兄の番人 03
3
きのうは調子が悪いといって、夕食を摂らずに寝てしまった。
朝はふたりと顔を合わせずにすむ。バスケットの朝練で早く学校に行くからだ。おれが洗面所で格好をととのえてダイニングへいくと、両親が食卓にならんで朝食を食べていた。
「おはよう」
食パンをトースターに入れる。
父親は、ネクタイを肩にはねあげて食後のコーヒーを飲んでいた。眉間の縦皺と頬の深いくぼみをとりのぞくと、父親は星一とよく似ている。短めの髪には白髪のほうが多いが、まだ四十歳にはなっていない。
パンが焼けるいいにおいがするけれど、食欲がない。おれがトースターからパンを出して、母親の向かいの席につくと、母親はベーコンエッグの皿をおれに渡しながらスキーの日程をきいた。
「塾と重なるじゃないか」
ネクタイを直して立ち上がった父親が動きを止める。
「一日だけだから大丈夫よ」
母親が手をひらひらさせてわらった。母親は、顔のパーツがぜんぶ丸くて、天然パーマの髪をショートカットにしていた。今日は深い赤のセーターに、チェックの長いスカートを穿いている。
父はちょっと不満げに天井をにらみつけた。
「
父はグレーの背広を取るとダイニングを出ていった。
食事を終えると、おれはマウンテンバイクにまたがって家を出た。つめたい風をきって走ると、重かった気分がようやく晴れてくる。
おれは嘘をつくのも何かを黙っているのも苦手だった。でも、絶対に言いたくない。とくに母親には。
あんたのふたりの息子がセックスしているなんて。
ケヤキ並木のバス通りに出ると、信号を右にまがって長い上り坂に出た。時間が早いせいか、生徒の姿はまだみえない。
小学校一年生のころに父方の祖父の葬式に行ったときのことを思い出す。
市内なのに行き来のない父親の実家にはじめて行った。喪服姿の両親は浮かない顔をしていた。いちども会ったことのない祖父の、悲しくもなんともない葬式の席で、おれはうちの家族が皆川の親戚に嫌われていることに気づいた。
遠巻きにする視線と、悪意のささやき。それは自分の横に無表情ですわっている理月に向けられたものだった。
――離人症なんですって。
――だから……の人間となんか。
――悪い種が
あのとき、ほんとうは親戚がなにをいっているのかわからなかった。
ただ、うちの家族が嫌われていることだけはわかった。それが母親のせいだということも。
ふたりは星一が生まれたせいで大学を辞めて結婚した。いま星一が通っている大学だ。母親は、父が大学を辞めたのは自分のせいだと思っていた。理月の離人症のことも。だから、星一と理月がセックスしていることを知ったら、最初に責めるのは自分だろう。
そして周りからも責められるのだ。息子がこうなったのは母親のせいだって。
星一は理月になにをされても怒らなかった。だから理月は一番イヤなことを星一にしているのではないだろうか。
でも星一はいやがっていなかった。本当に星一はあれがいいんだろうか。
考えれば考えるほどわからなくなっていく。
――なにやってるんだよ、あいつら。
ヤケクソになってペダルをこぎながら、おれはギリッと歯をかみしめた。
朝練のマンツーマンの練習でたてつづけに三回茅場に抜かれた。それでもぼんやりしているおれに、茅場がなにかあったの? ときいた。
「兄貴の生Hみちゃってさ……」
「胸どうだった? 爆乳? 巨乳?」
茅場をおしのけて松島がきく。松島は動けるデブで、いつもスタメンに入っている。
茅場からパスを受け取って、走りだす。バッシュがするどい音をたてる。ガードする茅場にフェイントをかけて抜かしていく。
とびあがる茅場の両腕をよけてシュートを決める間際に、おれは茅場にだけきこえる声でいった。
「星一と理月がヤってた」
シュートが入った。ネットをこするするどい音とともに、ボールが落ちてくる。
茅場の顔が耳まで赤くなっていた。口元をてのひらで覆って、ナニソレとつぶやく。
列にもどる。先にかえっていた松島がにやにやと笑みをうかべていた。
「で、感想はどうよ? 感じた?」
四角い顔にほそい目。ほそい眉をひそめて松島はおれをうかがっている。おれは空いた手で松島の腹をつかんだ。
「はやく列にもどれよ、松島」
不機嫌そうに茅場がわりこんでくる。松島が笑っていった。
「スキーで欠員でたらヤバいから、それまで倒れるなよ」
松島はスキー旅行の幹事を引き受けている。おれがわかった、と手をあげると、松島はにらみつける茅場に、おまえもな、といって後列へもどっていった。
茅場は眉間にキリキリと皴をよせていたが、体育館の壁をみて気持ち悪い、とつぶやいた。
「ひとが自分のパンツ穿いてるのもいやなのに」
そこでなんでパンツに話がとぶのかわからない。おれはボールを指でまわしながら適当にうなずいておいた。
国語の先生が朗読しているあいだ、おれは窓際の自分の席から校庭をながめていた。
ひとが自分のパンツを穿く状況ってどういうことだろう。おれはふとあることに気づいた。
母親の恋人となにかあったのかもしれない。
茅場は、スナックを経営している母親とふたりで暮らしている。茅場が小学校二年生のころに茅場の両親は離婚したが、茅場の姓は父親の姓のままだった。
茅場は、幼稚園のころからの腐れ縁のおれにすら父親が家を出ていったことを知らせなかった。
父親が家に帰ってくることを信じて待っていた。
父親の再婚相手に子供ができてもずっと待っていた。
茅場の母親はいつも恋人がいるのにだれとも結婚しようとしない。当時、離婚の事情を茅場はなにも知らなかった。茅場はそれをぜったいに聞こうとしないし、両親の悪口もいうこともない。
おれの家なんて茅場の家にくらべたら気楽だと思っていたのに。
額がひんやりと冷たくなった。冬だというのにじっとりと汗をかいている。
視界がかすむ。気持ち悪い。
身体がガタガタとふるえだした。
となりの席の安西が先生を呼んだ。
「皆川くんが気分悪いみたいです」
頭を起こしていられなかった。まぶたのうらで星が帯になってまたたいている。
「おい、保険委員は?」
先生の声とともに、おれは意識を失った。
肩を叩かれて目がさめた。星一のまっすぐな澄んだ目がおれを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
おれは保健室に運ばれたようだった。なんでこんなところに星一がいるんだろう。
「皆川くん、大丈夫?」
保健の先生が衝立ごしにおれに声をかけた。
「君はきのうも保健室に来てたから、親御さんに連絡したの。きょうはもう授業出なくていいから、病院へ行ってらっしゃい」
たしかにおれはきのうも痛み止めをもらいにきていた。成長痛とはいわずに頭痛といっておいたのが良かったらしい。授業をサボれるのは嬉しかったが、星一とふたりきりになるのは気分が重い。
「立てそう?」
まっすぐに覗きこんでくる星一の視線が気まずい。
「荷物は取ってきたから」
星一の手からダッフルコートを取って着込むと、おれは頭をさげて保健室を出ていった。
星一は黒い髪を額でわけて、前髪をサイドに流している。なぜかいつも前髪だけは長めで、本を読むときに前髪をいじるのがくせになっている。
グレーのコートに、くすんだうすい緑のマフラーと、ジーンズ。マフラーの奥から暗い紫色のセーターの衿が覗いている。星一は自分の見かけにはまったく無関心だったから、星一が着ているものはぜんぶ理月の趣味だった。以前はなんとも思わなかったけれど、いまは理月が愛人の服をえらぶエロ親父みたいで気持ちが悪い。
「病院行かなくていいよ」
「どうして?」
「きのうは関節痛。きょうは貧血。身体が悪いわけじゃないから」
昇降口を出ると、おれは自転車置き場へマウンテンバイクを取りにいった。星一は校門の前でおれを待っている。
「なんで兄貴が来たの?」
「お母さんから電話がきて、それで」
「――大学行ってた?」
星一はたいしたことじゃないよ、といって、バイクをひいてあるくおれの横に並んだ。
北から吹く横風がきつい。自然と身体が前かがみになる。
「熱が出ると関節が痛むことがあるから、治しておいたほうがいいよ」
落ち着いたやわらかい話し方は、小学生のときまで行かされていた教会の牧師さんに似ている。
星一がセックスすることや、だれかを好きになることを、おれは想像できなかった。星一が熱くなるところなんて一度もみたことがなかったから。
信号が赤になった。おれたちは歩道で信号を待った。
「兄貴ってなんで理月といっしょにいるの? 理月っていやなことしかいわないし、兄貴の金は盗るし、最悪だろ」
「子どものときだけだよ」
信号が青にかわる。おれたちは横断歩道を渡っていった。
星一は葉が落ちたケヤキの木を見上げた。視線のさきをたどる。飛行機雲が空を横切っている。
「それに、お金を遣ってもいいって言ったのは俺だよ」
晴也にもそう言っただろう? と星一は横目でおれをうかがう。
「そのとき晴也がなんていったか覚えてる?」
「自分の金は自分で遣え」
「だから理月と晴也に遣ってるんだよっていったら、理月が怒ったね」
「ヒステリーだよあれ」
おれたちは声をそろえて笑った。内心どうしてなごんでるんだろうとあきれながら。
家に丸いポストの貯金箱があった。30センチくらいあるそれに、星一は小学校のころからずっと小遣いを貯めつづけていた。親が遣えといっても遣わなかった。
理月はそのポストから金を引きだすようになった。ちょうどその現場に居合わせたおれは理月に殴られた。
おれは星一に泣きながらそのことを訴えた。星一はおれの頭をなでながら、あれは持っていってもかまわないんだよ、といった。
――どうせ俺は遣わないし。
そのうしろで理月が勝ち誇った顔をしていた。
――だから偉そうなこと言ってんじゃねえよ。
おれは、どろぼう、とわめいて理月をにらみつけた。
――晴也もこれ、遣っていいよ。遣わなきゃ一杯になるだけだから。
――自分の金は自分で遣えよ。
――理月と晴也に遣ってるんだよ。
――おれ理月みたいにどろぼうじゃないもん。
――泥棒じゃねえよ!
理月は星一の手から貯金箱をもぎとると、それを部屋の床に叩きつけた。大きな音がして、千円札や硬貨や貯金箱の赤いかけらが床に散らばる。
理月は部屋を出るとさっさと遊びにいってしまった。そのとき親は家にいなかったから、星一とおれで貯金箱のあとかたづけをした。
家にかえると、おれは玄関のよこの倉庫にバイクを入れた。
髪を撫でつけながら二階へ上がる。理月は星一にだけは言うなといった。口止めする人間が違うんじゃないだろうか。親にバレたほうがまずいはずなのに。
ベッドに横になって落ち込んでいたら、ドアをノックする音がした。
シュークリームと水と薬の瓶をのせた盆を片手に、星一が部屋へ入ってきた。
「お昼になったらなにかつくるから、これで我慢して」
机に盆をおいて部屋を出ていく星一を呼び止める。
「兄貴って彼女いるの?」
「いないよ」
「彼女つくれよ。理月にベッタリだと――」
星一は子どもにするようなしぐさで首をかたむけた。
「あいつガキのままだよ」
「晴也のほうが年上みたいだね」
口元をゆるめて星一がいった。
「下にいるから、なにかあったら呼んで」
おれの言葉になにも答えを返さずに、星一は部屋をでていった。
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