兄の番人 04

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 星一と父親は仲がよかった。作家志望の父は、二階の書斎を本で埋めて、雑誌へ投稿する小説の原稿を書いていた。叶わない恋愛の話ばかり書いているという。

 母親は、父親の書くものは難しくてつまらないといっていた。星一はよく父親の本棚から本を借りて読んでいたから、父親の小説もときどき読んでいたらしい。


 父のもうひとつの趣味は、星の写真を撮ることだった。

 星一は小学校六年生のころに天体望遠鏡とデジタルカメラを買った。それで割れてしまった貯金箱の中身を遣いはたした。

 星一と父親はそれをもって観月会に行ったり星の写真を撮りに行ったりしていたけれど、父親が忙しくなってからはそれもしなくなった。

 星一はおれに『金を遣え』といわれたからそれを買ったのではないだろうか。

 金がかかるものだったら何でもよかったのではないかという気がする。


 十二月二十二日。きょうは土曜日だった。祝日が日曜日になるせいで、二十四日は振替休日になる。

 二十四日は、家族そろって教会のクリスマスの礼拝に行く日だ。

 しかも一年にいちどしか聞かない理月の歌を聞きにいく日でもある。今年ほど理月の天使の扮装を見たくない年はないというのに。

 それでもあと二日学校へ行けば、スキー旅行が待っている。おれは母親につくってもらった弁当を手に学校へ行った。


 バスケットの朝練を終えて教室へいくと、となりの席の安西が星一のことをきいてきた。

「あのひとだれ? お兄さん?」

 早退するおれの荷物をとりにきた星一と顔を合わせたらしい。おれがうなずくと、安西は髪を揺らしてわらった。

「あんなお兄さんほしいなー、すっごく優しそう」

 星一の話をしているうちに、チャイムが鳴った。担任の山中先生の四角い顔が教室のドアから覗いた。

 ホームルームの連絡事項を聞き流しながら、おれは机のうえで指を組んでいた。

 小学校のころから、おれは皆川の弟といわれつづけていた。

 先生からは優等生の星一の弟といわれ、女の子からはかっこいい理月の弟といわれる。

 理月と較べられたおかげで、おれは女性にあまり夢をもっていなかった。

 茅場も恋愛の話があまり好きではないようだった。家の事情を知っているだけに、おれは茅場とそういう話をほとんどしたことがなかった。

 茅場はいいたくないことをぜったいにいわない。だから、きのうの茅場のパンツ発言も深く突っ込みはしなかった。茅場が言い出すまで待つだけだ。

 山中先生に呼ばれて、おれは顔を上げた。

「休み時間に保健室に行くように」

 病院に行かなかったことを謝らなければならない。おれは山中先生にはい、と返事をした。


 一時間目がおわった休み時間に、保健室を訪れた。

 保健の春山先生は、三十才くらいのやせた女の先生だった。ふちなしの眼鏡をかけて、黒髪をうしろで束ねている。きつい一重の目が、事情を説明するおれを見つめている。

「ちょっと君のお家のことを聞くけど、君の家はわりと厳しいほう?」

「ふつうです」

「親御さんに叩かれたりする?」

「しません」

「薬をもらいにきたのは、成長痛のせいなのね?」

 おれは深々とうなずいた。

「きのうお兄さんに会ったから、気になってたんだけどね」

 先生は椅子のうえで手を組み直した。

「君のお兄さん、時々保健室に来てたんだけど」

「おれもうひとり兄貴がいるんですけど、そっちじゃないですか?」

 理月の名前をいうと、先生は眉を上げて表情を明るくした。

「わかった。常連さんだ。似てない兄弟だね」

 先生はひざのうえに頬杖をつくと、眼鏡ごしの上目遣いにおれをみた。

「星一ってどこが悪かったんですか?」

「解熱剤もらいにきてたの。熱が出やすい体質だったみたいでね」

 それは理月の間違いではないだろうか。春山先生は眼鏡を直しながら声を低くした。

「ときどき身体にあざがあったの。首筋の奥とか、見えにくい場所に。だから、担任の先生に聞いてみたんだけど、星一くんはクラスで一番信頼されている生徒だから、いじめのようなことはないって言われたの」

 たしかに星一はいじめられるような生徒ではない。

「体罰やいじめじゃなければ私の杞憂なんだけどね、最近はそういうことも保健の先生の管轄だから。ごめんね、変なことを聞いて」

 おれはざわつく胸をおさえながら保健室を出ていった。

 そんなに前から理月は星一とやっていたんだろうか。仲のいいフリをして、星一を脅して殴りつけて。

 喉に胃液がせりあがってきた。

 おれは口をおさえて男子トイレに走った。鍵をかける余裕もなかった。おれは腰でドアをおさえながら、便器にむかって消化したものを吐き出した。

 胃がからっぽになったのに、吐き気は消えない。唾液を便器に吐き出す。何度も。

 家に理月の精液のにおいが充満しているような気がして、気持ち悪くてたまらなかった。


 授業がおわって、おれは部活へ行った。おれは倉庫へ行って模擬試合のユニフォームを出してきた。

 同級生の羽島はしまが近づいてくる。

「茅場、塾行ってたか?」

「行ってないよ」

「俺いま宿木しゅくぎの塾に行ってるんだけど、さいきん夜にあいつを見かけるんだよ」

 宿木とは海際の地名のことだ。幹線道路沿いにショッピングモールや店がたちならぶ、地元の繁華街だった。

「それ親の店の手伝いじゃないかな」

 いってはみたが、おれは茅場のお母さんのスナックがある場所を知らない。

 部長の関がおれを呼んだ。なので、羽島との会話はそれきりなってしまった。


 部活が終わった。おれは茅場といっしょに学校を出た。茅場と帰るときは、マウンテンバイクを学校へ置いていく。

 茅場が住んでいるのは、海際の県営住宅だった。

 茅場がコンビニへ行きたいといったので、おれたちは信号の手前にあるコンビニに入っていった。

 茅場はラムネ味のアイスを買ってきた。コンビニを出ると、茅場は水色のアイスをふたつに割って、その半分をおれに渡した。

「やっぱ冬はアイスだよね」

 歩きながら茅場がアイスを食べる。鳥肌たてながらいうことか?

「星一さんたちってホモなの?」

 おれはアイスをのみこんでから答えた。

「好きでやってるんじゃないっていうけど……」

 男が好きではなくても男とやっているならホモだろう。

「理月が強姦してるのかもしれない」

 赤信号で足をとめる。茅場は眉間にキリキリとしわをよせてアイスの棒をくわえている。茅場もおれの家の兄弟を知っているから、星一が自分からそんなことをするとは思っていない。

「親に言う?」

「――いえねえよこんなこと」

 信号が青になった。横断歩道をわたりながら、茅場はけわしい顔で、

「言ったほうがよくない?」

 おれは茅場ほど親が絶対だとは思っていない。

「星一さん嫌がってるかもしれないじゃん」

「それがいちばんわかんねーんだって」

「言わなきゃ手遅れになることもあるよ」

「おまえにいわれたくないよ」

 反射的に切り捨ててから後悔する。ごめん、と茅場に謝ると、茅場は何事もなかったように、いいよ、と手をふった。

 たまに茅場はこんな顔をする。遠い目をした、からっぽの無表情、茅場がこの顔をするのはたいてい追い詰められたときだ。


 空はすっかり暗くなっていた。

 坂の下までおりると、広い幹線道路につきあたる。防波堤の向こうには、短い砂浜と海がひろがっている。

 強い風が海から湧き上がる。おれたちは坂の底のコンビニのまえに避難した。

「ここのプリンソフトうまいよ」

 アイスの棒をゴミ箱へ捨てると、茅場がコンビニのあかるい店内をゆびさした。

「なかで食べるとこあるし」

 おれは必死でかぶりをふった。

「二十四日って予定ある?」

 茅場に聞かれた。おれは教会へ理月の歌を聞きにいくことを愚痴った。茅場は目を遠くすると、年中行事だね、と笑った。

「じゃあね」

 茅場はかるく手を上げると、海際の幹線道路の歩道をあるいていった。

 茅場があの顔をしていたことを、あとになっておれは気づいた。


 家にかえると、玄関に理月の革靴があった。星一はまだ帰っていない。

 洗面所では理月がうがいをしていた。喉を痛めないように、理月は家へかえると念入りにうがいをする。

 洗面所をでると、理月は洗面所のまえをふさいでいるおれにようやく気づいた。

「これ以上育つんじゃねえよ」

 理月は力をこめておれの頭をおさえつける。その手を反射的に払っていた。痛そうな音がする。

「――んだよ、てめえ」

 理月の目が光をうしなう。おれも自分の手の強さにとまどっていたからだ。

「あとで理月に話、あるから」

 理月はおれを無視してリビングのほうへあるいていった。


 夕食後、ふたりの部屋へ行った。星一は家庭教師のバイトをしているので、部屋には理月ひとりだけがいた。

 ふたりの部屋は背の高い本棚でしきられている。手前の理月の部屋には、本棚の向かいに机とローボード、壁際にベッドが置かれている。おれの部屋と同様、開いているスペースは少ない。

「自分がおかしいって自覚ないのかよ?」

「俺がおかしいか?」

 理月はまったく動じない。整った顔をゆがめて、てのひらで顔の片側を隠してわらう。

「好きなやつとセックスするのは当然だろ」

「兄貴はどうなんだよ? むりやり殴ってやらせてたんだろ?」

「いい加減なこと言うな」

 目尻の下った目がギラリと光をはじく。

「理月が強姦してんだろ? 兄貴が自分からやりたがるわけないじゃん」

 脳裏で肌色の肉がおどったが、おれはむりやりそれを打ち消した。

「あいつは人の身体でオナニーやってるだけだ」

 淡々と理月はいって、顔のまえで両手を組むと口元を覆った。

「誰だってやってるだろ」

 こいつは自分の都合のいいようにしかものを考えない。昔からぜんぜん変わっていない。ガキのままだ。

 そうやって平然と人を踏みにじって、いつも人のせいにする。

「俺たちはしたいからやってるだけだ」

 飽きたらやめるさ、と理月はいった。ものすごく簡単に。

「あんたが誰とやってようとおれはどうでもいいよ。でも、兄貴はほんとに自分でやりたいと思ってるの?」

「星一? さあ」

 理月は顔にかかる髪をかきあげて首を振った。

「星一が考えてることはわからないから」

「セックスしてるんだから、なにかわかるだろ」

「ばかかお前」

 理月は澄んだ顔に歪んだ笑みをうかべた。そして真顔に戻って天井を見上げる。

「セックスで人間わかりゃ苦労しねえよ」

 はじめから理月はおれを相手にしていない。なにを話しても無駄だということにおれはようやく気づいた。

 このエゴイストが。

 おれは荒い足取りで部屋を出ていった。

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