兄の番人 06

6


 こんなふうにわけがわからないまま、だれかを追ったことがある。

 教会の門をぬけて中学校の裏へ出た。自転車乗り場へマウンテンバイクを取りにいく。

 あのときは茅場だった。あのとき、茅場がこのまま戻らないような気がした。だから、茅場のあとについてバスに乗ったのだ。

 理月は星一が海にいるといっていた。どうして海なんだろう。理月が教会でうたった歌のせいだろうか。

 裏門から学校を出ると、ケヤキ並木をめざして走っていく。

 小学校五年生のころ、茅場はケヤキ並木から市街地へ出るバスにのって、父親の家にいった。

 地区予選の寸前の土曜日のことだった。学外でバスケットの試合があるときは、父兄が交代で車を出して生徒たちを送っていく。そのときは茅場に車の当番が回ってきていた。

 部活を終えると、茅場は行くところがあるといって、バス停のまえでおれに別れを告げた。

 そのとき、茅場は夏でもないのに額に汗をかいていた。いやな予感がする。おれは茅場にいっしょに行くと告げて、バス停のベンチへ腰を下ろした。

 おれたちは山の手の住宅街へたどりついた。茅場は迷いのない足取りで住宅街をあるくと、ある家のまえで足を止めた。

 茅場。表札にはそう書かれていた。表札にかかれた家族の名前をみて、顔が強ばる。

 ――おれじゃないよ。

 茅場は淡々といった。

 ――おれの弟の名前。

 茅場は表札の下の呼び鈴に手をのばした。

 ――茅場。やめろ。

 ドアの向こう側から、子供の笑い声がする。

 茅場はドアへ目を向けたまま凍りつくと、はじかれたように家のまえから走り出した。

 茅場のあとを追った。茅場は角を曲がったところで立ち止まっていた。肩をおとした茅場の身体が、こきざみにふるえている。

 おれはそのときはじめて、茅場の両親が離婚していたことを知った。そして、茅場の母親が、父親の姓をそのまま名乗っていたことも。

 ――お母さんには内緒にして。

 帰りのバスで、茅場はひっそりとつぶやいた。三年間、茅場は父親が自分たちのもとへ帰ってくるのを待っていた。でも、茅場の父親には、もうひとつの家族がある。茅場とおなじ名前の子どももいる。

 明日のバスケットの試合はどうするのだろう。茅場は当然のように車の当番を引き受けていたが、茅場の母親は免許をもっていない。茅場は父親に車を出してほしいと頼みに行ったのではないだろうか。おれは茅場の意図にようやく気づいた。

 ――バスケの迎えは、うちの親に頼んでみる。どうせ日曜日はひまだからさ。

 茅場は驚いていた。そして、かすかにわらうと、おれに凭れかかって泣きはじめた。

 それ以来、茅場が部活の車の当番になったときは、おれの父親が車を出すことになった。

 それがあとでいじめの原因になるなんて、当時のおれには予想もつかないことだった。


 家に明かりはついていなかった。玄関に星一の靴がないことを確認すると、おれはふたたびマウンテンバイクに乗って星一を捜しにいった。

 星一はどこにいるんだろう。理月は海にいるといっていたが、坂を下りればこのあたりはぜんぶ海なのだ。

 おれはようやく前をあるく人影をみつけた。ダークグレーのコートの背中だった。

「兄貴!」

 おれはマウンテンバイクをおりると、速足であるく星一のとなりへ並んだ。

「どこいくんだよっ」

「散歩」

 淡い緑色のマフラーに顔を埋めた、うすぐらい星一の顔は、目をひらいた死人のようだった。

「晴也、はやく帰ったほうがいいよ。寒いだろう?」

 星一が強引になにかをしようとすることはほとんどない。おれはすこし距離をあけると、マウンテンバイクをひいて星一のあとへついていった。

 星一は幹線道路と交わるT字路の信号でたちどまった。

 幹線道路の向こう側の海は闇になっている。ひときわ明るいオレンジ色の漁の火がみえる。

 角のコンビニから光がもれている。茅場がおれにプリンソフトを食べさせようとしたコンビニだ。

 信号が青になった。おれたちは横断歩道をわたるとT字路のつきあたりの防波堤にたどりついた。

 おれはマウンテンバイクを防波堤のわきに停めた。

 防波堤の切れ目からコンクリートの階段が海へのびている。短い砂浜のむこうは海だ。内海だから波は静かだけど、右手につづく半島のさきを抜ければすぐに外洋になる。

 半島の向こう側から、灯台の光が走った。放射状にひろがる光だけがみえる。

 星一は首に巻いていたマフラーをはずしておれにくれた。星一の熱がかすかにのこっているマフラーを首にかける。

 空はきれいに晴れ上がっていた。オリオン座がくっきりとみえる。

 星一はのびあがるようにして星に見入っていた。そうして祈るように目をとじると、ゆっくりと瞼をひらいて海のむこうへ視線を走らせた。

「もう理月とつきあうの、やめろよ」

 星一はまばたきをして、おれのほうをふりかえった。

「どうして?」

「いやじゃないの?」

 理月に――されるのが。

 言えるかそんなこと。うつむいてボコボコしたアスファルトを蹴った。

「理月は、いやだって言ってた?」

「もうたくさんだ、って」

「そう」

 星一は思いに沈むように目を閉ざした。

 ここにいるのは異質な生き物だった。性器がふたつある生き物。星一は理月とセックスすることをなんとも思っていない。

「ほんとに理月とやりたかったのか? あんた見てるとイライラするんだよ。ぜんぶ人のいいなりで。あんたほんとに自分がしたいことがわかっているのかよ!」

 星一は、理月のいうことをなんでも聞いていた。右の頬を殴られたら左の頬を差し出すだろう。そうして死ぬまで殴られるのだろうか。

 ほんとうは、イライラするんじゃなくて、かなしくなる。そして怖くなる。ここにいるのに、星一はどこにもいない。

「――オーロラが見たい、かな」

 視界を邪魔する前髪をはらいながら、星一は見えない灯台からあふれる光をたどっていた。

「どこで?」

「アラスカ」

 肩の力が抜けた。いかにも星一らしい、かわいい欲望だ。理月のひざのうえにいるよりもよほど似合っている。

「行けよアラスカ。兄貴金はあるんだろう?」

 星一には自分のことがなにも見えていないんだろう。ひとの姿はちゃんと見えるのに、自分の姿だけは透明人間になっている。

「あんたは何だってできるしどこにでも行けるんだ。理月のいいなりになってる必要なんかないよ」

 なにもかも赦しているような、ふしぎなおだやかさで、星一は笑みをうかべた。

「そうかもしれないね」

「そうだよ。あんたは自分からやりたいと思わなきゃ、理月とやっちゃだめだ」

 星一は、おれが理月とのセックスのことを知っているとわかっても、まったく表情を変えなかった。

「俺たちのこと、いやじゃないの?」

「いやだけどさ」

 いまは星一の欲望の話をしているから、とおれがいうと、星一は目に陰を落としてかすかにうなずいた。

 強い風が吹いてきた。おれは両腕をかかえて身震いをした。それに気づいた星一が、コンビニへ行くけど、なにか買う? と聞いた。

 星一に熱いお茶をたのむ。おれは横断歩道をわたっていく星一の後ろ姿を見送った。

 外のつめたさが気持ちよかった。よごれきったレースの縁みたいな波が、しずかに押し寄せている。

 袋をさげてコンビニから出てくると、星一はおれを手招きした。

「茅場くんがいるよ」

 こんな時間になにをやっているんだろう。おれは防波堤に立てかけていたマウンテンバイクを押しながら、コンビニへ向かっていった。

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