上なる如く、下もまた然り 1

 ちょっとした誰かのちょっとした手違いで、今すぐにでもこの世界は終わるのかもしれない、のだという。例えば、そのちょっとした誰かが、ちょっとした気の迷いで、「絶対押してはいけない」と言われたはずのあのボタンを押してみたり、あれとこれを混ぜてみたり、一人の夜に人生の意味を考えてみたり。

 それはもしかしたらこれから先の未来ずっと起こらないのかもしれないし、もしかしたら、今この瞬間にも、既に起こりつつあるのかもしれない。残念なことにそれを知るすべは、今のところ、どこにも見当たらないし、誰も知らない。


    ◆


 銀河標準時午前十二時過ぎ。宇宙ボリウッドミュージックを聞きながら、ジョーンズとシンロは馴染みの星間航行インド料理店『チャンドラヤーン3000号』で昼食を取っていた。その店は、店内の飾り付けといい、踊る男女の映像が永遠に流れ続ける旧式モニターといい、執拗なまでにインド料理店らしさを、いやステレオタイプなインドらしさを誇張するかのように存在していた。

 これには理由がある。

 かつて人類が地球のみにその生存圏を限定していたころ、人々の民族的アイデンティティは彼らの住む土地と密接に繋がっていた。だがしかし、人口爆発により人々が地球を離れざるを得なくなり、そして天の川銀河全域に散らばって住むようになってしまった現在、そう、地球のその全てが銀河政府の無機質な官庁ビルに支配されてしまった現在、もはや民族の文化の真髄は子孫の精神と電子アーカイヴの中にしか存在しない。このことに意識的にも無意識的にも気づいた人類は、自然とある変化を遂げた。自身の民族的ルーツの過剰な誇示を始めたのである。

 このことを想定出来ていなかったため、地球脱出期の当初、政府当局は植民惑星からの大量の戸籍照会に忙殺されることとなった。このような具合である。

 銀河政府の窓口担当者のホロ画面に黒人男性の顔が現れる。


「ヨーニガ。悪いんだけど、オレの戸籍見せてくれよ。頼むぜブロ。ヨーメーン」

「またか。かしこまりました。ええと、サムライ・シンゴロウさんですね……はいどうぞ」

「え? メーン、これ、おれの祖先がネグロじゃなくて日本人って書いてあんだけど、リアルシットなわけ? メーン? ニガ?」

「銀河政府に誤りはありません」

「あいや失礼した。それでは拙者、これにて失礼いたす。御免候、南無阿弥陀仏」

「あしまった。すいません大変失礼いたしました、今お渡ししたのはサモライ・シンタロウさんのもので、あなたは間違いなく黒人……切れてるな。まあいいや。はい次の方どうぞ」


 当初は広大無辺な宇宙における孤独感を癒やすためのヒステリー症状などと考えられたが、原因は未だ不明である。致命的な外科的治療の必要な新たな精神疾患だとも認定されかけたが、それを提唱したのが代々続く精神科医の子孫の経済学者であったため、後に完全に無視された。

 ともかく、このようにして、アメリカ人の子孫はより真のアメリカ人らしさを、中国人の子孫はより真の中国人らしさを、そして牡牛座の共産主義オイスターはより真の牡牛座の共産主義オイスターらしさを追い求め、アピールするようになっていったのである。『チャンドラヤーン3000号』の、経済的航行に支障を来たすほどの重量を持つ大量の飾り付けもそれが理由であった。

 ジョーンズはチーズナンを食べながら言った。


「今の写真をそこら中に貼り付けたらさ、おれのこと〈ナン食いジョーンズ〉ってことにならないかな」

「〈人食いジョーンズ、ナンも食べる〉って記事が書かれるだけだろ。多分な」


 シンロはラッシーを舐めながらそう答えた。少し間を置いてジョーンズが口を開く。


「〈なんとナンも食べる〉みたいな。ナンだけに」

「え?」


 シンロが言った。


「は? 何?」

「いや……ナンだけに……〈なんと〉みたいな……」

「ジョーンズ、悪いけどもう一度最初からはっきり言ってくれるか。録音するから。ほら。いいぞ。言ってくれ。さあ。ほら。頼む。言えよ。言え。言えって。ああ店員さん。ラッシーのお代わりを。はいありがとう。あと今からこの男が面白いこと言うからしばらくここにいてくれないか。そう。ありがとう。ああ、そこのあんたもだ。そう。はいどうも。さあジョーンズ、準備はいいぞ。さあやってくれ」


 そこにエアロックから現れたのは一人の背の高い、利発そうだが神経質な顔をした若い男である。ジョーンズはすかさずその場を脱すると男に駆け寄って言った。


「やあハンニバルさん! お待ちしておりました、ジョーンズ探偵事務所の代表、サイトウ・ジョーンズです。お会い出来て何よりです、どうもこんにちは。どうぞこちらへ」


 ハンニバルを席に着かせると、ジョーンズは続けて言った。


「いやどうもすいませんね、使えそうな待ち合わせ場所がここぐらいしか見つけられなくって。何せ事務所を今……燻蒸しているもんですから。虫が湧いてるとかで。宙港を出るときに衛生点検に引っかかったんですよ。全くツイてない」

「構わん。気にしていない」

「それはどうも。あー、えー、そうだ、なにかお飲み物でも……」

「結構だ」


 ハンニバルは機械化された腹部を見せるとそう言った。


「あ、左様で……ハハ」


 ジョーンズは指を組み、また解いて、窓の外を見て、星以外何も無いなあと思ってから、改めて聞いた。


「さてそれで……詳しいご依頼内容についてはお会いしてからとのことでしたが。どのような内容でしょうかね」

「わたしはハンニバル博士。この銀河一聡明で、そしてこの銀河一愚かな宇宙物理学博士だ」

「あー、なるほど……」

「これを見ろ」


 そう言ってハンニバル博士が取り出したのは大きなジュラルミンケースである。それを開くと、斥力が働いたケースの中央に、大きなガラス玉が浮かんでいた。その内部の空洞には、漆黒の闇と小さなたくさんの光が詰まっている。博士は言った。


「これはこの宇宙だ」


 それを聞いたジョーンズは、まず窓の外を指差し、自分を指差し、そして両手を上に向けると、肩をすくめて言った。


「なるほど」

「お前は何もわかっていない」

「ご明察です」

「『下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし』。これが世の真理だった。わたしはそれを証明してしまったのだ。図らずしも、このミニ宇宙を創り上げたことでな。十分に複雑であれば、それは現実そのものたりうるのだ」

「あー、その……」

「今になって思う。なぜこのことを予測出来なかったのか。わたしは愚かだ。自分自身で後始末も出来ぬほどに、愚かなのだ……」


 そこでジョーンズが興味なさそうにそのミニ宇宙に触れようとしたとき、博士は初めて表情を変えて叫んだ。


「やめろそれに触るなあああああああああああああ!」


 慌てて手を引っ込めたジョーンズが見た博士の顔は汗まみれで憔悴しきっていた。それを見てジョーンズは言った。


「す、すいません博士……ハハ……」

「しかたない。一度だけだ。一度だけ見せてやろう。お前を信じさせてやる。ホロフィードはつけておけ。証拠になる。いいな」


 シンロがフィードに駆け寄ってスイッチを入れる。それを見た博士はうなずくと、手袋を取りその細い指をあらわにさせ、ミニ宇宙に近づけ……その内部へと少しだけ侵入させた。


「ギャー!!」


 突然叫び声を上げたのはシンロである。急いで駆け寄ったジョーンズがシンロの指差す方を見ると、なんとそこには宇宙空間に浮かぶ巨大な細い指があった。それを見てジョーンズもシンロと同じ声を上げた。

 ホロフィードは今では大騒ぎになっていた。アナウンサーが動揺しながらも原稿を読んでいる。


「えー、皆さん、落ち着いてください、落ち着いてください。銀河政府の発表をお知らせします。きっとなにか、我らの偉大なる政府は適切な対処をしてくれることでしょう。では読み上げます。えー、『宇宙空間に浮かぶ巨大な指などという、非科学的なものは絶対的に存在していない。なお、銀河政府に誤りはありません。以上』……なんだこりゃ。おいクソ、やってられるか! 世界の終わりだぞチクショー! 神ってやっぱいるんじゃねーか! 不倫なんてするんじゃなかった! アーッ! もう終わりだ!」


 指周辺の現地リポートからは、終末思想グループの乱痴気騒ぎが届いていた。


「見てください、凄い騒ぎです、凄い騒ぎです! アーッ! 今また一隻指に突っ込んでいきました! 爆発です! 爆発です! 凄いですね、どうですか今のお気持ちは!」

「あ、えっと、世界がやっと終わるんだなって、そう思ってます。地獄のおばあちゃん見てるー!? 今いくよー!」

「ありがとうございます! どうですかあなたは? 今のお気持ちは?」

「ムフハハハ……我が予言の成就する時が今まさに訪」

「はいありがとうございます! 以上、現地からでした! この後私もすぐに突っ込みたいと思います! それではスタジオにお返ししまーす!」


 スタジオにはもはや誰もいなかった。

 ハンニバル博士が指を引き抜くと、そこには小さな焦げ跡がいくつもついていた。それを見せながら言った。


「こういうことだ。理解したか」


 ジョーンズとシンロは二人とも何度も頷いた。


「厳密には全く同じ宇宙ではない。基底現実であるこの宇宙とはほんのわずかにズレている、量子論的に隣接している別の宇宙を、このミニ宇宙から観察することができる。さっきのように介入さえできる。だがその結果、現実間の相互作用により、その隣接する宇宙で起きたこととほぼ同じことが、この宇宙にも起こってしまうわけだがな。今見せたとおり。このミニ宇宙に何かあれば、この宇宙も多大なる影響を受けるだろう。間違いなく。だから丁重に扱え」


 博士は椅子に背を預けると、うつむきながら言った。


「君たちにはこれを安全に処分して欲しいのだ。この宇宙のためにな」

「いや……その」


 ジョーンズは焦りながら言った。


「少し手に余ると言いますか……」

「ならば政府に頼むか? 担当者からは『そんな非科学的なものは存在していない』と言われたよ。実に典型的だ。それにわたしは君の経歴を見た上で依頼しているのだ。君ならわたしの依頼を問題なく解決してくれるはずだ」

「というのは……」

「わたしが依頼したいのはだ。わたしの開発したシステムで、このミニ宇宙へダイブし、このミニ宇宙を作り出す前のわたしを見つけ、そして殺せ、ということだ。そうすれば隣接宇宙との相互作用及び現実保存の法則により、全ての宇宙はわたしがミニ宇宙を作成しなかった宇宙へ、ミニ宇宙がそもそも存在しなかった宇宙へ改変されることだろう」


 ジョーンズは冷たい目で見つめた。


「殺しはお断りです」

「なに。殺しとはいえそれは隣接宇宙での、かなり現実の宇宙に近いがあくまでこの宇宙ではない世界での出来事だ。それに君は、全宇宙の命運とこの愚か者の命を比べて、どちらが軽いと思うのだね? 君には是が非でも成し遂げてもらうよ」

 

 ハンニバル博士は一息つくと続けて言った。


「わたし自身でカタをつけられれば良かったのだが。なにぶん、見ての通りわたしはただの学者だ、戦闘の技能がない。ミニ宇宙作成前のわたしが存在する隣接宇宙へたどり着くには何度かのダイブが必要なはずだ。その度にこの宇宙の現実との乖離は激しくなる。どこかの段階の隣接宇宙で想定外の状況に遭遇したときに、わたしでは無事に切り抜けられるかわからない。わたしがその状況の解決に失敗して、この宇宙で電子的に脳死状態になったら? 誰か邪まな者に、その状態のミニ宇宙を奪い取られたら? そう思うととても自分で試すことは出来なかった。助手はイカれてしまったしな」

「……」

「そういうわけで、誰に任せるか考えてきたときに思い出したのが君の事務所の広告、それに君の経歴だった。ジョーンズ君。あの悪夢から生還した君なら、きっと大丈夫だと信じている。きっとやれるはずだ。頼んだぞ。報酬は既に振り込んでおいた。ああ、好奇心に負けた愚かなわたしを、そしてこの重圧にもはや耐えることのできない脆弱なわたしを、どうか許してくれ。どうか……」


 そしてハンニバル博士は何気ない仕草で懐から電子銃を取り出すと、自らのこめかみに当て引き金を引いた。あっけにとられたジョーンズが止める間もなく、小さなピッという音と共に、この銀河一聡明で、そしてこの銀河一愚かな頭脳はイオン化して失われてしまった。


    ◆


「へえー、何、今度は宇宙を救うの? いいんじゃない」

「ちょっと待ってくれ」


 事務所兼星間クルーザーに戻ったジョーンズは目頭を抑えながら言った。


「ちょっと待ってくれ。なんで君がいるんだ」


 ジョーンズとシンロを出迎えたのはカリヤ捜査官であった。カリヤは言った。


「え、何、本気で気づかなかったの? 衛生検査なんて常套手段じゃない、あたしたちの」

「クソ、なんなんだ……あっ。まさかこの船になにかしてないだろうな……」


 ジョーンズは鬼気迫る顔でカリヤに言う。シンロはクンクンと嗅ぎ回りながら船内をうろつく。そしてあるコンソールの前で足を止めると、カリヤのほうを向いて唸り声をあげた。それを見てカリヤは言った。


「あ、凄い。ほんとに鼻が効くんだ。いやなんか、情が湧いちゃって……」


 カリヤはコンソールに近づいて立ち上げる。そこに表示されたのは身代金ウィルスの警告画面であった。

 それを見てジョーンズは叫んだ。


「何してんの! そんな……何! なんでウィルスなんて! もう! マジかよこれ!」

「ああ違うの、心配しないで。この子は前回の功労者なんだって」

「その通りですよ」


 スピーカーから電子音声が鳴った。


「あなたがたの理解の及ばない深遠なる経済的知識を持っているこのわたしに感謝するべきなのです、みじめな人間どもよ」

「冥王星から拾ってきたの」


 そしてカリヤは言葉を続けた。


「いい、ジョーンズ? あたしはここを隠れ蓑として潜伏して、当局の殺し屋から逃れる。あんたはそれを拒めない。なぜならあんたの船の電子ストレージは全てあたしの人質になってるから。わかった? 理解出来てる?」

「あー、まあ……はい」

「なら契約成立ね。いいじゃない、あたしも依頼があったら手伝うから。役に立つことはわかってるでしょ。ね?」


 それを聞きながら、シンロは遠い目をして言った。


「なんかこの船さあ、狭くなったよなあ……」


 ジョーンズは悲しい目でそれに答えた。

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