さいこ団地

以星 大悟(旧・咖喱家)

序幕その一

 高校を卒業して俺はすぐに家を出た。


 自分が育った高度経済成長期に作られた、郊外の次世代を謡うニュータウンが嫌で嫌で仕方が無くなり友人達の様に俺は父と母を置いて家を団地を逃げる様に出て行った。

 それから都心部の中小の企業に就職した。

 目の回る忙しない日々に揉まれて俺の中にあった団地と言う存在はどんどん薄れて行った。

 だがある夏の夜に母から電話があった。


 その日は嫌に湿った空気が流れ込む熱帯夜で俺は寝苦しさと僅かな隙間から侵入して来る蚊に悩まされて一向に寝付けず、そこでスマートフォンを操作して動画サイトに投稿されている作業BGMでも流そうと思っていたら、見た事がない番号から着信が来て最初は取引先の日とかと思って電話に出た。

 しかしそこから聞こえて来た聞き覚えのある声に俺は驚いてしまった。


「え!?母さん、詐欺じゃなくて?」

「あんたの母親の寿子だよ、馬鹿言っている暇が少しは帰って来なよ。あんたが家を出てからもう10年だよ、その10年間であんたは一度だって帰ってきていないんだ」


 母にそう言われて俺は罪の意識に襲われた。


 家を出てからもう10年も経っていた、そして俺は一度だって家に帰っていたなかった。

 別に仕事が忙しくて休日を返上して出勤していた訳でもなく、ただあの団地に戻るのが嫌だったからだ。

 俺はあの団地を嫌うあまり両親の存在を蔑ろにしていたのだ。


 後悔は先に立たずと良く言うがこういう切欠が無ければ、俺は今後も両親に会いに行かないだろう。そうなればきっと次は父か母に何か悪い事が起きない限り俺は戻らないと確信出来た。

 両親が元気な内に社会人として立派に成長した自分を見せなければと強く思った。


「分かったよ母さん、そうだな、えぇと・・・来週辺りに帰るよ」

「そうかい、


 その時、俺は奇妙な違和感を覚えた。

 その違和感の正体は分からなかったが、ただ一瞬だけ母の声が変わった様に感じられたからだ。

 不明瞭な違和感に不安になる俺を無視する様に矢継ぎ早に母は質問して来た。


「んで、時間は何時になりそう?」

「時間、あ、母さん俺車持ってない。バスだから調べないと分からないよ」

「そうかい、


 まただ、俺はまた違和感を感じた。

 この名状し難い違和感は何だ?

 母の声が別の何かに聞こえてしまったこの違和感は何だ?

 いやきっと10年ぶりに母の声を聴いたから、変に感じるだけだ。

 俺はそう思う様にしてふと、疑問に思った事を母に聞いた。


「そう言えば母さん、何時から電話なんてするようになったんだ?親父もそうだったけど夫婦揃って電話嫌いで、ずっと手紙だけでやり取りしてたのに」

「・・・・・・・・」

「母さん?」


 俺の質問に母は突然、黙ってしまった。

 電話の先からは奇妙な程に音が聞こえなかった、まるで最初から電話などしていなかったかの様に静かだった。

 それに俺は強い違和感を感じてもう一度だけ母の名前を尋ねる事にした。


「母さんどうしたの?どこかわる――――」

「ッブツ」


 俺が言い終わる前に母は電話を切ってしまった。


 俺の奇妙な強い違和感は母とのやり取りを終えて晴れる所かさらに強く感じる様になっていたが、それは何なのか皆目見当がつかなった。

 それでも漠然と目の前にある違和感に俺は強い不安を覚えた、それは両親に何かあったのか?ではなく例え様のない不明瞭な名状し難い違和感に対する強い不安と恐怖だった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 それから週が明けて俺は駅前のバスターミナルに来ていた。


 幸いな事に仕事は順調に進み、当初の予定通りに帰省する事になったがその時になって俺は土産を買い忘れている事に気が付いてバスが来るまで時間があると急いで駅の近くにある百貨店の食品売り場でクッキーの詰め合わせを買ってそして今現在、俺はバスが来るのを待っていた。


 まだ本格的な夏が始まっていないのに刺す様な日差しに肌を焼かれ蒸し返る様な暑さに息苦しく早くバスが来る事を祈っていた、文明の世界であるクーラーの利いた場所に行きたいと強く思っても時刻表は残酷にも30分後に来ると無慈悲に俺に教えて来る。


 待っている間、何をしようと考えるが残念な事に俺は特にこれといって趣味が無い。

 スマートフォンは仕事で必要だからと持っているだけで何かゲームでもしている訳ではなく、待っている間に何か漫画なり小説なりをアプリで読めば良いと思うも、そもそも俺の使っているスマートフォンは初期の状態にSNSのアプリを一つ二つ入れただけの状態で、何より使い方をちゃんと理解している訳ではないので下手な操作をして料金が発生しないかと不安から何かアプリを入れようとも思えなかった。


「暇で死にそうだ、暑さでも死にそうだ、陽射しにも死にそうだ」


 俺がそう愚痴を零してもバスが早く来る訳でもなく根気強くバスを待ち続けるしかなかった。


 だからだろう、今まで忙しさで忘れていた強い違和感を再び思い出してしまった。

 そうあの違和感は何だったのだろうか。

 そもそも俺の知る両親は息子が帰って来ない事を気にしない所か僅かながらも喜んでしまう人達だった。


 両親ははっきりと言えば似た者同士が結婚した悪い例だった。

 些細な事で口論になり物投げたり壊したりの喧嘩を何度もしていた、それに俺が少し反抗的な事を言えばそれだけで怒り狂って暴力を振るう人達だった、いや違う。


 あの団地に引っ越してからそんな人達になってしまったのだ。


 前から少し考えの違いから軽く口論になる事はあってもお互いが引いてそれで終わっていたのに、団地に引っ越してからは父は怒りっぽくなり、母は感情的になってしまった。

 それから変な宗教を信じ始めて電話は脳を駄目にすると言い出したりテレビを見ると洗脳されるなど言い出して、俺が家を出る頃には両親と全く会話をしなくなっていた。


「何でだろうな、何で会いたくなったんだろうな」


 俺はそう呟くと同時にバスが定刻をしっかりと厳守してバス停に止まった。

 俺はバスに乗るのと自分の降りる団地前の料金を確認しようと電光掲示板を見る。


 何度も確認したし、一からちゃんと順を追って見たが団地前という表記は無かった。

 バスが動き始めてもなお確認するが、そこには団地前は無かった。

 俺は昔の記憶を引っ張り出してふと気付いた。

 市立第一小学校前と商工会議所前の間にあった団地前を始めとする表記が無くなっている事に、俺はすぐに立ち上がって運転手に確認しようと思ったが隣に座っていた老婆が俺に話し掛けて来る。


「ねえお兄さん、もしかして団地前を探してるのかい?」

「っえ!?何で分かったんですか?はい、団地前を―――」

「団地前はもうないよ、市民病院も、運動公園前も、全部無いよ」

「無いって!?何で!?


 思わず声を荒げてしまい同乗している乗客から睨まれ、俺は大人しく座席に座り老婆に声を荒げた事を謝罪して何故、団地前を始めとした路線がごっそり無くなったのか尋ねた。


「さあね、よくは知らないけどもう出てないよ」

「そんな、あそこには両親が住んでいるんです。久しぶりに会いに行くんです」

「そうかい、なら小学校前で降りて時刻表が書かれていないバス停で待っていると良いよ」

「時刻表の無いバス停?」


 自分の記憶の中をいくら探っても時刻表の書かれていないバス停なんて小学校の近くには無かった。


 だが老婆ははっきりと言った、なら本当の事なんだろう。


 俺は老婆にお礼を言って小学校前で降りて時刻表の書かれていないバス停を探した。

 一時間近く歩いたのか、それとも数分だけ歩いたのか蒸し返る暑さで時間の感覚がぼやけていたがバス停を見つける事が出来た。


 そして驚いた。


 その時刻表の書かれていないバス停は小学生の頃に何度も利用していたバス停だったからだ。

 廃線になったがバス停だけは残されたのか、俺はそう思ったが車の音が聞こえて振り向くと見慣れた緑色のバスが見えた。


「何だ、普通に走ってるじゃないか」


 俺はそう思い、停車したバスに乗ると唖然とした。


 電光掲示板には何も書かれていなかったからだ。


 どういう事だと運転手に聞こうとしたが、すぐにやめる事にした。

 俺は運電種の顔を見て恐怖感を覚えた。


 恐ろしく青白い顔、病的なまでに生気を感じさせない顔に俺は不安になり座席に座って早く団地につくことを祈った。

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