第8話 人生には、柄にも無い事をしてしまう時がある

 この小さな街にある茶店は朝から営業していた。その為、朝が早い冒険者達には重宝されていた。その店に向かう三十代前半の冒険者一行がいた。

 

 今日は彼等にとって大仕事になりそうな日だった。何せ三つ先の街まで依頼者を護衛して送り届けるのだ。


 気前が良い依頼者の報酬もいい。これで酒場と宿屋のツケが精算出来るし、質屋に入れた愛用の剣も取り戻せる。


 英気を養う為に冒険者達はしっかりと腹ごしらえをしようと店に近づくと、店の前で誰かが争っているようだった。

 

 冒険者達は不快な気分になった。朝っぱらから喧嘩なんぞ他所でやれと。いい迷惑だと苛立つと、その喧嘩を見物している連中がいた。


 一人は銀髪の少女を連れた冴えない男。少し間を置いて店から四人出て来た。紅茶色の髪と全身黒衣の黒髪の男。白いローブを着た真紅の髪の男。もう一人は女でかなりのいい女だった。

 

 か弱い淑女を喧嘩に巻き込まれないよう、店の中に連れて行こうと、好色な顔を並べて冒険者達は女に近づいた。

 

 その時、勇者の剣と死神の呪文が衝突した。

 

 勇者の剣は唸りを上げて死神に向かって行った。死神は対物理攻撃の障壁呪文を張る。勇者の鋒が障壁に触れた瞬間、雷が起こったような光と音が炸裂した。

 

 マルタナに近づいた下心満載の冒険者達は、それに仰天し漏れなく全員地に腰を落とした。

 

 サウザンドの物理障壁呪文は殆ど一瞬で貫かれ、勇者の剣が死神の眉間に吸い込まれる。


 寸前でサウザンドは頭を捻りそれを避ける。勇者は勢い余ってサウザンドから六歩の距離まで離れた。

 

 サウザンドの額から血が流れる。勇者の光の剣は物理や魔法のどちらの障壁も全く役に立たない。死神は身を持ってその結論に至る。

 

 その様子を見ていたタクボも、サウザンドと同じ考えだった。

 

「あの光の剣は物理も魔法も超えた力だ」

 

 タクボの呟きに、チロルは不思議そうな顔をして師の表情を見上げる。

 

 サウザンドが右手から、光の矢が放たれようとした。それはかつて、勇者の恋人を倒した呪文だった。


 だか勇者が放った雷撃の呪文が半瞬早かった。暴れ狂った三体の龍の閃光が死神の右手を襲った。雷撃が光の矢の誘爆を誘い大きな爆発音が響く。

 

 この小さい街にしては広い通りだったのが幸いし周辺の民家には被害が無かった。しかし、住民達は何事かと騒ぎ始めた。戦争でも始まったのかと。

 

 死神は右手に深手を負い顔をしかめた。勇者は死神に暇を与え無かった。全身を覆う重い甲冑を身に着けているとは思えない速さで死神に突進して来る。

 

「逃げろ! サウザンド!!」

 

 タクボは叫んだ。しかし、死神は勇者に背を向けなかった。残った左手で勇者と戦うように見えた。

 

 気づいた時、タクボは衝撃波の呪文を唱えていた。的を小さく絞って放たれた呪文は、人間の敵である魔族では無く、人間の希望である勇者に直撃した。

 

 全身全霊をサウザンドに向けていた勇者は、タクボの不意打ちを避ける術無く地面に叩きつけられる。その勢いは止まらず民家の外壁にその身を埋めた。

 

 タクボは後ろに居たマルタナにチロルを預け叫んだ。

 

「チロルを頼む! ここは危険だ。遠くへ離れていろ!!」

 

 チロルを抱きしめたマルタナは、蒼白な顔で私を見る。タクボは勇者を攻撃してどうするつもりなのか。

 

「あなた自分が何をしているか分かってるの!?」

 

 マルタナの言葉に返答はせず、タクボは死神の元へ掛けて行く。


 勇者は壁に腰を預けたままタクボを見ていた。大したダメージは負っていないと思われ、自分を攻撃した相手を見定めていた。

 

 マルタナに言われる迄も無く、タクボは自分でも何をしているのか分からなかった。魔族を倒そうとしている勇者を攻撃したのだ。正気の沙汰では無い。平穏な引退生活が遠くへ霞んで行く。

 

「そなた一体何のつもりか!?」


 サウザンドが叫びタクボが怒鳴り返す。


「うるさい! こっちが聞きたい位だ」

 

 満身創痍の死神には、この人間の行動理由が理解出来なかった。

 

「強いて言えば義理と言う奴だ。お前は私達の安全の為に手を回してくれた。その義理を果たす為にだ!」

 

 タクボは何も考えず喋ったが、自分の言葉で妙に納得してしまった。自分が咄嗟に行動したのはそう言う理由かと。

 

「義理を果たす? 人間には不思議な言葉があるな。是非詳しく意味を知りたい物だ」

 

 この非常時に死神はタクボに興味深そうな目を向けて来た。タクボは舌打ちをうつ。

 

「この場を切り抜けたら幾らでも教えてやるさ。所でサウザンド。お前は対物理障壁と対魔法障壁どちらが得意だ?」

 

 タクボの言葉に緊張感を思い出したのか、一瞬で死神の目が先程の殺意色をした両眼に変わる。

 

「どちらかと言うと物理障壁だ」

  

 サウザンドの返答にタクボは不敵に笑った。


「私は魔法障壁の方だ。サウザンド。私達は気が合うかもな」

 

 勇者がゆっくりと立ち上がり、タクボを怒りの目で射抜く。

 

「なぜ人間が魔族の味方をする?」

 

 勇者は怒気を含んだ声を発した。この怒れる勇者を口先三寸でどうにか出来る筈が無い。それでもタクボは小細工を弄する。

 

「勇者よ! 私は魔族に味方するにあらず。双方このまま戦えば街に被害が出る。ここは剣を収められよ!」

 

 タクボの言葉はあながちデタラメばかりでは無い。周辺の住民はタクボ達を見て避難を始めている。悲鳴や叫び声も聞こえる。

 

「お前の邪魔が入らなければ、先刻の一太刀で終わっていた。そこを退け。邪魔をすればお前も斬る」

 

 勇者は突撃の体制を整える。銅貨級の魔物しか相手にしてこなかったタクボがどうにかなる相手では無かった。全身を襲う死の恐怖がタクボの心臓を緩慢に締め上げていく。

 

「いいかサウザンド! 各々得意な障壁呪文を同時に張るぞ!」


 強制的に覚悟を決めさせられたタクボは、死神に共同作戦を提案する。

 

「同時にとな? 如何なる理由だ?」


 サウザンドは生真面目な表情でタクボに質問する。


「説明している暇は無い! いいから言う通りにしろ!」


 その生真面目さに苛立ちを募らせるようにタクボは怒鳴る。

 

「そこを退けぇぇっ!!」

 

 勇者が怒気を発しながら叫ぶ。狂気と殺意の塊になった暴風が、タクボ達に突進して来る。


 勇者の剣を纏っていた光がその輝きを増した。タクボは内心絶叫する。


『あの光の剣は持ち手の殺意に反応してその力を増すのか!?』


 だが、行動を起こすのは今しか無かった。タクボは死神を一瞥し叫ぶ。


「今だ! サウザンド!」

 

 タクボと死神は同時に障壁呪文を唱えた。対物理障壁と対魔法障壁が重なり合う。その壁をなぎ払うように光の斬撃が振り降ろされる。

 

 光の剣が二つの障壁にぶつかり合い、再び降雷のような光と炸裂音が響き渡る。勇者の光の剣が二つ重なった障壁に阻まれる。


「あの一瞬で光の剣の防ぎ方を見抜くとは······」

 

 真紅の悪魔ことアバルは、タクボの機転とそれをやって退ける行動力に感嘆した。そして二人掛かりとは言え勇者の剣を阻む程の魔力。タクボは相当のレベルに達していると思われた。

 

「サウザンド? 大丈夫か!?」

 

 サウザンドは片膝を着き、障壁を唱えた左腕も徐々に垂れ下がって来た。


 深手を負った額と右手の傷が深刻な状況に陥っていた。術者の集中力は呪文の効果に直結する。サウザンドの障壁に亀裂が生じた。すると、タクボの障壁にも同じ事が起きる。

 

 一瞬の希望は、即座に絶望に取って代ろうとしていた。勇者が渾身の力を込め、光の剣を振り上げた。来る。全てを粉砕する狂気の一撃が。タクボは死を覚悟し目を閉じた。

 

 その時、何かが砕ける音が聞こえた。

 

 目を開くと勇者が目の前で倒れていた。背中の鎧が何かに剥ぎ取られたように生身の身体を晒している。歴戦を潜り抜けたこの鎧をどうやったらここまで破壊出来るのか。


 生身の背中からは大量に出血が見られる。どう見ても致命傷だった。倒れている勇者の後ろに、右手に光の剣を纏ったチロルが立っていた。

  

 チロルがタクボを見上げて微笑んだ。

 

「師匠! 大丈夫でしたか?」


「······チロル。これは?」

 

これはお前がやったのか? タクボはそう問いたかったが聞くまでも無かった。サウザンドが細い目を見開き少女を見つめている。


 タクボも死神もこの小さな子供に命を救われた。だが、その事実を目の当たりにしても容易に信じる事が出来ない。

 

 これが勇者の金の卵の力だとでも言えばいいのか。呆然としているタクボの前に、白いローブを着た男がゆっくり腰を下ろす。倒れて動かない勇者の背に手を当てる。

 

「······まだ息はあるな」

 

 言うと同時に、アバルは勇者に治癒の呪文をかけ始める。アバルの手から銀色の光が輝き、勇者の流れる出る血が蒸発して行く。

 

「タクボ。サウザンド。心配するな。勇者はこのまま療養してもらう」

 

 勇者は傷を癒やすため暫く姿を消す。それは、魔王軍に反抗の時間を与えるという事だった。

 

「アバル。頼みがある。サウザンドの傷も治してくれ」

 

 タクボの言葉にアバルは意外そうな表情を見せた。そして苦笑しながらも応じてくれた。

 

 マルタナが駆け寄って来る。その後ろにウェンデルとエルドの姿もあった。

 

「チロル! 怪我は無いの?」

 

 マルタナがタクボに詫びる。チロルを避難させる事が出来なかったと。勇者の金の卵を抑える事など誰にも不可能だった。

 

「タクボ。この状況は一体······」

 

 ウェンデルの言葉が途切れる。紅茶色の髪の青年もタクボ同様に混乱していた。

 

「チロルをどうするの? タクボ」

 

 エルドがタクボにとって痛い質問をして来た。厄介事はまだ残っていた。とびきり大きい厄介事が。

 

 サウザンドの治療を終えて、アバルがタクボに向き合う。

 

「勇者はこのまま連れて行く。そちらの少女も同行願いたいのだか」


 アルバの言葉に、タクボは意を決したように口を開く。

 

「アバル。チロルは事の善悪をまだ分かっていない。誰かがそれを教える必要がある」


「タクボよ。私としては今のままの方が教育しやすいのだがね」

  

 アバルの長い前髪から覗く目に、形容し難い怪しい光が見て取れた。

 

「アバル。君は施設で私を洗脳から救ってくれた。その君が洗脳する側に立つのか?」

 

 タクボの言葉に白いローブの男は黙り込む。抗弁する話法は幾らでもかあった。だが、施設で唯一の友と言っていいタクボに対して、それは不実の行為と思われた。

 

『血で染まったこの身に、今更友誼の真似事か』

 

 アバルは内心で自身をそう冷笑した。

 

「師匠。この白い人が邪魔だったら殺しましょうか?」

 

 チロルがタクボを見上げて言う。それは、子供がお使いの品を質問するかのような口調だった。チロルを見返すと少女は微笑んだ。

 

「その作り笑いはやめろっ!!」

  

 タクボは何故か叫んだ。タクボ自身でも分からない妙なスイッチが入ってしまった。

 

 チロルは真顔に戻りキョトンとしていた。

 

「無理やり笑顔を作るから心が歪む! 悲しいのに笑顔を作るから心が荒むんだ!!」

 

 タクボの絶叫にチロルは困ったような表情を見せた。

 

「でも師匠。盗賊団の人達に教えられたんです」

 

 チロルは盗賊団に常に笑顔でいるよう叩き込まれた。笑顔は相手を油断させつけ入る隙を作るきっかけになるからだ。

 

「チロル! 今まで一人ぼっちで悲しかっただろう! 泣いていいんだ。お前は子供なんだから」

 

 チロルは沈黙した。タクボの言葉をなんとか少女なりに理解しようとした。だが、少女は俯いて小声で言う。

  

「······すいません師匠。私、泣き方が分かりません」

 

 その様子を見守っていたマルタナが、両手を口に当てる。目には涙が今にもこぼれそうだった。

 

 ウェンデルは思う。チロルは被害者だ。この永遠に終わらない戦いの世の。タクボの言う通り、この少女は何がいい事なのか悪い事かなのか理解していない。


 それは少女の責任では無い。こんな世界にした自分達大人の責任だった。

  

 エルドはチロルを子供の時の自分と重ねていた。自分も紙一重でチロルのように感情に不具合を持っていたかもしれないと。 

 

「これからは作り笑いをするな。しなくていい。分かったか? チロル」

 

 チロルはタクボを無言で見上げる。その瞳は子供にしては大人びていた。少女の人生はそうせざるを得なかった。

 

「返事はどうした? 師匠の最初の教えだぞ?」

 

 チロルの瞳が揺れた。野良猫に餌をあげているこの人の傍に居たい。その願いが叶うと思われた。しかし、口にしたのは別の言葉だった。

 

「······でも師匠。私は皆から疫病神と言われて来ました。私が居ると師匠に迷惑がかかります」

 

 タクボは膝を折りチロルと同じ目線に立つ。そして少女の小さい両肩を掴んだ。

 

「心配するな。私は善良な人間だ。疫病神も私の善行を恐れて逃げだすさ。それよりさっきの返事を聞かせろ」

 

 チロルはタクボの目を正面で見据えた。

 

「······はい。師匠。もう作り笑いはしません」

 

「よし。いい返事だ」

 

 タクボはチロルの頭を撫でてやった。

 

 そしてタクボは立ち上がり、アバルに再び向き合う。

 

「アバル。青と魔の賢人達に逆らえるとは思っていない。だが、しばらく時間をくれ。この娘が人間らしい感情を取り戻すまで」

 

 アバルは風の呪文を唱え始めた。一命を取り留めた勇者を担いでいる。

 

「タクボ。その少女は必ず迎えに来る。だが、今はこの勇者を運ぶ方が先決らしい」

  

「アバル。ありがとう。恩に着る」

 

「勘違いするなタクボ。私も大きな責任を担っている身だ。何も約束は出来ん」

 

 そう言い残すと、アバルは風の呪文で去って行った。

 

 勇者と死神の戦いに腰を抜かして座り込んでいた冒険者達は、その様子を見て自分達は助かったと喜んだ。普段、信心深くも無い彼等も等しく神に無事を感謝した。

 

 だが、腰を抜かし依頼の仕事が出来ない事をこの時彼等は気づかなかった。

 

 

 ······薄れゆく意識の中で、勇者は夢を見ていた。命を落とした恋人がかつて勇者に言った。

 

「ソレット。私達の力で、世界を平和にしましょう」

 

 彼女は快活に笑いながらそう言った。それは二人にとっての誓約だった。勇者はその誓約を守ろうとした。

 

 だか、夢の中の彼女は悲しい表情をしている。


『なぜだジャスミン? 俺は君との誓いを守る為に魔族を倒そうとしているのに』

 

 ソレットは夢の中で亡き恋人の名を呼んだ。

 

 勇者ソレットは彼女に平手で殴られる夢を見た。自分が間違った道へ行こうと時、彼女はいつも平手で止めてくれた。

 

『俺が間違っていると君は言うのか? 君の仇を討つ事が······』

 

 勇者ソレットはアバルに担がれた時、朦朧としながらも意識が戻っていた。薄く開いた目にアバルの顔が映る。


 夢でジャスミンがソレットに言った。この真紅の髪の男は危険だと。亡き恋人の言葉を、疑う理由は勇者には無かった。

 

 


 

 ······小さな街は夕暮れを迎え、子供達は自分の家へ帰って行く。今日からここが自分の家。チロルは小さい宿屋の粗末な部屋を見渡した。

 

 古びたベットを端に移動させ、無理やり作った場所で大人達は酒を飲みながら騒いでいる。

 

「チロル! 今日はお前の誕生日だぞ。お前も飲め! いや酒は駄目だぞ。果実水を飲め」

 

 すっかり酔いが回ったチロルの師匠は、そう言ってまた麦酒を飲む。

 

 歳も誕生日も知らないチロルに、タクボは今日を弟子の誕生日と決めた。年齢は今日で十三歳にした。

 

「師匠。誕生日と言う物はいい大人が暴飲暴食をして過ごす事なんですか?」

 

「ああそうだ! 大人が羽目を外していい日だ。子供はもっと外していいぞ!!」


 弟子の真面目な質問に、タクボは堂々と不真面目に答えた。

 

 エルドが笛を吹き始めた。その明るい音色に、タクボはウェンデルと一緒にデタラメな踊りを始めた。

 

 サウザンドは人間の誕生を祝う儀式を、興味深い顔で観察している。

 

 そこに焼きたてのパイを両手に持ったマルタナが部屋に入ってくる。パイには十三本の蝋燭が並んでいた。

  

 食欲をそそる湯気がパイから立ち込める。そこに小さい火が灯った蝋燭を、チロルは不思議そうに見つめる。

 

「さあチロル。この蝋燭の火を消すんだ。ああ違う。息を吹きかけて消すんだ」

 

 チロルはタクボの言葉に素直に従い、息を吹きかけて十三本の火を消した。

 

 その瞬間、大人達は拍手を少女に送る。皆口々におめでとうと叫ぶ。チロルは無表情だ。この光景を先程から同じくキョトンとして眺めている。

 

 タクボが膝を床に着け、チロルの正面に向かい合う。

 

「今日と言う日を感謝しよう。人間を造った神と、お前を生んだ両親に」

 

 この時、チロルの中にある何かが止まった

。それは、これまでの人生で自分の正気を保つ為に無自覚で行っていた精神の。心の呼吸だった。

 

 少女はどこか息苦しい感覚に襲われた。身体も段々熱くなっていく。

 

「······分かりません師匠。どうして師匠が感謝するんですか?」

  

 一秒事に身体の中の何かの温度が上がって行く。この感じた事の無い感覚に少女は戸惑い、苛立ちすら感じた。

 

「お前とのきっかけを作ってくれた野良猫にも感謝しているぞ。明日は何時もより上等な餌をやろう」

  

「······分かりません。師匠」

  

 身体の熱は全身を覆った。チロルの小さい肩が震え始める。少女は本能的に察した。この感情は危険だと。自分自身を守っていた何かが壊れる。

 

「チロル。生まれて来てくれてありがとう」

 

 タクボはチロルを抱きしめた。

 

 チロルの全身の熱が頭に集まって行く。そしてその熱は、瞼の裏に全て注ぎ込まれた。

 

「わかんないっ!!」

 

 少女が叫んだ。大人達は少女を見つめる。チロルは子供の顔をしていた。それは、親の言いつけに駄々をこねる子供の顔だった。

  

 少女の瞼の熱が決壊した。それは大粒の涙となって小さい頬を濡らしていく。

 

「なんだ。お前、泣けるじゃないか」

 

 タクボはそう言って笑い、弟子の頭を撫でた。

 

「よし! 今宵は人間と摩族も一時休戦だ。サウザンド! お前も何か踊れ」

 

 タクボの叫び声に、狭い部屋の隅に立っていた死神は不敵な笑みを浮かべた。

 

「良かろう。遥か東方の果てで学んだ剣舞を披露しよう」

 

 サウザンドはそう言うと、ウェンデルの剣を持ち出した。

 

「ま、待てサウザンド! こんな狭い部屋で剣を振り回したら死人が出るぞ!」

 

 ウェンデルが絶叫する。

 

「じゃあお次は、荘厳な雰囲気の曲にするね!」

 

 騒然とした雰囲気もお構いなしにエルドが再び笛を吹き始めた。

 

 死神の剣舞が始まった。紅茶色の髪をした青年は椅子を盾にして斬撃に備えた。

 

 マルタナがエルドの曲に合わせて歌を歌う。少女の師匠は完全に酩酊して千鳥足だった。

 

 この夜、粗末な小さいな部屋から大人達の大声と笛の音色が何時までも夜空に響いていた。



 


 ······少女は月を見上げていた。チロルが立つ窓の中まで新月の光が射し込んでくる。部屋を見渡すといい大人達が行儀悪く寝転がっている。我が師は大口を開けて寝入っていた。

 

「眠れないのか? 少女よ」

 

 ただ一人姿勢正しく腰を降ろしていた死神が静かな声でチロルに問いかける。

 

「······はい。なんだか今夜は眠るのが怖くて」

 

 明日、目を覚ましたら今夜の出来事が幻になって消えないか。少女は正体が知れない何かに怯えていた。

  

「あの、聞いてもいいですか?」

  

 意を決したようにチロルは死神に質問する。

 

「なぜ皆は、私に良くしてくれるのでしょうか?」

 

 疫病神と言われた自分に、そんな事をしても何の得も無いのに。少女はそう思っていた。

 

 この少女に部下を殺されたのに、サウザンドはチロルを恨む気にはなれなかった。それは少女の生い立ちか。戦いの世のせいか。その両方が原因か。死神には判断がつかなかった。

 

「損得では無いな。この者達は、そなたを好いているのでは無いか?」

 

 全身を覆った熱の残り火が、再びチロルを包もうとしていた。

 

「······私の事を?」

 

 死神は頷く。

 

「そなたを好いているから、このような宴を開くのではないかな」

 

 チロルは胸に手を当てて心の中で呟く。


『まただ。また自分の感情とは関係なく心が暴れだす』

 

「そなたはどうだ? 皆の事が好きか?」

  

 チロルの表情が硬直する。両肩が少し震えているように死神には見えた。

  

「······はい。好きです! 皆の事が」

 

 チロルからこぼれたのは涙では無かった。それは、初めて心からあふれ出した笑顔だった。

 

 細い目を更に細めながら、死神は優しく微笑んだ。

 

 

 


 ······魔王がその居城としている城に、緊急の伝令が到着した。主君はもう就寝している為、伝令の兵士はサウザンドから留守を預かる副司令官の元へ急いだ。


 序列ニ位の副司令官は、工房に居ると教えられた。ついに勇者の剣の改造が完成したらしい。魔王軍の反撃が始まる。城の兵士達は活気づいていた。

 

 工房の扉の前で兵士は叫んだ。

 

「副司令官閣下! 伝令です。先日、勇者達に落とされた要塞で異変が生じました!」

  

 部屋の中から返事は無かった。不審に思った兵士は、扉を開け部屋の中の様子を覗う。

  

 誰かが倒れていた。一人では無く複数だ。よく見ると、それは魔王軍が誇る名工達だった。皆、血を流して絶命している。

 

 兵士は動揺した。一体誰がこんな真似を働いたのか。部屋の奥にもう一人倒れていた。その身体は

頭部が切断されていた。兵士は恐る恐る胴体から切り離された首を見る。

  

 兵士の絶叫が工房の外まで聞こえた。異変に気付いた兵士達が部屋に入ってくる。魔王軍序列ニ位。副司令官の死は城中を恐慌に陥れた。


 混乱する兵士達は気づかなかった。不幸にも殺された名工達が死にもの狂いで魔族仕様に改造し完成させた勇者の剣が消えていた事を。

 

 ある兵士が、工房の壁に刻まれた文字を見つけた。そこには〘青と魔の賢人達に死と苦痛を〙と血文字で書き殴られていた。


  


 

 




 


 

 

 


 

 


 


 

 

 

 

 



 




 

 

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