第4部 エピローグ

ニューヨーク、マンハッタン島。

ミッドタウンの一画にある高層マンションの最上階。

鉄道事業部を交え、本社で行われた初の事業別経営会議を終えた夜のこと。


パジャマ姿の黒羽蓮は、眩いビル群の夜景を背景にリビングのソファー座り、膝の上に乗るノート型パソコンを立ち上げた。

その隣には、バスロープ姿のディーンが、ビールを片手にいつものように陣取っている。

だが今夜は、その組んだ長い足の上には、帰りがけに眼鏡の秘書から渡された急ぎの書類が置かれ、ソファーに腰を下ろして以後、なにやら熱心に読み込んでいた。



蓮は、懇意にしているハッカー達が集う、秘密のサイトへとアクセスしていた。

幾重にも厳重なプロテクトをかけられ、サイトの管理人から複数のアクセスキーを貰った者しか辿り着けない、プライベート・サイトである。

フランスから帰国して以後、経営会議の準備に追われて、サイトを訪れたのはあの時以来だ。

その中のチャットで、列車を止める為に協力してもらったハッカー達に、まずは協力してくれたことへの礼を述べる。

そして、フランス在住のハッカーには、最大級の賞賛を送った。

――貴方は最高です。


「そいつが誰なのか、知っているのか?」

チラリと画面上のやり取りを一瞥してのディーンからの問いに、蓮は微妙な笑みを浮かべた。

「前にジェントリー・ハーツに居た頃、フランス高速鉄道とイギリスの航空会社とのM&Aを手がけたんですけど、その高速鉄道会社の方です」

そして、ひとつのファイルを開ければ、禿げた60代くらいの男の顔写真とともにプロフィールが綴られている。

「元運転士で、高速鉄道会社の組合代表のひとりです。両社が初めて顔を合わせたM&Aの会議の席で、吸収合併されると思い込んだ彼は、興奮してイギリス側にハンドルネームとなったあの言葉で文句を言って、皆を驚かせたことがありました。本人は英語があまり分からないようで、ファック ユーのつもりで言ったらしいです」

淡々と説した後、蓮は肩をすくめてみせ、プロフィール欄にハンドルネームを書き込む。

「それに、ファック ミーさんのプロフィールは、パリ在住で、ガンゲーム系のオンラインゲームマニアっていう部分も彼と共通しているし、どちらもジャパンの同じアニメをこよなく愛しています。ついでに二人とも独身で、母親がプロヴァンスの介護施設に入っているのも同じでした。――だから、おそらく同一人物かなって感じです」


やけにその組合代表に詳しいことにディーンが眉をひそめれば、その心中を察して先回りした蓮が屈託のない笑みを向けた。

「ディールに支障がないように、初顔合わせの時に速攻で参加者のプロフィールを調べました。でもまさか、ネット仲間の一人だったとは思いませんでしたから、その時はすごく驚きましたよ」

感嘆の色濃いトーンに、オーナーはため息をついた。

「お前、初顔合わせの会議の席で調べたのか?」

その問いに、欧州経済界が注目するM&Aの天才は、キョトンとした眼差しを向ける。

「そんなの、当然でしょう? 反対勢力の思惑の先を読んで飴と鞭を使い分けないと、ギリギリの状況のディールには勝てませんよ」

そして、深くため息をついた。

「あの時は、クロスボーダー、国際間でのM&Aでしたし、双方が破綻寸前とはいえ、どちらもプライドだけは一人前でしたから。今、思えば、オレもかなりナーバスになっていました」

そんな、しみじみと過去を振り返る男に、ディーンは興味津々な紫の瞳を向ける。

「それで? どうやって、そいつを黙らせた?」

その問いに、蓮はにっこりと笑みを返した。

「プロフィーから、彼が苦労して運転士の資格を取り、難関企業的に奇跡的に入社したことが分かりました。依って、彼は会社をこよなく愛し、オレが提案した業務提携案の敵ではないと判断して、彼だけにそっとフランス側の有益になる情報を漏らしました。その後、彼が頑張ってくれたおかげで、組合という手強い障害を味方につける事が出来ましたし、ディールも無事に終わる事が出来たんです」



「――全て、お前の思惑通りにな」という言葉を飲み込み、ディーンは苦笑を天才へと向ける。

実のところ、出会ってからずっと、蓮の言動に対して気になっている事があった。

――蓮はいつでも、身近な人間にさえ、客観的なものの見方をする。


ディーンは書類をソファーに投げ出すと、内心を悟られない体を装って、唇に瓶の口を当てながら問いかける。

「ところで、お前の事は、ネット仲間の連中は知っているのか?」

一方の蓮は、ディーンに対して全く警戒する素振りもなく、緩く首を横に振ってみせた。

「ネット仲間の中で、リアルでオレ個人を認識しているのは、大学時代の知人の2人だけです。その二人とは、普通に個人名でメールでやりとりもしている関係です。でも、他の皆さんは、オレの事を女だと思っている人もいるし、投資家とか銀行員みたいな職業か、最近では、旅行関係の仕事をしていると思っている人もいます」


「ところで、ちょっと聞きたいんですけど……」と、一旦言葉を止めると、蓮は美丈夫な顔を透明感あるエメラルドの瞳でじっと見つめ、問いかけるように小声で呟いた。


「……ファック ミー?」


だが、その呟きが耳に届いた途端、ディーンは口に含みかけたビールにむせ、「お前な!」と咳き込みつつも怒った顔を蓮へと向けた。

その珍しく慌てた反応に、張本人の蓮は緑の瞳を丸くして不思議がるように問いかける。

「さっき、チャットの中でファック ミーさんにお礼を書き込んだら、他の人達がやけに盛り上がっているんですけど、そんなにあの言葉に興奮するものなんですか?」

そんな呑気な青年を、ギロリと紫の瞳が睨みつけた。

「イギリス感覚でピンとこないだろうが、お前はスラングを言葉の意味だけで捉えすぎだ。アメリカ感覚では、お前のような奴なら尚更、相当危険な言葉だ。二度と外では言うなよ」

だが蓮は、その警告を受けてもなお、さらに不思議そうに首を傾げる。

「そんなにマズイ感じなんですか? だってそっち系の意味より、オレは何て事を仕出かしたんだ、って後悔する意味の方が普通でしょう? ――ファック ミーのスラングって」


一向に危機感のない青年に、ディーンは苛立ったように粗雑にビール瓶をテーブルに置く。

「――やっばり、大人しく言う事をきく気はないようだな?」

そして、蓮へと向き直った。

表情や声には、いつもの揶揄するようなトーンは皆無だ。

「なら、もう一度言ってみろ。俺が身をもって教えてやる」


いつの間にか、そのバイオレットの瞳には、蓮が見た事のないギラギラとした光が輝いている。

「た、たかがファック ミーのスラングについて、聞いただけです。大体、オレがそういうことに縁がないからって、からかうのは――」


だがディーンは、唐突に人差し指を蓮の唇に置き、慌てて抗議しはじめた言葉を無理やり止めた。

そのままディーンの人差し指が、誘うようにススッと下唇をなぞる。

また、欲の光が灯った紫の瞳は、驚きで見開かれた緑の瞳を覗き込むように見つめる。

「そう怯えるな。――それとも、ガキには刺激が強すぎるか?」

いつもと違うセクシー過ぎる雰囲気を纏う男に、蓮の顔が瞬間沸騰したように熱くなる。

間髪入れず、そんな無防備な蓮の手首を大きな手が強引に捕まえ、力任せに身体ごと引き寄せた。

咄嗟の事で、引き寄せられた勢いそのままに、蓮は飛び込むようにその腕の中に囚われる。


「い、今まで言ったことはなかったですけど、オ、オレはゲイじゃありませんよ!」

「俺もだ。――だが俺は、お前がそれほど望むなら、無下に突っぱねようとは思わない。一応は、努力する用意はある」

混乱して大慌てて捲し立てる上ずったテノールボイスに続き、色気全開のバリトンボイスが囁くように宣言した。

バスローブの間からのぞく筋肉質な厚い胸板に火照った頬が直に当たり、その感触と体温に混乱して身動きひとつ出来ない蓮の頭上から、さらに艶のあるバリトンボイスが降ってきた。

「お前みたいな隙だらけの奴が、そういう言葉を軽々しく口にすれば、簡単にこういう事態に陥るし、喜んで手を出してくる輩も、アメリカには吐いて捨てるほどいる」


馴染みのない不穏な体勢と甘い声に、思わず蓮は息を飲み、囚われた腕の中で身を竦めて緊張すれば、ディーンはひとつ軽く息を吐きだした。

そして、僅かに背に回した腕の力を緩める。

大きく見開かれた潤んだエメラルドの瞳を確認するように、じっとアメジストの瞳が覗き込み、ようやく満足気に口の端を上げた。


「――本気にするな、馬鹿」


そして、それまでの緊張感漂う雰囲気を拭い去り、してやったりの笑みを向けて、あっさりと蓮を解放する。

「とにかく、真面目に言っているんだ。これに懲りたら、今後は不用意にFワードを口にするなよ」



刺激に煽られて返事も返せず呆け続ける青年を一瞥すると、ディーンはスマートな所作で「先に寝るぞ」と何事も無かったかのように、振り返ることなく寝室へと行ってしまった。


後に残され、熱に当てられたように真っ赤な顔で放心状態のまま座り込んでいた蓮は、唐突に鳴ったメールの着信を知らせる音にハッと我に返る。

「……何だよ。自分はいつも、そのFワードを連発しているくせに」

悔し紛れの愚痴を漏らすものの、同意してくれる者がいるわけでなく、居心地の悪さに仕方なしにパソコンに向かえば、Fワードに盛り上がり続けるネット仲間に対応するのも面倒になってくる。

結局、適当な理由をつけてネット仲間たちに退出を告げ、サイトから速やかにログアウトする。


続いて、メールの着信フォルダを開ければ、最近出来たメル友たちから、何通か届いていた。

フランスから帰国してから、鉄道事業部の経営会議に向けての準備に追われ、最近作ったメールグループのチェックを放置していたのは事実だ。


――元気? 今度、彼はアメリカに残して、南欧においでよ。君を案内したい場所がありすぎて、選べないくらいだよ。俺は、もっと君を知りたいんだ。君に会いたい。


まるで不倫を誘うような熱烈なアプローチの文面に、からかいの笑みを浮かべたカエサルの顔が浮かぶ。

だが、続く同じ差出人からの2通目に、蓮は眉をしかめた。


――それと、言い忘れていたよ。エスメラルダの名は、残念ながら彼に却下されちゃったから、今度からは、君の事はオディールって呼ぶことになったんだ。

白鳥の湖の、黒鳥オディール。

黒羽という名を持つ綺麗な黒髪の君に、ピッタリだろ? 

今度は、ロットバルトにバレないように気をつけるよ。


「何で、いつも女性名なんだよ。でもまあ、ハンドルネームとでも思えば、別にいいか……」

ポツリと小さな不満を零して、最新で届いたメールを開く。


――お前、カイザー様にメールしたのかよ。毎日、スマホを見てはソワソワしていて落ち着かないみたいんだ。


そういえば、彼らと別れた翌日届いたリーンハルトからのメールを放置していた事を思い出した。


――迷惑だろうけど、頼むから連絡してやってくれ。アサドの命がかかっている。

それと、魔王には、あくまでも内密にな。絶対にバレないように気をつけろよ。


改めて読み返せば、なかなかに物騒な文面に眉をひそめるが、リーンハルトから彼の主に挨拶して欲しいと頼まれていたことを忘れていた。。


おそらく、彼らとやりとりしている事を知れば、きっとディーンは良い顔しないだろう。

だが、ディーンはすでに寝室に行ってしまった。

再三、メル友たちから警告される「ディーンには秘密」というミッションに、もしかして今こそが返信を返す好機と悟り、蓮は気を取り直して返信ボタンをクリックする。

「さてと、まずは件名か。――返信遅れてごめんなさい、なのかな。それとも、いつもロットバルトがお世話になっております、かな? うーん……」


新たに出来た大家への小さな秘密に、先ほどまでの心臓の高鳴りを、悪戯心が生み出す高揚感へとすり替えて、蓮の10本の指が意気揚々とキーボード上を舞いはじめる。


アメリカ合衆国、ニューヨーク市。

――マンハッタン。


宇宙空間から見下ろしても、なおも暗闇の中に煌々と存在を主張するその街は、深夜の時間帯が近くなっても尚、その輝きを失うことは無い。

深夜を迎えてクロージング中の世界金融の中心地で、新たな世界の扉を開けて踏み出したばかりの黒羽蓮は、さっそく返ってきた返信に、にっこりと穏やかな笑みを浮かべた。

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