兄の番人 05

5


 おれはくすぶった思いをかかえたままクリスマスイブを迎えていた。

 星一が拾ってきたツリーはもうない。三年前からうちにクリスマスツリーは飾られていない。

 昼に母親が頼んだケーキを店に取りにいって、夕方に家族でクリスマスの礼拝にいくのが今日の予定だった。うちは無宗教だけど、小学生のときまでは三人とも教会の日曜学校に通わされていた。

 理月がクリスマス礼拝で賛美歌を歌うようになったのは、中学生のときからだった。いまは理月の高校のボランティア活動として、ミニコンサートと降誕劇が行われる。


 理月が離人症だったころの話だ。

 そのころの理月は、周囲の人間やものにまったく興味を示さなかった。が、理月が小三のとき、唯一反応をみせたのは母親が買ってきたCDだった。

 リビングで、CDの歌声にあわせて理月がうたっていた。女性のうたう高い声。オペラのようなその声に、理月はひたすら目を凝らしておなじ声をあげていた。

 母親は理月を音楽教室へ連れていった。ほとんどしゃべらない理月が、声楽の個人レッスンではちゃんと声を出して歌ったという。

 母親は、ヘレン・ケラーが水の意味に気づいたように、理月の世界が歌で変わると信じていたらしい。

 でも理月に「WATER」という瞬間が訪れることはなく、理月は、その一年後に空を飛んで壊れてしまうんだけど。

 いまでもほんとうに理月がこの世界に戻ってきたかどうかわかりはしない。


 おれたちは父親の車にのって教会へ向かった。

 教会の信徒席は、家族連れや理月の高校の生徒たちで埋まっていた。うしろから三番目の右端の席に星一とならんで腰を下ろす。

 前の席のおばさんはマフラーと手袋の完全武装で、ここに慣れていない生徒たちは高校のコートを着込んで身体をちぢめている。

 寒さの原因は正面の十字架だった。

 コンクリートの壁全体に刻まれた巨大な十字架は、黒い空洞になっている。十字型に切り取られた空の高いところに砂粒のような星がひかっている。

 牧師さんが姿をあらわして、クリスマス礼拝をはじめた。あいかわらず、黒いダウンジャケットにオレンジ色のマフラー姿で、四十くらいのおだやかな顔をした人だ。目元がやわらかいところが星一に似ている。

 最初に主の祈りがあって、おれたちは手許のパンフレットをみながら牧師さんのあとについて祈りの言葉を唱えた。

 牧師さんの説教がはじまった。今日の話は、この教会の十字架の由来だった。

 キリスト教が迫害されていたころ、教会に十字架はかかっていなかった。そのときは魚の絵がキリストを意味していた。

 日本にも十字架のない教会があって、牧師さんはその教えに感嘆してこのような建物をつくったのだという。

「我々は十字架の意義についてあまりにも語りすぎている。それでいて、いまだに生きている十字架に会わない」

 星一は澄んだ顔で牧師さんの話に聞き入っていた。強姦されつづけている人間ならば、すこしは顔にそれがあらわれているのではないだろうか。

 星一はゆっくりとまばたきをしておれをふりかえった。

 目に陰をうかべてひっそりとわらう。とても秘密をおしころした人間とは思えない、しんとした静けさだ。

 最後に献金をして礼拝がおわる。

 キリストの降誕劇のあとで、ミニコンサートがはじまった。

 拍手とともに、天使の羽根を背負った理月があらわれる。受胎告知の天使が背負っていた羽根で、理月にはちょっと小さめだ。

 白いタートルネックのセーターのうえに、シーツみたいな布地をはおって、うすいガーゼみたいな布で腰の部分を覆っている。

 オルガンの伴奏とともに、理月は「きよしこの夜」をうたいだした。

 理月の声は澄みきってはいない。ちょっとにごった、やわらかい感じがする。

 曲がおわると、天使の格好をした高校生たちが入ってきた。男がふたり、女がひとり、理月を囲むようにしてならぶ。中央の小柄な猫みたいな女の子が、ちいさな笛を吹いて音合わせをする。

 アカペラで四人はDreams come trueの「Winter Song」をうたいはじめた。

 リードボーカルは女の子だった。理月はコーラス、左端のひょろりとした白い顔の男がベース、右端の四角い濃い顔の男がリズムを取っている。

 やわらかく溶け合ったハーモニーで、四人はあたたかい感じのする「Winter Song」をうたいあげた。

 三曲目は「ジングルベル」だった。跳ねるような鈴の音に、手拍子が重なる。理月も鈴を打ちながら、仲間と顔を見合わせてわらっている。

 四曲目はふたたび理月がひとりで壇上に立った。プレハブに引っ込んだリードボーカルの女の子が、マイクを手にふたたびあらわれる。

「曲目を変更します。マドリガルの「蜜と蜜蜂」から、マドレデウスの「海と旋律」」

 オルガンの伴奏が鳴りはじめた。くだける波をすすんでいくような旋律。

 どこの言葉かわからない、澄んだ響きの音だった。声の張りが違う。凍りつくような硬い高音だった。

 目を閉じた理月の苦しむような、快感にあえぐような顔。ものすごくよわいものを剥き出しにした歌い方だった。はりつめた声の響きに、かすかにざわめいていた会場が静まりかえる。

 狂気のようなひたむきさで、理月は残響のこだまする空間に何度も旋律を重ねていた。

 透明なナイフを突き刺すように、理月はうたう。

 声をふりしぼっても届かないとでもいうように。

 世界中に響きわたっても、自分の声が聞こえないとでもいうように。

 黒い、巨大な十字架を背負って。

 呪われた天使のように。

 空気が動いた。

 母親になにかつぶやくと、星一が席を立っておれの目の前を通りすぎていった。足早に出口へ向かうと、星一は教会の扉をあけて教会をでていった。

「兄貴どうしたの?」

 おしころした声できく。母親をふりかえっておどろいた。母親は丸い目に涙をうかべている。

「気分が悪いから帰るって」

 こっそりと耳打ちして、母親は照れたようにわらった。理月の歌に感動しているらしい。父親もかすかに目のふちを光らせている。

「こんなに上手くなったんだ」

 うれしさをおさえるように母親は口元を引き結んだ。

「あのときはあんなに下手だったのに」

 おれはようやく気づいた。これは理月がはじめて歌った歌だ。

 最後のビブラートがかすかな残響をのこして消える。伴奏がおわると、一瞬、真空のような空白が訪れた。

 理月がおれの顔をみる。

 おれのとなりの空席を。

 大きな歓声とともに拍手がわきあがった。

 理月は一礼すると、倒れ込むような足取りでプレハブへもどっていった。

 拍手は手拍子に変わっていた。アンコールの手拍子が教会にひびきわたる。

 リードボーカルの女の子がマイクを持ってあらわれた。歌い手の調子が悪いので、アンコールはできないという。女の子はほかのメンバーとともに、「もろびとこぞりて」を歌いますといった。

「パンフレットに歌詞が載ってますから、皆さんもご起立して歌ってください」

 オルガンの前奏がはじまると、全員が立ち上がる。おれはそれにまぎれてプレハブのほうへ走っていった。

 プレハブの部屋のまんなかに、羽根がおちていた。

 雪みたいに理月がとけて、羽根だけがのこったように。

 雑然と劇の道具が積まれた部屋を通りぬけて、トイレのドアノブをひねった。開かない。

「どうしたんだよ、理月っ」

 トイレの木のドアを何度も叩く。返事はなかった。部屋の外から「もろびとこぞりて」の歌声がきこえる。

「兄貴は調子悪いからさきに帰ったんだよ。理月も気分が悪いのか?」

 やはり返事はない。トイレのドアからはまったく気配が洩れない。

「さっきの歌すごかった」

 おれが理月を褒めることなんてこのさき絶対にないだろう。

「めちゃくちゃキた」

 理月はトイレで溺死したように静かだった。星一が途中で教会を出ていったのがショックだったのか。そんなことで傷つくのは愚かだ。星一だってきっと、理月の歌のすごさはわかっている。

 「もろびとこぞりて」が終わりかけたころ、理月がようやく扉の向こうから声を発した。

「もういい」

 おそろしく低い、かすれた声で。

「もう、たくさんだ」

 暗い穴の底からひびくような声だった。

「星一にそう言えよ」

 理月はトイレのドアに身体を打ちつけたようだった。はげしい音とともにドアが揺れる。

「海に行ったら、そう伝えろ」

「海?」

「あいつは海にいるから」

 歌がおわった。理月の仲間たちがこちらを窺いながら部屋へ入ってくる。

 おれは謎をもてあまして、トイレのドアを拳で殴った。

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