。黒い染みのようなものがコンクリートの歩道についている。

「兄貴のコート」

 おれは防波堤の階段から海をみた。静かな水音に、不協和音が重なる。

 星一が海へ入っていく。

「兄貴!」

 おれは階段をかけおりて、コートとマフラーを脱ぎ捨てた。茅場にここにいろ、と叫ぶと、おれは腰の高さまでせまる波をかきわけて海へ入っていった。

 星一は十メートル先をあるいていた。星一の胸の高さまで海水がせまっている。大きな波がくれば、星一は波に飲み込まれてしまう。

「星一!!」

 聞こえているはずなのに、星一はふりかえらない。アーチのような灰色の波が、おれを岸に押し戻そうとする。

「もどってこいよ、兄貴!」

 おれは力をこめて砂を蹴ると、波にさからって進みはじめた。

「戻るんだ」

 星一は波を背後に背負って、おれに岸を指し示した。

「おぼれるよ、晴也」

 星一の背後で波がくだける。冷たい闇が目の前にせりあがってくる。激しい衝撃が襲いかかる。

 喉からゲホッと空気がわきあがる。いやだ。死にたくない。いくらもがいても、足が底につかない。

 おれは鉤のように曲げた腕をのばして、波をかいた。

 なにも手がとどかない真空を。

 頭がぼうっとかすんでくる。恐怖が急にうすれていく。

 背中から波がわきあがった。

 おれの首を抱いて、星一がおれを水面に浮かび上がらせた。咳をしながら、夢中で星一にしがみつく。

「大丈夫?」

 おれは、痛むように冷える頬をおさえながら、ぎこちなくうなずいた。

 ようやく足が海底につくところまで戻ってきた。おれは、海底に足をつけると、ガクガクとふるえる膝を手でささえた。

 口に水が入ってくる。

「しょっぱい!」

 目をみはっていた星一は、身体をちぢめると、おれとおなじように水を飲んだ。

「ほんとだ。しょっぱい」

 星一が声をあげてわらう。顔を見合わせて笑いかけて、おれはハッと真顔に戻った。

 どうしておれたちはこんなところで和んでいるんだ。

 こいつはいま自殺しかけていたんじゃなかったか?

 波をかきわけて歩いてくると、茅場はおれをうしろから抱きしめた。

「死ぬんだったらひとりで死んでよ。晴也まで連れていくな!」

 茅場はぐしゃぐしゃに泣いていた。そのままおれを海岸へ引きずっていく。そしておれを前から抱え直すと、ぎゅっと抱きしめた。

 おれの肩にもたれて茅場が泣く。

 砂浜に散らばったコートとマフラーを拾い上げると、星一は頭を下げておれたちにあやまった。

「ごめんね」

「なにがごめんなんだよ」

 水が首筋から背中をつたう。全身に鳥肌が立つ。

「なんで死ぬんだよ、おまえ死ぬために海にきたのかよ! いったいなに考えてんだよ――ぜんぜんわかんねえよ」

 恐怖がドッとおしよせてきた。身体がガタガタとふるえて、おれは茅場の身体にすがりついていた。

 何事もなかったように髪から水をはらう星一の姿が不気味だった。連続殺人鬼に出会ったような怖さだった。

 突然自殺しようとしたのに、つぎの瞬間には笑っている。

「家で風呂にはいって帰ろう」

 茅場に助けてもらってダッフルコートに腕を通す。おれは自分の身体を抱いて、ガチガチと歯をふるわせていた。

 茅場がおれの首にマフラーを巻いてくれる。首の寒さがゆっくりやわらいでいく。

 コートを着た星一とおれに、茅場はさっき星一が買ってきたお茶のペットボトルを渡した。おれはお茶をひとくち飲んだ。

「うまい」

「もってきて正解」

 おれたちのやりとりを、星一は目を細めてふりかえっている。その静けさが不気味だった。星一はもういちど死のうとしているのではないだろうか。

 それともおれたちがいるのを知っていて、自殺するふりをしていたのか。

 茅場の家まで歩きながら、おれは星一の背中から目を離せずにいた。


 コンクリートの県営団地にある茅場の家は、団地の隅の一階にあった。おれたちは家のまえですこしだけ待たされた。鉄製のドアがひらいて、茅場が顔を見せる。

「お風呂湧いてるから、どっちが先に入る?」

「兄貴入れよ。おれは大丈夫だから」

 強い口調でいうと、星一はおれに礼をいって風呂場へ消えた。自殺しかけていた人間にしては、異様に淡々としたしぐさだった。

「おばさんは?」

 茅場は唇に人差指をあてた。玄関で靴を確認する。ほそい女物の靴のわきに、黒い男物の革靴があった。

 おれは服を着替えて頭にバスタオルをかけると、おじゃましますとつぶやいて居間へあがっていった。

 居間にはこたつと、クリスマスの残骸があった。一本のワインの瓶と、ふたつのグラス、クリスマスケーキ。

 茅場も服を着替えてきた。こたつに入るとおれは小声で茅場にきいた。

「もうひとりいるんだろう?」

 茅場は気まずそうに口を閉ざしていた。

「おまえのパンツを穿いていった男だろ?」

 クリスマスイブに子供を追い出して、恋人と会っている母親なんて最低だ。

 おれは茅場に手招きすると、ホットカーペットの床に横になった。茅場もおれの横にならんで転がる。茅場の目はトロンとしている。

「おまえ、あいつのせいで家を追い出されたんじゃないか?」

 茅場はぼんやりした目のままで、ゆっくりとかぶりをふった。

「俺が家を出てるの」

「なんで?」

「だって邪魔じゃん」

 タオルをかぶった星一が風呂からあがってくる。

 おれは眠りかけている茅場を起こさないようにそっと立ち上がった。星一のあとにつづいて、バスタオルを手に風呂へ入る。

 あたたかい湯船のなかで、おれは落ち着かない気分で目を閉じた。

 人に優しくして、どんどん自分を空っぽにしていく。茅場と星一はおなじ目をしている。

 そうして自分のなかに何もなくなったら、茅場も星一みたいにあっさりと消えてしまおうとするんだろうか。あのドロリとした闇に飲み込まれて。

 おれは身体をふるわせて目をひらいた。星一が自殺しようとしたことが非現実的すぎて怖くなる。

 おれは何もできない自分をもてあましていた。


 県営団地を出ると、おれは星一とふたりで元来た道を戻っていった。海沿いの幹線道路には、深夜でもまだ車の往来がある。

「自殺したのは理月のせいか?」

 星一は目線を遠くしたまま、しずかに首を横に振った。

「あの子のせいじゃないよ」

「じゃあ、なんだよ」

 星一はこたえなかった。おれもこたえを急かさなかった。

 T字路の交差点へ出た。マウンテンバイクをとりにいくと、バイクをひいて星一といっしょにケヤキ並木をあがっていく。

「晴也は死んでみたいと思ったことがある?」

 星一は不吉なことをきいた。おれが首を横に振ると、星一は白い息を吐きながら、そうだよね、といった。

「理月も俺がわからないって言っていた。俺も理月のことはよくわからない。だから、愛想をつかされたんだよ」

「あんたがわかってないのは理月じゃない」

 あんたがわかってないのは自分のことだ。おれがそういうと、星一は思いに沈むように口を閉ざしてから、そうかもしれないね、と目元をやわらげた。

「あんたほんとは死にたくないんだよ。だからおれがついてきても止めなかった」

「そうかな」

「ほんとに死にたいと思っている奴が、死んでみたいなんて思わないよ」

 詐欺師になったような気分だった。でも、両親や理月、星一の友達、将来の恋人、そういう人間のために、星一をここで死なせるわけにはいかなかった。

「兄貴は自分のことがわかってない。だから、自分がなにをしたいのかわかるまでは、あんたは死んじゃいけないんだ」

 おれの言葉が星一に届いているかどうかなんてわからない。それでもおれは何度も星一に死ぬなというしかなかった。

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