過去と現在の栄光

ある男が橋の前で佇んでいました。


橋の下には無数の亀裂が走り、下は断崖にして絶壁、


臆病である訳でもなく、背中を押して欲しい訳でもない


彼にはその橋の向こうに行く理由が希薄だっただけです。




私は彼の行動に惹かれました。


対価と代償の支払いに、彼がどの様な結論を出すのかと。




私は細心の注意を以って彼に問い掛けました。


先刻より拝見していますが、何を迷っておられるのでしょうかと。


彼の視線は橋の向こうを見つめたままですが、答えは頂けました。


迷っていると言うよりも、戸惑っていると言った方がいいかなと。


想像していたよりも谷が深かった、そういう事でしょうか。


落ちる事はそもそも想定してないよ、嫌な事を口にする御仁だと。


大変失礼しました、見ての通り世俗に疎い者でして。


いいえ旅の御方よ。これも何かの縁、ひとつ相談に乗ってくれないかなと。




私は全てを手に入れてしまったのです。


たとえ他人に何と申されても、それは覆らない私の中の真実です。


ならばこの先の道がどうなっているのかも、そもそも道すら存在するのかさえ些細な事です。


待つのはただの地獄のみ。鬼が手を拱いて私の事を待っている事でしょうよ。


だから旅の御仁よ。私はこう考えた。


足場すら土台すら何一つ保証してくれなかった過去の私はどうしたのだろうかと。


何より過去の私は今に至るまでに全てを手にする事が出来たのだ。


妙案の一つも思いつくのではないかと考えた。




それではあなたは過去の自分に縋り付いたという事ですか。


何とも羨ましい限りです。そこまで己に固執出来ること自体が奇跡に等しい。


しかし、僭越ながら私には理解出来ない事が御座います。




全てを手に入れたあなたは、過去の自分を何処に置いてきてしまったのでしょうか。




道中で薄れましたか。道中で見失いましたか、気付いた時にはあなたの傍から消えていたのでしょか。


それは亡くしたも同然ではないですか。


捨てた事象や壊れた想いを、簡単に再具現出来るとは思わない方が良いでしょう。




それは、もはや失われたものだ。




どれだけ過去を再現しても、過去を繰り返す事には繋がりません。


殺生かとは思いますが、それは紛れもく事実なのですから。




男は私の言葉に頭を振り、橋の前から姿を消しました。




ありがとう。そんな事すら忘れていたよと。

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