第3話 祭りの裏で僕らは踊る
全校放送がかかったとき秋葉文乃は体育館のステージ脇で控えていた。
普段なら体育館でも聞こえる放送だが今日は聞こえない。なぜなら今日この場所は生徒たちの晴れ舞台、今日まで練習してきた演奏やダンス、演劇などを披露するのだ。パフォーマンスの邪魔にならないように普通の放送は体育館にかからないようになっている。スポットライトといった照明を使うステージもあるので、カーテンを閉め切り普段の体育館よりも薄暗くなっている。
あと少しでひとつめのプログラムが始まる。
ステージの上ではトップバッターを勤める有志バンドの先輩たちが楽器の準備をしていた。どうでも良いけどバンドをやるにしては地味な見た目の先輩たちだった。学祭期間はクラスや部活で作るおそろいのTシャツを着る生徒が多いけれど、この先輩達は着崩しもなしに制服をピシッと着ていた。
そのステージ袖で私は八代先輩と最後の打ち合わせをしていた。
「秋葉さん、準備はいいかい」
「めちゃくちゃ緊張してるけど、やるしかないですよね」
そう言って深く息を吸い、そして吐く。
「ま、僕じゃあ榊より頼りないかもしれないけど、ちゃんとサポートするからさ。秋葉さんはいつもの元気すぎるノリでがッとやれば大丈夫だよ」
「がッとって......私八代先輩のなかでどんなキャラなんですか」
あははと笑う八代先輩が私の緊張をほぐそうとしてくれてるのはわかっている。
あんな事があっても変わらず優しい先輩に別の意味で胸が苦しくなるが、今はそれを考えている場合じゃない。私は深呼吸を繰り返して、何度も読んだ原稿にもう一度目を通す。
秋葉さんなら大丈夫だよ、と励まして八代先輩はステージ脇に設置された音響ブースに戻っていく。沢山のつまみが付いたミキサー卓と音源再生用のパソコンの前でスタンバイする。私と違って余裕の表情だ。
時間通りにバンドの準備が終わり、八代先輩からもゴーサインが出る。
やるしかない。大丈夫、練習はしたし主役は私じゃない。
握ったワイヤレスマイクのスイッチを入れて舞台袖からステージ上に飛び出す。
「みなさーん、おっはようございまーす!ただいまより北葉高校一日目のステージ発表がスタートします。司会は放送部一年、秋葉が担当させていただきますっ」
そう、今日の私はステージ発表の司会なのだ。日野部長いわく、学祭のステージでの司会は技術よりも愛嬌が大事だという。多少の失敗よりもその場の空気を読んで、楽しい雰囲気にする人の方がうまく回るのだとか。
確かに堅物の楠見や引っ込み思案なちーちゃんより私のほうが向いてるとは思うけど、私だって緊張はする。
がちがちな動作でお辞儀をする私にまばらな拍手が贈られる。人の入りは半分といった所だ。今後プログラムによって増えたり減ったりが繰り返されるのだろう。お辞儀中に聞こえてきた「がんばれ文乃ーっ」という声はクラスメイトのゆっこ達だ。恥ずかしいから来るなと言ったのに。くっそー。
ぐいっと顔を上げて精一杯の笑顔を作る。
「さあ、注目のトップバッターを勤めるのはこの方々『偏差値セブンティー』。なんと皆さん三年生、それぞれ偏差値七十以上の大学を受験するメンバーで組んだバンドだそうで......」
私の紹介が終わりバンドメンバーのMCが始まる。
「今日は受験のストレスを発散するために来ました」
「今日だけは勉強もオフだっ」
という前口上から、奇声をあげ、ドラムを叩き、ヘビメタの演奏が始まった。リハーサルの時も思ったけど、すごいギャップだった。頭が良い進学校には変人が多いというのは本当だと思う。
もうどうにでもなれという気持ちで、私は覚悟を決めた。
道家裕次郎はステージ発表が始まるその様子を、体育館の入り口側から手持ちのビデオカメラで記録に納めていた。
「秋葉っちのデビューはまずまずっと」
自分の仕事に満足しながらビデオカメラの録画を停止して体育館を後にする。次の目的地は中庭だ。途中に通る教室の展示も忘れずに撮影していかないとな。
今日の俺の役目はフットワークの軽さを活かしいた記録係だ。例え知らない相手でもその場のノリで会話が出来る俺にはもってこいの役目だと思う。そんなことを考えながら近くの教室の扉を開けた。
「ちわーっす、記録係でっす。おぉ、これは魂の叫びを感じるっすね......」
開けた扉は美術室だった。この部屋でまず目に飛び込んで来たのは黒板いっぱいに書かれた流行の黒板アートだ。そこには精密な福沢諭吉が描かれていた。もっと正確に言えば黒板を目一杯使った巨大一万円札が描かれており大変インスタ映えしそうである。
「拡散OKですので、どんどん撮影してください」
諭吉を撮影していたビデオカメラを声がした方に向けると美術部の部長らしき黒髪ロングの先輩が立っていた。髪型もメガネも地味な割に、計算高い策士みたいな表情で胸を張っている。
「今回の私たちのコンセプトは、美術とお金。どんな芸術にも先立つものは必要、そこで過去の有名画家の家計事情や、私たちの普段の活動にかかる経費を、このように見える化してみました」
美術室を見回すと、美術史とお金にまつわる手書きの巨大年表が壁に張り出され、部屋にあるあらゆる作品や道具に値札がついている。普段部員が使っているであろう筆やイーゼルなんかにもこれ見よがしである。
「これは斬新な展示っすね......」
「所詮世のなかお金なのよ、お、か、ね。こうして派手にやって学外にも拡散すれば、少しは部費の増額申請が通るための圧力に」
「い、今のはオフレコにしておきますね」
思いのほか悪どい発言と表情から逃げるように美術室を飛び出す。高校生のうちから世知辛い壁にぶち当たっている美術部に敬礼。
そんな風に中庭まで移動する間に将棋部、パソコン部、園芸部なんかの展示を撮影して回った。気まぐれに廊下ではしゃぐ同級生や、カップルで歩く先輩方を冷やかしがてら撮影するのも楽しかった。
撮影していく中で、やる気もこだわりもバラバラな展示群にひとつの共通点を見つけた。共通点というか、同じ類の噂が流れていた。
開会式で派手に登場した『紅童子』。あいつが何やら各所で子供の様なイタズラを仕掛けて回っているらしい。
例えば将棋部ではお試し対局用にいくつか用意していた簡易将棋板の王将だけが盗まれていたとか、廊下に掲示された学祭用の案内板が出鱈目に書き換えられていたとか、やっている事はどうにも小さくてセコい。
その割に自己主張が激しいのか、イタズラ現場には犯行声明としてのカードが置かれていた。その犯行声明がこれら取るに足らないイタズラをひと繋がりのものとして噂話を加速させていた。
開会式であれだけ派手に登場した割には実害があまり無いからか、生徒たちも祭りの一環として楽しんでいるようですらある。
「ま、それは俺も同じだけど」
初めての学校祭、そこに現れた謎の怪人、まるで漫画のような展開にワクワクしない訳がない。せっかくカメラを持って動き回ってるんだ。怪人の正体を追ってみるのも楽しそうだ。
そんな風に考えているうちに中庭に到着した。ちょうど一組目のパフォーマンスが終わったところらしく、小さな拍手が起こっていた。中心で拍手を浴びる女子グループの横に、中庭の音響を担当している榊先輩を見つける。
「先輩、お疲れさまっす」
「おう、道家か。ちょうど良いから、次のセッティング手伝ってくれ」
女子グループが退場するのと入れ替わりに次のグループが現れる。次は音楽系部活の中でも異色のお琴の会だ。全員和装での登場に場がどよめいた。
うちの学校、一応進学校の割にやたら変な部活が沢山あるんだよな。
「ワイヤレスマイク出して、真ん中の子に渡してやってくれ」
榊先輩の端的な指示で俺はマイクを手渡す。ありがとう、と言って受け取ったお琴の会の部長は所作が上品でとても着物が似合っていた。良いねぇ和服美人。
「もう喋っても大丈夫?」
そう言って榊先輩の方を確認すると、榊先輩は無言で頷く。
「大丈夫です。スイッチ入れて、始めてください」
中庭に琴の音色が響く。榊先輩も琴の演奏中は仕事がないので演目を見守っていた。
「道家、記録撮影の方はどうだ?」
「ばっちりっすよ。さっき秋葉っちのデビューも納めてきましたよ」
「そうか」
榊先輩は頼りになる先輩だけど、その寡黙さはお喋りな俺にはたまにきつい。なんというか間が持たないのだ。
ついつい余計に話しかけてしまう。
「そういや聞きましたか。紅童子の噂」
「あぁ、あれな。ここでも一つやられたぞ」
「え」
「さっきマジック研究会の出番があったんだが、そのBGM用のCDが笑点の曲にすりかえられていた。マジック研のやつらは、あれのおかげで盛り上がったと笑ってたがな」
「それはまた平和なエピソードで......」
紅童子、ほんと何がしたいんだか。
「それよりも俺はあっちの方が心配だ」
「どっちですか」
榊先輩は校舎の方を指さして言う。俺は先輩が何を言いたいのかわからずに俺は首をひねる。
その時、聞き慣れた放送ベルが鳴るのがうっすらと聞こえた。中庭は屋外なので校内放送は聞こえづらい。
耳をすませると三吉さんの声だとわかった。今はクラス企画の紹介分を読み上げているようだ。
「次は、一年五組の紹介を読み上げます。私たちゃ、あ、私たち一年五組はどうぶちゅ、動物喫茶、かわいい動物たちがあなたを癒しの国にご案内、だワン」
酷い。棒読みな上に何度噛んでるんだ。
「三吉ちゃん、いつも以上に緊張でボロボロっすね」
「日野先輩もフォローしてるんだけど、さっきからあの調子なんだ」
普段からアガリ症で度胸があるとは言えない三吉ちゃんだけど、いつもの放送や大会ではもっとちゃんと読めていた。やっぱり開会式の事件が尾を引いているんだろうか。
ま、日野先輩も藤城も居るし、うまくフォローしてくれるとは思うけど。俺は中庭を離れて、再び祭りの雑踏の中でカメラを回し始める。
「三吉さん、ちょっと休憩にしようか」
原稿を読み終わった私に日野部長が優しく提案する。でも今はその優しさが辛くもある。
「え、でもそうしたら部長が一人になっちゃいます」
「私は大丈夫。去年は私と榊君、八代君、あとは卒業した先輩がひとりの合計四人で乗り切ったのよ。ちょっと一人になるくらい問題なし」
わかりました、とそれ以上抵抗する気も起きずにに私は休憩を取る事にした。これは私がミスばかりするから、事実上の強制降板だった。開会式での事を挽回しようと意識すればするほど、いつものように原稿を読むことが出来なかった。
放送室内では居た堪れなくて、私は外に出ることにした。
「どうして私はこうなんだろう」
昨日まではあんなに楽しみだったお祭りの中でも、今はちっとも楽しい気分になれない。廊下をとぼとぼ歩いていると、グループで余所見をしながらふざけ合っている男子たちと肩がぶつかり尻餅を着いてしまった。
「あ、わり。大丈夫?」
周りの注目を集めてしまって、私は顔を上げられない。
「だ、大丈夫です......」
自分で立ち上がって早足でその場を離れる。
後ろでは「気をつけろよー」「ははっ、お前の顔が怖いからビビってたじゃん」などと賑やかな会話が続いていた。
出来るだけ、人のいないところへ行こう。
学校中が祭りに沸いていても、意外と死角になる場所はある。例えば屋上に続く階段や格技場なんかがそうだ。あとは教員用の駐車場なんかも穴場だったりする。
それらの中でもちょっと休憩するなら、進路指導室だろう。いつも鍵はかかっていない。本棚には赤本や大学のパンフレットが並んでいて、生徒に貸し出しも行っている部屋だ。一年生の私にはまだ縁遠い場所だけど、こんな日にまでわざわざ訪れる人がいるような部屋ではない。
階段を上がり、最初の角を右に曲がる。そこから三番目の部屋が進路指導室だ。
部屋の前の掲示板にはオープンキャンパスのポスターや模試の結果が貼られている。模試の結果に戸神生徒会長の名前を見つけた。
「全国八位。会長ってそんなに頭良かったんだ」
やはり持ってる人は何でも持っているものだ。それに比べて自分の不甲斐なさが改めて意識され、また気持ちが沈む。
少し休もう。大きなため息をついて部屋の扉を開けた。
そこには黒マントにジャージ姿の女子生徒が立っていた。地味なメガネにショートヘアの出で立ちと黒マントがいかにもミスマッチだ。
けれど私が息を呑んだのはそれが原因ではない。私は彼女が手に持っているマスクから目が離せなかった。
それはあの映像に映っていた紅童子の仮面だった。
「お疲れさまーって、あれ、ちーちゃんは?」
「あ、楠見さん丁度良かった」
私はようやくクラス展示の当番を終えて放送室に戻ってきた。クラスも別に嫌いではないんだけれど、私のホームはやっぱり放送室だと思う。
「三吉さんはちょっと落ち着けるように休憩に行ってもらったよ」
ミキサー室で放送卓に向かっている藤城が教えてくれる。
これから何か放送をかける所のようで手際よく卓を操作している。調整室のアナウンスブースに居る日野部長にキューを出し、放送を開始する。
私は放送の邪魔しないようにミキサー室の椅子に座り、今日のスケジュールを確認する。
北葉高校の学校祭は土日を使った二日間で行われる。一日目である今日は開会式からあとは夕方五時まで自由時間だ。生徒たちはそれぞれのクラスや部活の発表をこなしつつ、それぞれにお祭りを楽しんでいる。
と、放送室のドアが開き同じ一年生の実行委員が放送依頼にやってきた。バンっとドアを開ける音が大きい。
「失礼しますっ。あの、迷子の放送お願いしてもいいですか」
慌ただしい学祭中のことだから仕方ないけど、放送中にはもう少し静かに入ってきてほしい。
うちの学祭は一般にも開放されているため、たまにこういった依頼も来る。近所の子供や在校生の家族が遊びにくるからだ。
「了解。生徒会室に呼び出せば良いのね」
実行委員から呼び出し放送の用紙を受け取ってアナウンスブースの前に控える。放送を終えた日野部長と入れ違いでマイクの前に座り、いつも通りに放送をかけた。
放送が終わってミキサー室に戻ると、部長と藤城がちーちゃんについて話していた。
「三吉さん、なかなか戻ってこないですね」
「そうねぇ。大分ショックだったみたいだから。まだ落ち込んでるかもしれないけど、私もそろそろクラスに顔出さなきゃいけないし......。どこに行っちゃったのかしら」
真面目なちーちゃんが、落ち込んでいるとはいえ無断で時間に遅れるなんて珍しい。
「じゃあ私、ちーちゃんに連絡送っておきますね」
ミキサー室に放ってある学生鞄からスマホを取り出してちーちゃんにメッセージを送る。
うちの学校は基本的に校内でのスマホ使用はダメだけれど、放送室の中に先生方の目はないので気にしない。こういう時はやっぱり便利だし。秋葉さんには堅物って言われるけど、別に私だって何でもかんでも真面目ってわけじゃない。
「それに私ならちょっとくらい一人でも大丈夫ですよ。心配しないで、部長もクラス当番行ってきてください」
これからどうしようか迷っている様子の日野部長に提案してみる。それくらい何とかする自信はある。
「そう?んー、じゃあ30分だけ行ってくるからお願いしようかな」
「任せてください」
部長が申し訳なさそうにパタパタと部室を出ていくと藤城と二人だけになった。
「先輩にはああ言ったけど、ちーちゃん大丈夫かなぁ」
「まあ、大丈夫でしょ。落ち込んでたと言っても、開会式のあれで酷い実害はなかったわけだし。あの映像の犯人も今のところは大した事はしてないんでしょう?」
楠見がクラス企画を手伝いながら聞いた噂でも確かに大した被害は出ていないようだった。どれも他愛ない子供のいたずら程度で、そんな噂自体を祭りの余興のひとつとして楽しんでいる人が大多数のように思えた。
「そうだよねぇ」
私の気のない返事と同時に再び放送室のドアが開いた。ちーちゃんかと反射的にドアを振り向くがそこに居たのはビデオ撮影に出ていた道家だった。
「お疲れさまでーす。お祭りだってのに部室に籠もりきりの方々へ昼飯のデリバリーにあがりましたっ」
得意満面の笑みで、PTAの父兄が出店している屋台から買ってきた焼そばを掲げる道家に対して、私はこっそりとため息をついた。
お気楽そうで羨ましいこと。
「あっちに逃げたぞ、捕まえろっ」
真っ先に走り出した戸神会長を先頭に、二名の実行委員が走り出した。
道家は目の前で起こっているハプニングを逃すまいとワクワクしながらビデオを回す。こんな面白い場面に出くわすなんて、俺って報道カメラマンの資質あるんじゃね。
実行委員たちに続いて自分も走りだした道家はカメラを構えながらそんなことを考えていた。
数分前。
楠見や藤城に昼飯を届けた道家はそろそろ自分も昼飯を取ろうかと考えていた。
向かう先は家庭科室で料理研究会が出している豚カフェだ。豚丼や豚汁などメニューが豚づくしらしい。カロリーが必要な男子高校生には楽しみな出店だ。
「っと、すんません」
そんな風に豚に思いを馳せながら歩いていたら、廊下を練り歩いていた仮装行列の一人と肩がぶつかってしまった。せっかくだからビデオに収めておこうと思い、廊下の端に寄って録画ボタンを押す。
どうやら2年生がやっているお化け屋敷の宣伝に校内を歩いて回っているようだ。貞子に猫娘に一つ目小僧、おぉ、ぬりかべまでいる。あれ発泡スチロールで出来てるのか。うまく作ってるなぁ、石の質感が再現されていてなかなかの見応えだ。
「まあ、お化け屋敷にあれが出てきて怖いかと言われると微妙だけど」
そこで妙なものに気がついた。
お化け達の最高尾に、頭から足まで隠れる真っ黒なフード付きマントが少し離れてついてきていた。あれもお化けの一人なのかもしれないけど、他が和風なお化けになのに対して、あれはどちらかというと洋風で悪い魔法使いのような出で立ちだ。
目の前を通り過ぎる時も、すっぽりと被っているフードで顔は見えなかった。
その黒フードが、足を止めた。
そして廊下の壁の方を向いて、すっぽり被ったマントの下からぬっと腕を出す。
その手に持っていたのは大きな筆だった。長さ30センチくらいはある筆には墨汁がたっぷりと含まれているようで、先っぽからはぽたぽたと墨が廊下に垂れていた。
周りの生徒も異変に気づきはじめたその時だった。
「わ、何やってっ」
黒フードは廊下の壁に思い切り筆を叩きつけた。周りが呆気に取られているうちに、一気に文字を書き上げる。
『紅童子参上』
勢い任せに書いたため文字の後半はかなり掠れていたが、そこに書かれていたのはあの仮面の名前だった。黒フードが壁側からこちら側にぐるりと向き直りフードを取った。その下にはやはりあの朱色の仮面があった。白い目口が笑っている。
「おいっ、そこで何やってるっ」
よく通る声の方を見やると、そこには戸神会長と実行委員ふたりが立っていた。途中の廊下にいる生徒は会長たちに自然と道を開けた。モーゼかよ。
会長の姿を認めた途端、紅童子は反対側へ脱兎のごとく逃げ出した。墨のついた筆を振り回すことによって、生徒たちに道を開けさせて駆けていく。
道家は会長たちに続いて紅童子を追いかけたが、廊下は生徒や展示物で溢れており途中で見失ってしまった。ビデオカメラヲを回しながら走るのは思いのほか難しい。少し前を走っていた会長たちも足を止めた。
「はぁ、はぁ...、会長、あいつは......」
残念だねぇと苦笑する会長も、このハプニングを結構楽しんでいるように見えた。
「見失っちゃったね。仕方ないから、あの落書きは僕らが片づけておくよ。流石にあのままじゃ見栄えが良くないし、先生方に何か言われてもつまらないしね」
道家は元来た道を戻っていく会長たちを見送り、その後ろ姿も一応ビデオに収めておいた。
早く、早くあの部屋まで。
直ぐ扉を開けられるようにポケットから鍵を取り出しておく。追手は完全に撒いた事は何度も確認したけれど、私は緊張で心臓が止まりそうだった。そもそもインドア派な上に人前で何かする舞台度胸なんて持ち合わせてはいない。不慣れな肉体労働に既に息が上がってしまっている。じんわりとした汗を背中に感じて気持ち悪い。
紅童子のマスクと黒マントはここから反対側の校舎裏に捨てて来た。たぶん、誰にも見られてはいないと思う。怪人の衣装を脱げば、私のことなんか誰も注目しない。そう頭ではわかっていても、ここに来るまで胸の動悸は収まらなかった。
犯人てこんなに不安なんだな。私の肝が小さいだけかもしれないけれど。
やはり本で読んで追体験するのと、自分で実際に経験するのはあまりにも違う。私は今、本物のスリルを味わっている。首のあたりの血管にドクドクと血が通っているのがわかる。顔が熱い。手がべたつく。
目的地である進路指導室に着いた。周りに誰もいない事を確認して、素早く鍵を回して中に入る。今度はちゃんと直ぐに内側から施錠する。同じ失敗はしない。そこまでやって、やっと少し安心出来た。
私は進路に関わる資料で埋め尽くされている部屋の奥へ進み、問題が起きてないことを確認した。
そこには一人の女子生徒がガムテープで手足を縛られた状態で床に座っている。両腕に関しては、縛られた腕を通して書類が詰まった金属性の棚に括りつけられておりその位置から動く事も出来ないようになっている。
下手に動けば、棚が倒れて下敷きになるような位置だった。
「......おかえりなさい」
その生徒はそんな風に恐る恐る声をかけてきた。上目遣いで見上げる彼女の、男子の庇護欲をそそるような態度に私は少し苛ついた。いや地面に座るよう縛ったのは私なんだけどね。
「ちゃんと大人しくしていたようね」
私は彼女の正面に置いてある椅子、教室で使っているのと同じ堅い木の椅子に乱暴に座る。悪役らしく、粗暴な物腰で腰を下ろした。さて、これからどうしてくれようか。
この部屋に彼女が入ってきた時は心臓が止まるかと思った。
こんな所でこの計画を止める訳にはいかない。こんな無様な展開なんてあり得ない。衝動に突き動かされた私は、今自分で思い返してみてもとんでもない行動に出た。
部屋の入り口で立ち尽くす彼女の腕をとっさに引き寄せて部屋に引っ張り込んだ。いきなり引っ張られて前のめりになった彼女をそのままうつ伏せで床に押し倒す。そしてポケットに入れていたカッターナイフを彼女の目前にひらめかせた。
カチカチカチと彼女の目の前でゆっくりと刃を出していく。
「大きな声を出したら、このまま刺す。言うとおりにして。そうすれば、これ以上は傷つけない」
その一言で大人しくなった彼女に目隠しをした上でガムテープを使って拘束する。さらに念を入れて逃げられないよう腕を棚に縛り付けた。
漫画や映画の見よう見まねで手足をぐるぐる巻きにしただけだが、どう見ても体育会系には見えない内気そうな少女にはそれで十分だった。縛り付ける途中で目的を説明したのが良かったのかもしれない。
「今日の学祭が終わるまでここに居てもらうだけだから。私は邪魔をされたくないだけで大人しくしてくれれば何もしない」
そう伝えてからは素直になり棚の前に座らせて縛るのも容易だった。
拘束が完了したあと、私は次の予定の為に一度部屋を離れなければならなかった。彼女をそのままにしていくのはもの凄く不安だったから、人質として彼女のポケットに入っていたスマホを奪い取っておいた。
「あんたのスマホ預かっておくから。騒いだり逃げたりしたら、このスマホの中身を抜いてネットに公開してやる」
縛りつけられた彼女はコクンと頷く。聞き分けが良すぎて逆に不気味でさえあった。
「あの、大人しくしてるから、目隠しだけ、取って貰えると、嬉しい、です。見えないと怖すぎて......」
ここまで拘束出来ていれば目隠しくらい良いか。
「まあ良いでしょう」
私は彼女の目隠しを外し、自分は紅童子の仮面を被り部屋を出た。
そしてひと仕事終えて部屋に戻ってきた今も彼女はちゃんとそこに居た。
内心逃げられるんじゃないかと気が気でなかったので私はほっと胸を撫で下ろしていた。特に話すことも無いので先ほどから無言の時間が続いていた。
「あの、あなたが開会式の映像をすりかえた犯人なの?」
沈黙に耐えかねた彼女が聞いてくる。上靴の色を見る限り彼女も私と同じ一年生のようだが見覚えは無かった。まあ私はこの七月になってもクラスに馴染めず、クラスメイトの名前すらうろ覚えだから当然だけど。
この子も私の事を知らないようなのは幸運だった。クラスでの私を知っていたらきっとなめられていただろう。
「あ、ごめんなさい......」
私の返答が無いのを気分を害したかもしれないと感じたらしい。そういう直ぐに謝る態度が私には気に入らない。
「別に怒ってないし。そんなにびくびくしなくて良いから。何もしないって言ってるでしょう」
そう言ってみた所で恐怖がやわらぐ訳でもないようで、それきり彼女は俯いてしまった。
「さっきの質問だけど、ここまでされて、この仮面も見て、それを確認するってあんた馬鹿?」
朱色の仮面をひらひらと振りながら彼女を見下ろす。その言葉に顔をあげた彼女の表情が微妙に変化した。
「なんで、あんな事したんですか?」
言葉に先ほどまでの怯えとは別の、責めるような響きが含まれたのがわかった。私は昔から自分への批判にだけは敏感だった。その苛つきをぶつける前に彼女が言葉を続けた。
「みんな今日の学祭を盛り上げようってずっと準備してきて、昨日だって夜遅くまで頑張って、ようやく迎えた本番だったのに。それをどうして、どうしてあんな事したんですか」
後半は涙声だった。カッターに震えていた時とは明らかに違う強い語調に私は少し怯む。嘲笑と蔑みには慣れていても、こんなに真っすぐ非難されるのは初めての経験だった。
だからだろうか。私はつい心に仕舞いこんでいた本音を漏らしてしまった。
「私は、どうしても本物になりたいの」
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